{column0}


(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

連帯の原理(明治11年7月13日、モース、北海道に向けて横浜港を立つ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モース

明治11年7月13日(1878年。 モース(40歳)が、北海道へ向けて横浜港Map→を立ちました。

モースは3度来日しましたが、この時は2度目(明治11年4月〜明治12年9月の1年と4ヶ月超)で、北海道から東北、九州と駆け巡りました。

横浜を出て3日後の16日、函館はこだて Map→に着くと早速実験室を設け、 腕足類わんそくるい “生きている化石”と呼ばれ、進化論を研究する上での重要な生物)を曵網ひきあみで採集します。大森貝塚の発見者としてよく知られるモースですが、彼の来日の大きな目的は、日本に豊富に生息する腕足類の採集にありました。

モースの日本の文化・習俗全般に対する関心は凄まじく、日本で目にした珍しいもの・ことを かたぱし からメモし膨大な記録を残していきました。函館に10日間滞在したあと、船で尾島おしま半島を回り込んで小樽おたる Map→に行きますが、宿の近くにアイヌの住宅があって儀式があると聞いてはじっとはしていられません。

儀式のある小屋は大きな四角い部屋が1つあるだけで、その床の中央に炉が切ってあり、顎髭をたくわえた長髪のアイヌが3人、大きな酒の盃を囲んで両足を組んで座っていました。彼らの1人が、熊の頭蓋骨を棒の先に刺して戸外に祀ったものや、部屋に差し込む光、その他室内のあらゆるものを礼拝し、独特な仕草で踊り出したとモースは記しています。

モースが描いたアイヌの儀式の様子。棒に熊の頭蓋骨を刺したものが窓の外に見える ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『日本その日その日(2)』(モース) モースが描いたアイヌの儀式の様子。棒に熊の頭蓋骨を刺したものが窓の外に見える ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『日本その日その日(2)』(モース

アイヌにいい印象を持っていなかったモースですが(制圧者が語る被制圧者に関する侮蔑的な話をモースもさんざん聞かされていたのだろう)、アイヌの3人は皆賢そうに見えたと書いています。

アイヌの顔は本土人と大きく異なりヨーロッパ人に近いとモースも感じました。アイヌは顔の彫りが深いので、長い間、コーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきました。この認識は後年(1960年代)、総合的な調査によって修正されます。歯の形などを見ると、アイヌは明らかにモンゴロイド(アジア人)なんだそうです。

しかし、アイヌは形質的には一般的なモンゴロイドとは異なり、その謎が、考古学者や形質人類学者たちを悩ませてきたようです。アイヌは現在のモンゴロイドが成立する以前(コーカソイドとモンゴロイドが分化する以前)のモンゴロイド(原モンゴロイド)と推測されています。

現在では、DNA(細胞の核の染色体を構成する4種の物質。遺伝子を作る)の解析や、骨のコラーゲン(動物の骨や皮膚を構成するタンパク質)の解析などの技術が進み、アイヌがどこからきて、なぜ、北海道を中心に分布するかが明らかになってきました。その昔(紀元前1万年以上も前から)北海道から沖縄まで分布した縄文人は均一な形質(顔の彫りが深い)と似た心性(連帯の志向。不平等の忌避)を見せていましたが、紀元前1,000年頃、朝鮮半島から水稲耕作文化を携えて渡来人が九州北部に進出、縄文人と混血を繰り返しながら本州全土に広まっていったと考えられています(弥生時代。本土人・和人の誕生)。そして、その本土人の影響が及びづらかった遠方、山岳、海洋に住む人々(沖縄方面の人々、北海道方面の人々、西日本の漂海人、山人など)に、縄文人の形質と習俗が色濃く残ったようなのです。沖縄方面の人々が琉球人の祖先であり、北海道方面の人々がアイヌの祖先であり、両者の形質と習俗(イレズミなど)に共通点が多いのはそのためなのですね。

モースは興味深い体験をしています。日本の品々を収集していたモースは、アイヌの家の壁にぶら下がっていた矢筒の1つを売ってくれと交渉しました。しかし1ドルから始め500ドルまで値を上げてもそのアイヌは首を縦に振りませんでした。すると、何を思ってか、そのアイヌは矢筒から矢を1本抜き取ってモースにプレゼントしてくれたというのです。アイヌはモノを売買するのを忌避し、贈与の形を取ることを良しとしました。贈与し合うことで、互いの連帯を確認したようなのです。富に偏りが出ないようにするアイヌの知恵だったのでしょう。

モースが描いたアイヌの矢筒 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『日本その日その日(2)』(モース) モースが描いたアイヌの矢筒 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『日本その日その日(2)』(モース

モースはこんな体験もしています。陸生の貝を採集しているとき、数名のアイヌに厳しく抗議されたというのです。モースは「彼等の墳墓を探っているものと考えている」と思いあたり、その場から退散しました。

実は、昭和14年から昭和31年にかけ、北海道帝国大学(現・北海道大学)が研究を目的に、北海道・千島・樺太の各地から1,004体ものアイヌの遺骨を“収集”したことがありました。遺族に無断であったり、ときには反発するアイヌたちを警察を使って排除したりして。モースが抗議されたのは明治11年ですが、その頃にはもうアイヌの墓が荒らされることがあったのでしょう。モースも知っていたということは、かなり大々的に、当たり前のように、罪悪感もなく行われていたのかもしれません。「“劣る人たち”は“優れた人たち”に蹂躙・支配・淘汰されて当たり前」といった帝国主義的発想に日本人も毒され始めていたのでしょうか。

アイヌの遺骨問題は現在も続いており、近年(平成28年7月)、12体のアイヌの遺骨が北海道大学から戻り、再埋葬されたと報道されました。しかし、現在でも、北大を含め全国12の大学で、計1,636体のアイヌの遺骨が慰霊されないまま“保管”されているようです。

あと、もう一つの問題は、今なお誇り高く生きるアイヌを中傷してやまない心なき人がいること。アイヌはもういないなどとほざく人もいました。アイヌを蹂躙した本土人の歴史をないことにしたいのか、批判される前に相手を侮辱しどっちもどっちに持ち込もうというのか・・・。中国・朝鮮や東南アジアに侵略してそこに住む人たちを蹂躙した日本の歴史に蓋をしたい人たちと、アイヌを侮辱する人たちはほぼ重なっているような気がします。

モースは北海道に赴いた年の翌年(明治12年)、大森貝塚を作った人々(縄文人)の遺跡に食人風習の痕跡を見つけ発表しています。大森貝塚を作った人々をナウマンハインリヒ・フォン・シーボルトやジョン・ミルンはアイヌとしたのとは異なり、モースがプレ・アイヌ(アイヌ以前の先住民族)としたのは、北海道で出会ったアイヌたちがあまりに温厚だったので、食人と結びつけることができなかったからかもしれません。

瀬川拓郎『アイヌと縄文 〜 もうひとつの日本の歴史〜 (ちくま新書)』 井上勝生 『明治日本の植民地支配 〜北海道から朝鮮へ〜(岩波現代全書)』
瀬川拓郎『アイヌと縄文 〜 もうひとつの日本の歴史〜 (ちくま新書)』 井上勝生 『明治日本の植民地支配 〜北海道から朝鮮へ〜(岩波現代全書)』
『アイヌ神謡集 (岩波文庫)』。19歳で世を去ったアイヌの少女・知里幸恵が残した宝物 中川 裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」 (集英社新書)』。イラスト:野田サトル
『アイヌ神謡集 (岩波文庫)』。19歳で世を去ったアイヌの少女・知里幸恵が残した宝物 中川 裕『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」 (集英社新書)』。イラスト:野田サトル

■ 参考文献:
●『日本その日その日(2)』(モース 平凡社 昭和45年初版発行 昭和49年4刷参照)P.127-188 ●『私たちのモース ~日本を愛した大森貝塚の父~』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成2年発行)P.30 、P.67、P.72 ●『アイヌと縄文(ちくま新書)』(瀬川拓郎 平成28年発行)P.8、P.14-15、P.40-45、P.219-220 ●『大森貝塚(岩波文庫)』(モース 昭和58年初版発行 昭和63年5刷参照)P.49-54 ●『日本考古学は品川から始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』(東京都品川区立品川歴史館 平成19年発行)P.30、P.40 ●「アイヌへの中傷 野放し?」※「東京新聞(朝刊)」/「こちら特報部」(平成28年4月28日掲載) ●「闘い40年 差別の歴史消えず 研究名目・・・今も全国に1600体」※「東京新聞(朝刊)」/「こちら特報部」(平成28年5月16日掲載) ●「遺骨12体 北大から返還 80年 歳月超え再埋葬 遅れるアイヌ民族の人権回復」(木村留美) ※「東京新聞(朝刊)」/「こちら特報部」(平成28年7月24日掲載)

※当ページの最終修正年月日
2023.7.12

この頁の頭に戻る