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「城南の米蔵」を支える(享保11年1月28日(1726年)、「六郷用水」の大改修が終了する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

呑川のみがわの「浄国橋じょうこくばし 」(東京都大田区池上 Map→)近く。「 六郷ろくごう 用水」の流路を生かして緑道が設けられている(「六郷用水緑道」)。人々の生活を支えた「恵の水」に想いを馳せ、その路をたどる

田中休愚
田中休愚

享保11年1月28日(1726年。 田中休愚きゅうぐ(63歳)の指揮で行われた「六郷用水」の大改修が完了、この日より毎日2、3人で水路を見回るようお達しがあります。

徳川家康 小泉次大夫
小泉次大夫

多摩川(東京都と神奈川県の境を流れる)の下流域は東京湾からの塩水が混ざった 汽水きすいで、耕作には不向きでした。徳川家康が関東入りしたのは天正18年(1590年。家康47歳)で、その7年後の慶長2年(1597年)から、「六郷用水」の開削が小泉 次大夫じだゆう(58歳)らの手で進められました。幕府領の治水・灌漑かんがいは、その地を直接治めた郡代や代官の役割とされていたようです。

そして15年の歳月を費やして、慶長16年(1611年。家康68歳。小泉72歳)に完成。その後100年が過ぎて、田中を中心に大改修がなされたのです。用水の幅を広げ、「南北引き分け」(用水が大きく分岐する箇所)もこの頃完成しました。80年ほどした文化5年(1808年)には、幕府の役人に転身した大田南畝(59歳)もその管理に携わっています。「六郷用水」は「城南の米蔵」を支えました。

「六郷用水」は、東京都狛江こまえ和泉いずみ を始点に、東京都大田区の多摩川河口付近までのおよそ23km。野川のがわにぶつかった後は、多摩川とほぼ並行して南東に伸び、「南北引き分け」で「北堀」(現在の「大森駅」方面に伸びる)と「南堀」(現在の「羽田空港」方面に伸びる)に分かれ、「たこ の手」といった箇所で複雑に枝分かれしていました。

大正時代頃から当地は急速に都市化が進み、農業用水の需要が少なくなって、排水路として転用されるようになります。地下下水道の設置によってそれも不要となりました。

「六郷用水」はほぼ失われましたが、昭和末年頃より、歴史保存と環境整備の観点から、復元活動がさかんになります。東京都大田区西嶺にしみねから田園調布にかけて流路だったところが緑地化・散策路化され(東京都大田区西嶺町25-20 Map→)、その他の箇所にも案内板や案内タイルPhoto→などが設置されるようになっています。

下の図は、「六郷用水」の概略です(丸写真をクリックすると小さなウィンドウが開きます)。

六郷用水地図 六郷用水取水口 次大夫堀公園の復元された流路 南北引き分け 蛸の手
「春日橋交差点」(「春日橋交番」(東京都大田区中央二丁目1-1 Map→))から「大森駅」方面へ右斜めに入る細い道は、曲がり具合が「北堀」の支流の流路を思わせる 「南堀」の末流の一つに昭和6年に作られた「六郷水門」(東京都大田区南六郷二丁目35 Map→)。排水処理のためのもの(「六郷用水」は排水路に転用された)。
「春日橋交差点」(「春日橋交番」(東京都大田区中央二丁目1-1 Map→))から「大森駅」方面へ右斜めに入る細い道は、曲がり具合が「北堀」の支流の流路を思わせる 「南堀」の末流の一つに昭和6年に作られた「六郷水門」(東京都大田区南六郷二丁目35 Map→)。排水処理のためのもの(「六郷用水」は排水路に転用された)

「六郷用水」は末端にゆく程に網の目のようになって広がり、主に水田を潤しました。次大夫(小泉次大夫)は同時期に多摩川の対岸(神奈川県側)にも「 二ヶ領にかりょう用水」を作っています。「六郷用水」と「二ヶ領用水」を合わせて「四ヶ領しかりょう 用水」と呼ばれ、両用水で110の村の3,300ヘクタール超の田に水を供給しました。

家康がこの地に目をつけたのは、江戸に近く、多摩川から江戸湾(東京湾)の水運を利用して、城米じょうまい(天領(幕府直轄地)からの年貢米)が確保できると考えたからのようです。「六郷用水」側(多摩川の東京側)の水田は、川の近くまで武蔵野台地が迫っており(「国分寺崖線がいせん」を形成)、そこからの湧水わきみずを利用した水田と、呑川のみがわ内川うちかわといった小ぶりの川の流域に限られていました。「六郷用水」の開発により、広い範囲で米が取れるようになったのです。

「六郷用水」は農業用水ですが、人々は生活用水はどうしていたのでしょう?

上でも触れた国分寺崖線の崖下( 谷頭こくとう )からの湧水が一番利用されていたようです。

井戸を深く掘る技術がなく、広い範囲を掘って水源に達する方法が取られていました。安定して水を得ることができる 深井戸ふかいど (30m以上掘り岩盤の下の地下水を利用)の普及は意外に遅く、1700年代の終わり頃になって、 上方かみがた から鉄棒を使って深く掘る技術が伝わって普及しますが、江戸周辺の農村部にまで広く行き渡るのは1800年代とのこと。

明治になって、当地(東京都大田区)は東京近郊の住宅地として期待されましたが、飲用水の質が悪く、新しく住まう人がさほど増えなかったようです。水の節約から伝染病も多かったようです。飲用水は、井戸水だけでは足りず、川の水(汚れないうちに朝方汲みに行く)や天水に頼らざるを得ず、また、大正10年頃まで水屋から水を買うことも珍しくなかったそうです。浄水処理をした水を供給する水道施設の導入が待たれました。明治20年、「水道条例」が制定されて、当地でも明治44年頃より小野藤兵衛とうべえ(四代目)らが水道敷設に向けて動き出します(町村に敷設の財力がなかった)。大正7年、栗原幸蔵が荏原水道組合の水道敷設権を買収して玉川水道株式会社を創設、その年から給水が始まります(「多摩川台公園」(東京都大田区田園調布一丁目63-1 Map→)に浄水場の跡が残るPhoto1(沈殿池を利用した池)→ photo2(地下貯水池の脱気塔→)。

堀越正雄『江戸・東京水道史 (講談社学術文庫)』 渡部一二(わたべ・かつじ) 『水路の用と美 ~農業用水路の多面的機能~』(山海堂)
堀越正雄『江戸・東京水道史 (講談社学術文庫)』 渡部一二わたべ・かつじ 『水路の用と美 ~農業用水路の多面的機能~』(山海堂)
橋本淳司『日本の「水」がなくなる日 (主婦の友新書) 』 中村 哲『希望の一滴 〜中村哲、アフガン最期の言葉〜』(西日本新聞社)
橋本淳司『日本の「水」がなくなる日 (主婦の友新書) 』 中村 哲『希望の一滴 〜中村哲、アフガン最期の言葉〜』(西日本新聞社)

■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.213、P.217、P.284 ●『六郷用水 ~大田区のまちなみ・かちかど遺産~』(東京都大田区立郷土博物館 平成25年初版発行 平成26年2刷参照)表紙-P.2、P.7、P.22-23、P.30-31、P.34、P.41、表紙裏 ●「用水」( 佐々悦久さっさ・よしひさ )※『大田区史(中巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.572-575 ●「水道事業ことはじめ」「近代工業の展開」(山本定男)※ 『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成8年発行)P.200-208、P.273 ●「徹底的に六郷用水」Site→ ●「六郷水」(東京都大田区→

※当ページの最終修正年月日
2024.1.28

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