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飄然たる死(明治21年7月19日、山岡鉄舟、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山岡鉄舟が死去する5年前(明治16年)に建てた臨済宗の「全生庵ぜんしょうあん 」(東京都台東区谷中5-4-7 Map→)。そこにそびえる金色の観音。当寺院には、鉄舟の墓Photo→や、鉄舟を讃えた石碑(「山岡鐡舟居士之賛」。鵜飼徹定が作文し、勝 海舟が認めた書をもとに刻まれた Photo→)も。

勝海舟
山岡鉄舟

明治21年7月19日(1888年。 山岡鉄舟(52歳)が胃ガンで亡くなりました。

前夜、トイレから戻ってからは横にならず、布団にもたれて座禅を組み、明くる朝9時15分、団扇うちわを手に、座禅を組んだまま、飄然とあの世に行きました。

腹いたや苦しき中に明けがらす(山岡鉄舟)

日が昇る前に詠んだ辞世の句です。

その日の朝、勝 海舟(65歳)が鉄舟を見舞うと、果たして座禅しており、が「どうです。先生、ご臨終ですか」と問うと、鉄舟はニコッとして「さてさて、先生よくお出でくださった。ただいまが 涅槃ねはん (心の迷いのない境地。または死)の境に進むところでござる」と答えたとか。は「よろしくご成仏あられよ」と言って辞去しますが、自宅に戻るまでに使者があって、鉄舟の死が伝えられました。

盟友に別れを告げ(2人は江戸城の明け渡しを命がけで進めた仲)、「これでよし」と思ったのかもしれません。に別れを告げた直後に、鉄舟はこと切れました。

勝海舟

にも、11年後(明治32年1月19日)に最期が訪れます。の最期の言葉は、

コレデオシマイ

923名の臨終の様子を『人間臨終図巻』に著した山田風太郎は、のこの一言を、最期の言葉の「最大傑作」としました。

大田南畝

狂歌師と役人を見事に生き分けた大田南畝(当地(東京都大田区)にもゆかりがある)が、文政6年4月6日(1823年)74歳で死去する際に詠んだ辞世の歌も振るってます。

今までは人のことだと思ふたに
俺が死ぬとはこいつはたまらん

痛くって、苦しくって、寂しくって、心細くって、それに、宗教的で、厳粛であるべきときに、こういったヒョウキンな言葉が出るとは、さすがは筋金入りの“脱力系”。駆けつけた人も、思わず吹き出してしまったかも?

南畝が亡くなる1823年にが生まれます。は1月6日に生まれ、南畝は4月6日に亡くなり、3ヶ月重なっています。『氷川清話』(の談話集 Amazon→)に「蜀山人も、私の六歳七歳ぐらゐの時分から伯父の家でよく遇つた」とありますが、この蜀山人(南畝)は、二世(亀屋久右衛門。 文宝亭文宝ぶんぽうてい・ぶんぽう )のようです。

広津和郎

志賀直哉が亡くなる2年前(昭和44年。85歳)に出した最後の作品集『 枇杷 びわ の花』Amazon→に、未発表の「ナイルの水の一滴」という短文が収録されています。

 人間が出来て、何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き、死んで行った。 私もその一人として生れ、今生きているのだが、たとえてえば悠々ゆうゆう流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年さかのぼっても私はいず、何万年っても生れては来ないのだ。 しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。 それで差支えないのだ。(志賀直哉「ナイルの水の一滴」全文)

唯一無二の一滴ではあるけれども、それでも、大自然の中ではただの一滴としての自分。志賀は、この「大河の一滴」 として、悠々と死に赴いたのだと思います。

滔々とうとう と流れる巨大な川は「全ての生命がつながっていること」の象徴でもあるのでしょう。全ての生命がつながっているのなら、個体は朽ちても、総体としての生命は変わらずそこにある。遠藤周作も、死を間近にして、ガンジス川を題材にした『深い河』を書きました。

広津和郎
左 卜全

黒澤 明監督の映画などで忘れ得ぬ印象を残した名脇役・左 卜全ひだり・ぼくぜん は、大の愛妻家で知られます。卜全の最後の一言は、妻の糸に本名で「一郎さん」と呼ばれて、小さな声で、

は〜い

管野スガ
管野スガ

明治天皇に爆弾を投げることを思いついた宮下太吉が、管野かんの スガに呼びかけ、管野が新村にいむら 忠雄と古河力作を宮下に紹介しただけで、4人は死刑になりました。物証はブリキ缶と薬品だけで(爆弾はできてなかった)、4人が具体的な計画を練った形跡もありません(宮下は古河に会ったことすらなかった)。幸徳秋水にも呼びかけますが、計画を否定しなかったものの、積極的に参加する意思は示していません。でも、幸徳も死刑になりました。ひどいのは、その頃、幸徳に会った人や、宮下に助言した人、宮下に影響を与えた冊子を作成した人まで死刑になり、計12人が当局に殺されました(宮下、管野、新村、古河、幸徳も、「未遂罪」はおろか、「予備罪」にも当たらないのでは?)。

管野は東京監獄で手記を書きました。

・・・ああ、気の毒なる友よ、同士よ。彼らの大半は私共五、六人のめに、この不幸な巻添えにせられたのである。・・・(中略)・・・噫、神聖なる裁判よ、公平なる判決よ。日本政府よ、東洋の文明国よ。れ、ほしいままの暴虐を。 せ、無法なる残虐を・・・(管野スガ『死出の道艸みちくさ』より)

死刑宣告後、管野は被せられた編笠を取って、輝かしい顔で「みなさん、さようなら!」と叫びました。それに応えて、被告席にいた内山愚堂は「ごきげんよう!」。内山も死刑になりました。

『山岡鉄舟の武士道 (角川ソフィア文庫) 』。編集: 勝部真長 ( かつべ・みたけ ) 。鉄舟の武士道論。勝 海舟の鉄舟に関する評文も 山田風太郎『人間臨終図巻(上))(角川文庫)』。15歳(八百屋お七など)から55歳(ゴーギャンなど)で亡くなった人の死に様
『山岡鉄舟の武士道 (角川ソフィア文庫) 』。編集: 勝部真長 かつべ・みたけ 。鉄舟の武士道論。勝 海舟の鉄舟に関する評文も 山田風太郎『人間臨終図巻(上))(角川文庫)』。15歳(八百屋お七など)から55歳(ゴーギャンなど)で亡くなった人の死に様
岸本英夫 『死を見つめる心 (講談社文庫) 』。死を見つめる中で育まれた「生」の哲学 エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 〜死とその過程について〜 (中公文庫)』
岸本英夫 『死を見つめる心 (講談社文庫) 』。死を見つめる中で育まれた「生」の哲学 エリザベス キューブラー・ロス『死ぬ瞬間 〜死とその過程について〜 (中公文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
子母沢 寛の『勝 海舟』を読む→
志賀直哉の『暗夜行路』を読む→

■ 参考文献:
●『人間臨終図巻(上)(角川文庫)』(山田風太郎 平成26年初版発行 平成30年発行再版参照)P.84-85、P.419-420 ●『人間臨終図巻(下)』(山田風太郎 徳間書店 昭和62年初版発行 平成3年発行8刷参照)P.202-203 ●「山岡の臨終の見事さ」(勝 海舟)※『山岡鉄舟の武士道(角川文庫)』(編:勝部真長 平成11年初版発行 平成19年発行5版参照)P.54-55 ●『江戸文人おもしろ史話』(杉田幸三 毎日新聞社 平成5年発行)P.68-72 ●『氷川清話(講談社学術文庫)』(勝 海舟 平成12年初版発行 平成27年発行40刷参照)P.305-306 ●『志賀直哉(新潮日本文学アルバム)』(昭和59年発行)P.87-96 ●『枇杷の花』(志賀直哉 新潮社 昭和44年発行)P.671 ●「日弁連は共謀罪法の廃止を求めます」日本弁護士連合会→

※当ページの最終修正年月日
2023.7.21

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