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昭和12年1月26日(1937年。 、稲垣足穂(36歳)が、日記に次のように書いています。当時、足穂は、当地の衣巻省三(36歳)の家(東京都大田区南馬込四丁目31-6 Map→)に居候していました。 ・・・夜十時半。用事があって近所の草野医院へ走る。魔法のような月夜に変っている。青い月光と桃色の門灯とがミクスチュアを造っている。・・・(中略)・・・中天の月! シリウス! 淡いオリオン! 青天井、お天道様の膝の上、踊るは踊るは、星の踊りの人踊り……。 ・・・太古から空は美の源泉であった。私たちは長い間空の下に住んでいたが、その美と偉大について知ることができたのは、ほんのわずかなものであったろう。・・・(稲垣足穂「空の美と芸術に就いて」より) 昔は今よりもずっと空が広く、大きな存在だったでしょう。天候の変化は、即、死活問題であり、空は畏怖の対象であり、そこに“神”を見たのでしょう。絶望的な状況にあって「天を仰ぐ」のは、時代や場所や文化を問わず、かなり普遍的なのではないでしょうか。 農耕を行うには季節の変化を知ることが必須で、太陽・月・星の動きを人は見る(観測する)ようになりました。天文学は医学と共に最も古くからある学問で、メソポタミアやエジプトでは紀元前2,000年ほども前からあったようです(日本では縄文時代の後期)。
紀元後になって、100年代、エジプトのアレクサンドリアで天体観測に従事したプトレマイオスが著した『アルマゲスト』は、従来の天文学的知見を集大成したもので、1028個の恒星を数え、天動説の立場から惑星の運動を説明、その後1,400年間ほどの天文学の主流の考え方の基礎となりました。
天動説が疑われるようになるのは1500年代になってです。ポーランドの聖職者・コペルニクスは地動説を確信していましたが、地球を宇宙の中心と考えるキリスト教的世界観からすると異端であると考え、著述期間が20〜30年にも及んだとされますが、刊行には至りませんでした。主著『天球の回転について』が発行されたとき(1543年)、コペルニクスは臨終の床にあったそうです。 1800年代には恒星を空間的に捉えることに成功、太陽系を含む星団(銀河系)の存在が指摘され、1900年に入ると銀河系の大きさが3万光年(1光年は光が1年間に通過する長さで、約9.5兆km。3万光年はその3万倍なので、285000000000000000km?(9500000000000km×30000))にも及ぶものであることが判明します。銀河系の端っこの星の光をもう一方の端っこの星から見た場合、3万年前に光ったものを見ているということなのでしょう。凄いことです。宇宙を思うと、人生のことや、日常のことはもちろんのこと、人間界、地球上でのことがちっぽけなことに思えてきます。 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、学校で、先生から銀河のことを教わる場面から始まります。 川端康成の『雪国』の最後の一文にも「天の川」(地上から見た銀河系の姿)の言葉があります。『雪国』は冒頭の一文(「国境の長いトンネルを抜けると雪国であつた」)があまりに有名ですが、冒頭からずっと読んでいって読む最後の一文にも鳥肌立つものがあります。 ・・・夜行で発つべく郷里の駅頭に立ったとき、天空輝くばかりの星空で、とりわけ 令和3年6月から「東京新聞」(夕刊)で連載された辻村
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献 : ※当ページの最終修正年月日 |