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稲垣足穂の『一千一秒物語』を読む(星々と喧嘩する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

足穂たるほ はやたら攻撃的だ。

師匠の佐藤春夫は悪人だからとその元を去り、足穂にぞっこんの三島由紀夫に対しても 「(三島の創作には)ドキッとするものがないや」とそっけない。 小林秀雄には「ニセ者」 とレッテルを貼り、川端康成は「千代紙細工」で、 漱石鴎外さえも「書生文学」でしかなく、幸田露伴だって「学者」、永井荷風は「三味線ひきのスネもの」で、吉行淳之介と安岡章太郎にいたっては「もたれ合いでマスをかいてる」となり、大江健三郎も「自分のものは何にもない」とこき下ろす。 足穂にかかると、大作家も形無しだ。

攻撃性は創作にも及び、二十歳前後で足穂が書いた『一千一秒物語』には、すでにその素質が顕著に表れている。登場する男は、なんと、星や月にまで攻撃を仕掛けるのだった。

・・・赤十字の自動車と警察の自動車がやってきて 怪我人をしらべた 自分がポリスに報告している時 東の地平線からお月様がふらふらしながら昇ってきた 自分は憲兵の鉄砲を借りて街上で片ひざを立てた ねらいをつけてズドン!
 お月様はまっさかさまに落ちた
 一同はバンザイ! と った・・・

え? 何これ!? といった感じ(笑)。

それでもって、攻撃された星や月はどうするかといえば、彼らだって、男の持ち物を隠したり、部屋に侵入して脅かしたり、突き飛ばしたり、はり倒したり、と負けていない。

そうだ、きっと、足穂はこのような反撃を期待しているのだ。だから、けなされた作家たちも、被害を被った身近な人たちも、『一千一秒物語』の星や月のようにやり返して、足穂をやっつけてしまえば良かったのだ。泥を投げつけられたら投げ返す。そして、また投げる。 そんな「泥んこ遊び」 が、きっと彼のお気に入りだ。

いや、しかし待てよ。 足穂と喧嘩じゃ、そうとう消耗しそう・・・、結局のところ、彼の相手が務まるのは星や月ぐらいなのかもしれない・・・。


『一千一秒物語』 について

稲垣足穂『一千一秒物語』

稲垣足穂の超短編小説集。大正6年(17歳)頃から手がけ、200編ほど書かれた中から68編自選して、大正12年(23歳)金星堂から出版された。当時師事していた佐藤春夫(31歳)が序文を書いている。

人、星、月がドタバタを演じる、荒唐無稽で、かつモダンな作品。「この世なんていうのは1秒ですよ」と足穂は言う。

■ 『一千一秒物語』評
●「以後の私の作品は全て『一千一秒物語』の注釈に過ぎない」(稲垣足穂
●「---音話の天文学者---セルロイドの美学者---アスファルト街上の児童心理学者---ゼンマイ仕掛けバネ仕掛けの機械学者---奇異なる官能的レッテルの蒐集家---そうして、アラビアンナイトの荒唐無稽---をまんまとシガレットのなかに 封じ込めたのだぜ? 誰が? イナガキ、タルホがさ」(佐藤春夫 ※『一千一秒物語』 序文より


稲垣足穂について

これぞ足穂。一升瓶や実験装置と ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:天文古玩/タルホ・テレスコープ(4)・・・総集編→ 原典:「週刊サンニュース」(昭和23年6月25日) これぞ足穂。一升瓶や実験装置と ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:天文古玩/タルホ・テレスコープ(4)・・・総集編→ 原典:「週刊サンニュース」(昭和23年6月25日)

飛行家に憧れる
明治33年12月26日(1900年)、大阪市舟場の歯科医の次男として生まれた。後年、その出生を量子力学史と結びつけて語る。小学生の時祖父母のいる明石に移住、国際色豊かな神戸で育つ。関西学院普通部では今 東光と同級。飛行家に憧れ、13歳で同人誌 「飛行画報」を作る。大正5年(16歳)、当地の「日本飛行学校」(羽田穴守町。現在の「羽田空港」(東京都大田区)のB滑走路末端あたりか」)に入学するため上京。近視のため入学できなかったが、同校に併設された日本初の自動車教習所「日本自動車学校」(後に東京都大田区蒲田へ移転)で自動車免許を取得。日本で最も早い時期に自動車免許を取った一人か。関西学院卒業後、神戸で複葉機の制作に携わるが、失敗。

代表的モダンボーイ
大正10年(21歳)、『一千一秒物語』の原稿を佐藤春夫に送付、認められて師事する。 佐藤の仮寓先の離れに住むがしばらくして追い出され、その後、渋谷道玄坂・神泉をへて、アパート「恵比寿倶楽部」(東京目黒)にいた関西学院で一級下だった衣巻省三の元に居候。大正11年(22歳)、 「チョコレット」「星を造る人」を書く。 大正12年頃(23歳頃)、池内徳子の「ダンシング・パビリオン」に住み、そこでも多くの作品を書く(「天体嗜好症」「童話の天文学者」など)。 「文芸時代」に迎えられ、新感覚派の一人とされた。代表的モダンボーイとして女学生からも人気があった。 大正15年(26歳)『星を売る店』、昭和3年(28歳)には『天体嗜好症』を出版。

アルコール・ニコチン漬けの日々
昭和6年(31歳)頃、身内に不幸があり、明石に帰郷。古着屋を経営するが失敗した。昭和11年(36歳)、再々度上京。 アルコールとニコチン漬けになり窮迫、15年間、布団さえ所持せずカーテンにくるまって眠り、7日間絶食したこともあったという。

戦後、再評価される
昭和25年(50歳)、篠原志代と結婚、京都に住む(保護してもらったようなものか?)。過去作品の改稿を進め、精力的に発表し始める。昭和43年(68歳)、三島由紀夫の後押しもあり、『少年愛の美学』で第一回日本文学大賞を受賞。翌年から全集が作られはじめ、タルホ・ブームが起こる。

志代夫人が亡くなってからは、ほとんど寝たきりとなり、人にも会わず、好きな酒も断ち、執筆もせず、ひたすら自分の過去作品を読む日々となる。2年後の昭和52年10月25日(76歳)、結腸癌に急性肺炎を併発して死去。 ( )。京都の法然院に眠る。

稲垣足穂『少年愛の美学 〜A感覚とV感覚〜 (河出文庫)』 稲垣足穂 『ヰタ・マキニカリス(河出文庫) 』
稲垣足穂『少年愛の美学 〜A感覚とV感覚〜 (河出文庫)』 稲垣足穂『ヰタ・マキニカリス(河出文庫)』

当地と稲垣足穂

足穂の当地での住所は、衣巻省三宅(東京都大田区南馬込四丁目31-6 map→)と同一だ。東京目黒時代も含め何回か衣巻のところに居候した。衣巻夫妻は実家が裕福で、居心地が良かったか。居候しながらも酒の抜けない足穂室生犀星が注意し、足穂が泣き出す一幕もあった。郵便物を犀星宅の気付にしていたので、犀星宅にも出入り。「まるでどこかの金利生活者か、いや味なご隠居がやっているような」と犀星を批判。 伊藤 整が足穂に初めて会ったのも、その頃(昭和5年)の衣巻邸において。鼻眼鏡で洒落込み、口早に佐藤春夫論(おそらくは悪口)をまくしたてる足穂にいい印象を持たなかった。昭和11年12月(36歳頃)、明石から再々上京して転がり込むのも衣巻のところ。その頃のことを「馬込日記」に書いている。衣巻の息子に飛行機の精巧な模型を作ってあげたり、暗闇にロウソクを一本立ててポーの怪談を話して聞かせたり、なかなか “いいおじさん”だった。衣巻には一目置いた。空襲で家を焼かれた衣巻は、京都の足穂を頼ったという。

昭和20年、牛込区横寺町の家が空襲で焼け、当地(東京都大田区池上徳持町)の知り合い方に居候。敗戦の翌日(昭和20年8月16日)より、ディーゼル自動車工場の雪ヶ谷寮に転居(東京都大田区雪谷)、しばらくいた。「雪ヶ谷日記」という一文がある。昭和25年(50歳)、篠原志代と結婚、京都に移転する。

作家別馬込文学圏地図 「稲垣足穂」→


参考文献

●「馬込日記」(稲垣足穂 ※『東京きらきら日記』(潮出版社 昭和62年発行)p.117-132) ●「雪ヶ谷日記」(※『稲垣足穂全集(八)』(筑摩書房 平成13年発行)p.62-71) ●『夫 稲垣足穂』(稲垣志代 芸術生活社 昭和46年発行)P.212-218 ●「美のはかなさ」(稲垣足穂 ※『一千一秒物語(新潮文庫)』(昭和44年初版発行 平成17年41刷参照)P.313-315) ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.90、P.209-212 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年)P.65-72 ●『馬込文士村の作家たち』(野村 裕 昭和59年発行 非売品)P.199-209 ●「足穂全集全巻目次」と「年譜」(※『稲垣足穂全集 (十三)』(筑摩書房 平成13年発行)) ●『昭和文学作家史(別冊一億人の昭和史)』(毎日新聞社 昭和52年発行)P.216-219


参考サイト

YAHOO! JAPANニュース/川端康成、三島由紀夫もメッタ切り!止まらない文豪の“毒舌”が素晴らしい〈AERA dot.〉→ ●ジャーナリスト 前坂俊之のブログ/稲垣足穂 ー アル中、幻想、奇行、A感覚V感覚、天体嗜好・・・ (1)→ ●ウィキペディア/・一千一秒物語(平成24年9月11日更新版)→ ●松岡正剛の千夜千冊/稲垣足穂の 『一千一秒物語』→

※当ページの最終修正年月日
2020.7.26

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