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ピエタはイタリア語で「哀れみ・慈悲」の意。「ピエタ像」は、一般に、十字架から降ろされたイエスを母親のマリアが支えている姿を描いた図像を指す 明治45年1月24日(1912年。 内村鑑三(50歳)がベルに以下の手紙を出しています。 ・・・私たちは今も悲しんでおり、わが子を失なって泣き叫ぶラケルの心は慰められることを拒みます・・・ 内村は12日前の1月12日、女学校を卒業したばかりの娘のルツ(17歳)を病で失いました。親友のベルにすら「慰めてくれるな」というほどの深い悲しみの中にあったのです。 反面、内村は、キリスト教的な生死観からか、ルツの告別式では、「ルツ子さん万歳」を叫び、参列した矢内原忠雄(一高生だった)らに深い感銘を与えています。 相反する感情のようでもありますが、ともに真実なのでしょう。 昭和20年、 片山広子(67歳)も、心臓病で長男・達吉(44歳)を失いました。9ヶ月前まで片山も達吉も当地(東京都大田区)の近所に住んでいましたが、片山は家が強制疎開で壊されることとなり、東京都杉並区の浜田山にいました。息子の死を知った時の衝撃を、片山は言葉少なに次の歌にしています。 使来てわれにいひける言葉なり 達吉は死にましたが、それでも、その後も片山の元に“姿”を現しています。達吉は片山の一番の理解者でした。 室生犀星(32歳)も最初の子どもを風邪からの肺炎で亡くしています。凄まじい家庭環境で育った犀星が結婚のおりに心に誓ったのは、確固としたる暖い家庭を作ること。それだけに、この痛手は限りなく大きかったようです。無気力期間をへて、再びペンをとったとき生まれ出た言葉は、文語調の悲痛なものでした。 靴下
おのれ父たるゆゑに (室生犀星『忘春詩集』より) 犀星は生涯、亡き子の命日に庭の地蔵尊に供物することを欠かしませんでした。犀星の庭づくりは半端でありませんが、彼の庭は亡き子を
のたうち回わるようにして生きてきた中原中也でしたが、昭和9年(27歳)に長男の
文也の死から1ヶ月半ほどして書かれた中也の詩稿には次の言葉が並んでいます。 夏の夜の、博覧会は、哀しからずや 女房買物をなす間、かなしからずや 三人博覧会を出でぬかなしからずや そは坊やの見し、水の中にて最も大なるものなりきかなしからずや 広小路にて (中原中也「夏の夜の博覧会はかなしからずや」より) 折口信夫も養子の藤井春洋を硫黄島で喪い、村岡花子も長男を失い、川端康成も当地に住んだころ妻が臼田坂で転びお腹の子どもを失い、山本周五郎も空襲下で長男が行方不明になり、薄田研二も広島の原爆で息子を喪い、川端龍子も娘と息子を喪っています。龍子は昭和19年(龍子59歳)に妻も喪っており、戦後、昭和25年から昭和30年まで続けられた四国遍路は亡くした家族の鎮魂の旅でもあったようです。熊谷恒子も昭和29年長女を喪い、志賀直哉も長女と長男を喪っています。長谷川等伯は天正20年(1592年)、息子の久蔵と「智積院障壁画」(等伯の代表作の1つ)を描きますが、その翌年、久蔵を喪いました。 長生きはもちろんいいことですが、長く生きれば、それだけ、愛する人たちの死にも立ち会わなくてはなりません・・・。 エリック・クラプトンは昭和61年(41歳)、4歳の息子を痛ましい事故で亡くしています。そのショックから立ち直る過程で生まれたのが「Tears in Heaven」です。 ------------------------------------------------------
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |