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昭和20年4月15日(1945年。 の深夜から、東京都大田区のほぼ全域(羽田、大森、荏原、蒲田など)に、大規模な空襲がありました。「城南大空襲」と呼ばれるものです。 「空の要塞」と呼ばれた米国の大型爆撃機・B29が202機飛来。 死者が841名出て、夥しい遺体が本門寺公園(東京都大田区池上一丁目1-1 Map→)に仮埋葬されたとのこと。命を落とさないまでも、目を失った人、腕を失った人、足を失った人、顔や体に大やけどを負った人、家族や知り合いを失った人も多数いたことでしょう。焼失家屋は約7万戸(22万戸とも)。 本門寺も惣門(総門)・五重塔・輪蔵を除いてほぼ全焼、複数の国民学校、東京独逸学園も焼け、多摩川大橋も焼け落ちました。 当地(東京都大田区)では、この日までにも、前年(昭和19年)12月11日、同年(昭和20年)1月11日、2月16日、2月19日、3月5日、4月4日と空襲があり、以後も、4月15日、4月19日、5月23-25日、5月29日、8月13日と繰り返されました。佐藤朝山は心血を注いだ初期作品のほとんどを失い、衣巻省三の家も焼け、小関智弘さんの父親の工場は創業の日に灰となり、川端龍子の家も破壊され、48校あった小学校も34校焼けました。 大田区(昭和22年までは大森区と蒲田区に分かれていた)の人口は、太平洋戦争前の昭和15年には約53万人でしたが、敗戦後の昭和20年には約22万人に減少(疎開した人も多かった)。
当地(東京都大田区)が狙われたのは、軍需産業がさかんだったからです。昭和7年には1,112箇所だった工場が、アジア太平洋戦争を日本が引き起こした昭和16年には、5倍近くの5,148箇所に跳ね上がりました。その多くが兵器製造に携わったのでしょう。遠距離無差別爆撃用の「風船爆弾」の生産拠点 「国際化学工業研究所」も蒲田にありました(昭和19年11月3日に放たれた風船爆弾は太平洋を越えて米国に達し、オレゴン州に落ちた不発弾でピクニック中の民間人(女性1人と子ども5人)が爆死)。 日本本土への空襲は、昭和19年11月から激化します。昭和19年7月、米軍はマリアナ群島(サイパン島など)を制圧し大規模な航空基地を建設、さらには小笠原諸島の硫黄島が落として航空基地を建設、B29の日本への安定的な飛行が可能になります。空襲は“玉音放送”のあった昭和20年8月15日まで続き、全国200都市以上が攻撃され、死者33万人、負傷者43万人、被災人口970万人にも及びました(原爆の被害も含む)。 東京だけでも、昭和20年3月10日の東京大空襲(東京の1/3以上を灰にし、8~10万人もの死者が出た)をはじめ、4月15日の城南大空襲など106回もの空襲がありました。 戦争が苦しみや恐怖だけをもたらすのならば、避けるのは簡単でしょう。しかし、戦争は、閉塞感に苦しむ人々に一時的であれ目標や興奮を与えてしまいます。シューティングゲームに興じるのと一緒です。それに、共通の敵を持つことで連帯感も強まります(スポーツ観戦でも見られる心理)。他者(他国)の痛みを勘定に入れなければ、戦争はエンターテインメントでもあるのです。 また、戦時景気で一部の人は糞儲けできるので、「経済で結果を出す」が口癖の経済第一主義者とその腰巾着は、自分や身内に被害が及ばない限りの戦争を推奨したりします。「国益が!」と叫び、仮想敵国などをこしらえて「国を守る!」とかやり始めます。 戦中も当地(東京都大田区)にとどまった添田知道の日記を読むと、前年(昭和19年)の12月末くらいまでは、空襲があっても、まだ余裕があり、人々は、まるでスポーツ観戦するように戦争に酔っていたのが分かります。敵機が墜ちるのを見て、 ・・・やった。 ・・・やったぞ。巨大の29、落ちる。 まったく、落ちる。 身をもみながらのろのろと落ちる。 ぐるりとひっくりかへり、落ちてゆく。 思はず万歳を叫ぶ。 アパアト前、町会前の連中も、万歳をいふ。 見たぞ。 まざまざと見たぞ29の落ちるのを。 ・・・・のろのろと落ちる。 落下傘をひらいた。 敵機が落ちて危険が遠ざかるのを喜ぶのは当然ですが、それ以上に「幸福」「生き甲斐」を感じてしまう。添田ほどの人でも、情報がないとこれだけの“アホ”になってしまいます。国と一体になった報道機関は戦争遂行に都合のいいことしか国民に伝えませんでした。 あと、戦争は、威張りたい人、人を支配・コントロールしたい人、他国民や他民族を差別したい人たちには、垂涎ものでしょう。 こういった理由などから、戦争がいったん始まると、もう歯止めが利かず、“地獄”を見るまで突き進んでしまいます。戦争に反対しようものなら猛烈に攻撃されたでしょうし、また、戦争指導者は負けそうになっても自分に戦争責任が及ぶくらいなら国民を道連れにしようとしたかもしれません。 しかし、さすがに、空襲が苛烈さを増せば(“地獄”が出現すれば)、国民の意識も変わってきます。身の回りにも死体が転がり始め、泣き叫ぶ子ら、愛する郷土が無惨に打ち砕かれるのを見て、それまでは遠くの出来事だった戦争(“兵隊さん万歳”の戦争)がリアルなものになったことでしょう。しかし、もう後の祭り。 日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、アジア太平戦争、と日本が戦争を仕掛け、拡大させてきました。国民がその「加害の歴史」と「そのカラクリ」から目をそらすなら、きっとまた、同じ道を歩むことになるでしょう。 三島由紀夫が予言したように、今度戦争があるとしたら、日本人は米国の指揮下に入り、米国のため(米国に従うことで得する人たちのため)に血を流すことになるのでしょうか?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |