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この世の地獄(昭和20年8月6日、米軍、広島に原爆を投下する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

丸木位里いり ・丸木 とし 夫妻による「原爆の図」の一部。広島出身の夫妻は原爆投下の数日後から広島入り、その惨状を目の当たりにした。3年後から描き始め、その制作に生涯を賭する。4曲の屏風状の作品が対になっており、それが15ある。人物はほぼ等身大で900人ほど(デッサンを含む)描かれている。巡回展で20カ国以上を巡り、原爆の恐ろしさを伝えてきた。「(原爆の図)丸木美術館」(埼玉県東松山市下唐子しもがらこ1401 Map→ Site→)で常設展示している ※撮影が許可されていました


昭和20年8月6日(1945年。 午前8時15分、米国が世界で初めて原爆を使用しました。

核爆発実験に初めて成功した21日後のことです。もはや日本に戦争に勝つ可能性などありませんでしたが、米国は1日も早く戦争を終結させるため(戦いがあれば米側にもそれなりに損害や死傷者が出た)、トルーマン大統領は原爆の投下を決意しました。

原 民喜

広島の実家に戻っていた原 民喜(39歳)も被曝。 爆心地の近くでしたが、たまたまトイレにいたため一命を取りとめました。

その後、は、 “地獄” をつぶさに見ることとなります。

・・・水に添ふ石の通路を進んで行くにしたがつて、私はここではじめて、言語に絶する人人の群を見たのである。 すで に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせてゐたが、岸の上にも岸の下にも、そのやうな人人がゐて、水に影を落してゐた。どのやうな人人であるか・・・・・。 男であるのか、女であるのか、 ほとんど区別がつかない程、顔がくちやくちやにれ上つて、随つて眼は糸のやうに細まり、唇は思ひきりただ れ、それに、痛痛しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横たはつてゐるのであつた。 私達がその前を通つて行くに随つてその奇怪な人人は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、 「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴へごとを持つてゐるのだつた。
 「をぢさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられてゐた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすつぽり頭まで水に ひた つて死んでゐたが、その屍体と半間も隔たらない石段のところに、二人の女がうずくまつてゐた。 その顔は約一倍半も膨張し、醜くゆが み、焦げた乱髪が女であるしるしを残してゐた。これは一目見て、 憐愍れんびん よりもまづ、身の毛のよだつ姿であつた。が、その女達は、私が 立留たちどまつたのを見ると、 「あの樹のところにある蒲団ふとん は私のですからここへ持つて来て下さいませんか」と哀願するのであつた。
 見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあつた。だが、その上にはやはり瀕死の重傷者が臥してゐて、既にどうにもならないのであつた。・・・(原 民喜 『夏の花』 より)

広島では、人口35万人(推定)のうちの半数以上の約20万人が、無残な死を遂げました(昭和20年12月までに約14万人が死去し、その後も被曝による放射線障害や白血病などで多くの人が落命した)。

原は被曝後、上京、当地の中学時代からの友人・長 光太の家(東京都大田区南馬込)に居候しています。

丸山定夫 園井恵子 高山象三 仲みどり
園井恵子
高山象三
仲 みどり

丸山定夫(44歳)率いる移動演劇「桜隊」のメンバー9人も広島に滞在中、被曝。うち5名は即死し、その他の4名も8月中に落命します。

メンバーの園井そのい 恵子は映画 『無法松の一生』(坂東妻三郎版。昭和18年。Amazon→)にも出演した人気女優です。持参品を皆で食べようとお盆を手にして廊下を歩いているときに被曝。爆風で庭に放り出され、倒れてきた壁の下敷きになりました。壁から抜け出し近くに倒れていた高山象三(21歳)と逃げ、一時は生還を喜び合いましたが、じきに、高熱、皮下出血、下血、髪が抜けるといった放射線障害が現れ、15日後の8月21日(32歳)に息を引き取ります。17日に母親に出した再起を誓う手紙が絶筆になりました。

園井と一緒に逃げた高山象三たかやま・しょうぞう (21歳)は当地(東京都大田区)と関わりの深い俳優の薄田研二の長男です。園井より衰弱が激しく、園井からの看病を受けていましたが、彼女よりも1日早く8月20日に他界。

仲 みどり(36歳)はムシロだけを身にまとって命からがら東京に戻り、東大病院で治療を受け、世界で初めて原爆症と認定されました。肉腫の悪化、脱毛、高熱、胸痛の末、8月24日に死去。白血球は健常者の1/20になっていたそうです。近年(平成25年)彼女のカルテが見つかり、話題になりました。

昭和22年頃、西東三鬼(47歳)が、広島の俳句を連発しています。タイトルは「有名なる街」。その中の一つが、

広島や物を食ふ時口開く

「物を食ふ時」とわざわざいうことで、食べる時にしか口を開かない状況、人々から言葉を奪った“地獄”がイメージされます。

空襲で、沖縄戦で、原爆で、ズタズタになり、戦争に負け、「戦争だ」「〜は日本の生命線だ」「八紘一宇」「御国のため」(皆、自国のためなら他国の犠牲は厭わないという意味を含む)などと叫ぶ威勢のいいバカな連中が退場して、日本人もようやく「反戦」「厭戦」の思いを表現できるようになりました。「原爆を許すまじ」は、当地(東京都大田区)の文化運動から生まれた歌です。

広島に落とされた原爆は「ウラン型原子爆弾」でした。米国は、もう1つの「プルトニウム型原子爆弾」も、わずか3日後に日本(長崎)に投下・・・。

半藤一利、湯川豊 『原爆の落ちた日【決定版】 (PHP文庫)』 岡村幸宣 『《原爆の図》のある美術館 〜丸木位里、丸木俊の世界を伝える〜 (岩波ブックレット)』
半藤一利、湯川 豊 『原爆の落ちた日【決定版】 (PHP文庫)』 岡村幸宣『《原爆の図》のある美術館 〜丸木位里、丸木俊の世界を伝える〜 (岩波ブックレット)』
中沢啓治「はだしのゲン(1) 青麦ゲン登場の巻」 「 ひろしま(独立プロ名画特選)DVD」
中沢啓治「はだしのゲン(1) 青麦ゲン登場の巻」 「ひろしま(独立プロ名画特選)」

■ 参考文献:
●「原爆の図」(丸木位里、丸木 俊)※丸木美術館の「原爆の図」の作品解説 ●「原爆の図 丸木美術館」※美術館で配布されたパンフレット ●「「原爆の図 丸木美術館」50周年(親子で学ぶぅ)」※「東京新聞(夕刊)」(平成29年8月5日号)に掲載 ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷)P.478 ●『夏の花』(原 民喜 晶文社 昭和45年初版発行 昭和58年11刷参照)P.75-76 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.72-75  ●「わがまちあれこれ(第一号)」(編:城戸 昇 あれこれ社 平成6年発行)P.35 ●『桜隊全滅 ~ある劇団の原爆殉難記~』(江津萩枝 未来社 昭和55年初版発行 平成9年4刷参照)P.75-92 ●「原爆症 幻のカルテ ~初の診断 仲みどりさん〜」(大岩ゆり)※「朝日新聞(朝刊)」(平成25年8月4日号)掲載

※当ページの最終修正年月日
2023.8.7

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