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不完全な核実験制限(部分的核実験禁止条約)

フェアでなかった禁止条約(昭和38年8月5日、米国、英国、ソ連が「部分的核実験禁止条約」に調印)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和20年7月16日、米国で行われた人類初の核爆発実験(「トリニティ実験」) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 撮影者:Jack W. Aeby 出典:LIFE Photo Archive→


昭和38年8月5日(1963年。 米国、英国、ソ連の3国が、「部分的核実験禁止条約」(「部分核停条約」「PTBT」(Partial Nuclear-Test-Ban Treaty))に調印しました。8月 5 日に調印されたのは、人類が初めて核爆弾を使用した昭和20年8月 6 を意識してのことでしょう。初の核爆弾使用から18年が経とうとしていました。

前年(昭和37年)、米国とソ連がキューバを巡って対立、核使用の一歩手前まで来ました(「キューバ危機」)。キューバは米国の属国的立場に甘んじていましたが、昭和27年、カストロがアルゼンチン出身の革命家ゲバラと協力を得て、親米的なバティスタ政権を打倒、民主的な諸改革に着手し始めます。米国は形の上ではカストロ政権を承認しましたが、経済的・政治的な圧力を強めました。それに対抗し、昭和36年、カストロ政権は社会主義を宣言、ソ連寄りの姿勢を打ち出します。ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設したことで、米ソの緊張が一挙に高まりました。

ソ連(フルシチョフ党第一書記)の提案で、ソ連がキューバのミサイルを撤去する代わりに、米国(ケネディ大統領)はキューバに侵攻しないことを約束することとなり、危機は回避されました。両国は対話の必要を認識し、直通電話(ホットライン)を設置、「部分的核実験禁止条約」締結の流れともなったのです。

「部分的核実験禁止条約」は「部分的」とあるように、大気圏での核実験を禁止するだけで、「地下核実験」は除外されていました。「地下核実験」は変わらず行える内容だったのです。「地下核実験」の技術を持たないフランスと中国を含む十数カ国は、それを不公平として調印しませんでした。同条約は「地下核実験」の技術を持たない国が今後核実験を行えなくなるという核拡散の防止にはなったとしても、 「地下核実験」の技術を持つ国ではなんら核開発のストッパーにはならず、 同条約発効(昭和38年)後も、核実験は減らず、むしろ核軍備競争が激化しました。

中国が態度を硬化した背景には、同じ共産圏のソ連との対立の表面化があります(「中ソ対立」)。スターリンの死後(没後10年)、フルシチョフが「平和共存」(資本主義圏と共産主義圏の共存)を押し進めますが、第三勢力のインドに接近していた中国には、それも「米ソ中心」のように映ったのでしょう。

「部分的核実験禁止条約」に日本も調印しますが、波紋と分断が招かれました。

日本共産党は米ソに核が独占されるのを危惧して同条約の批准に反対、党議に反して賛成した中野重治らを「反党活動をした」として除名しました。その除名に反対する声明を出した野間 宏、佐多稲子、国分一太郎らも除名されます(計14名の除名)。

レオ・シラード アインシュタイン ルーズベルト
レオ・シラード
ルーズベルト

昭和13年、ドイツのO・ハーンとF・シュトラスマンが核分裂を発見。核分裂が連鎖すると巨大なエネルギーが発生することに着目して、各国で兵器への利用が模索され始めました。

翌昭和14年、米国に亡命していたユダヤ人物理学者レオ・シラードが、ナチス・ドイツが核兵器を保有したら大変なことになると、同じく米国に亡命していたユダヤ人物理学者アインシュタインの署名を添えて、ルーズベルト大統領に核兵器開発を促す手紙を書きました。それがきっかけになって、3年後の昭和17年8月より、米国で、「マンハッタン計画」(原子爆弾開発計画)が推進されます。

その後、ナチス・ドイツが核爆弾を開発していないことが分かっても研究・開発が続行され、3年した昭和20年7月、初めて核爆発に成功しました(「トリニティ実験」。上部の写真参照)。

爆心から200km離れた窓ガラスも割れるといった原爆の破壊力に、開発に携わった技術者たちも恐れをなし、実験成功のデモンストレーションだけで済ませようという意見も出ました。しかし、日本に落として1日でも早く戦争を終わらせようとの主張が強く、トルーマン大統領が投下を許可しました(前大統領のルーズベルトは昭和20年4月に急死)。

「トリニティ実験」の21日後の8月6日、広島に「ウラン原子爆弾」が投下され、その3日後の8月9日には長崎に「プルトニウム原子爆弾」が投下されました。

核兵器開発を促す手紙を書いたシラードは日本への投下には反対し、戦後は核実験の禁止と原子力の平和利用を訴えました。アインシュタインも手紙に署名したことを一生悔いたようです。

米国は、広島・長崎に投下した年の翌年(昭和21年)から核実験を再開、米国に遅れること4年、昭和24年8月にソ連も原爆実験に成功、さらに5年後の昭和29年、米国は、原爆の数百倍の威力があるとされる水爆の実験に成功、核開発競争に拍車がかかります。

英国は昭和27年に原爆実験を行い(昭和32年に水爆)、フランスは昭和35年に原爆実験を行い(昭和43年に水爆)、中国は昭和39年に原爆実験を行い(昭和42年に水爆)、インドも、パキスタンインドに対抗イスラエルも(推測)、北朝鮮(主張)も核実験を行いました。以上9カ国が核弾頭を保有していると考えられています(南アフリカは一旦持った核兵器を廃棄したと主張)

平成9年末までの各国の核実験回数は、米国がだんとつで1,030回、ついでソ連(現・ロシア)が751回、英国が45回、フランスが210回、中国が45回、インドが1回、パキスタンが5回と、合計2,000回以上となりました。yaxsocomによる下の動画は、どの場所でどのくらい核爆発および核実験があったか視覚化したものです。

「部分的核実験禁止条約」調印から33年経った平成8年、「地下核実験」を含む全ての核実験を禁止する「包括的核実験禁止条約」(「包括核停条約」「CTBT」(Comprehensive Nuclear-Test-Ban Treaty))が支持され、令和元年末時点で184カ国が署名、168カ国が批准しています。しかし、軍事力を背景に相変わらず好き勝手したい国と、好き勝手されてはたまらないと核爆弾の抑止の力を利用しようとする国が署名または批准していません。インド、パキスタン、北朝鮮が未署名で、米国、中国、エジプト、イラン、イスラエルが未批准で、条約は発効していません。

令和5年時点で、世界は、1万2,520発の核弾頭を有しています。

世の中に限りないものが2つある。1つは宇宙であり、もう1つは人間の愚かさだ。前者には限りがあるのかもしれないが、後者には限りがない。(アインシュタイン)

レオ・シラード『シラードの証言』(みすず書房)。翻訳:伏見康治ほか 藤永 茂『ロバート・オッペンハイマー 〜愚者としての科学者〜 (ちくま学芸文庫) 』
レオ・シラード『シラードの証言』(みすず書房)。翻訳:伏見康治ほか 藤永 茂『ロバート・オッペンハイマー 〜愚者としての科学者〜 (ちくま学芸文庫) 』
フレデリック・ケンプ 『ベルリン危機1961 〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜(上)』(白水社)。訳:宮下嶺夫 川崎 哲『核兵器を禁止する(岩波ブックレット)』。非人道的な「核兵器」。その廃絶への道筋を示す
フレデリック・ケンプ『ベルリン危機1961 〜ケネディとフルシチョフの冷戦〜(上)』(白水社)。訳:宮下嶺夫 川崎 哲『核兵器を禁止する(岩波ブックレット)』。非人道的な「核兵器」。その廃絶への道筋を示す

■ 馬込文学マラソン:
佐多稲子の『水』を読む→

■ 参考文献:
●「部分的核実験禁止条約」(納家政嗣)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「キューバ危機」※「山川 世界史小辞典(改訂新版)」(山川出版)の項目コトバンク→ ●『詳説 世界史研究』(編集:木下康彦、木村靖二、吉田 寅 山川出版社 平成20年初版発行 平成27年発行10刷)P.531-532 ●『凛として立つ(佐多稲子文学アルバム)』(菁柿堂 平成25年発行)P.108-114 ●「核兵器」(服部 学・村井友秀)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「レオ シラード」※「20世紀西洋人名事典」(日外アソシエーツ)コトバンク→ ●「核実験」(服部 学)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●「核の現在(大図解No.1623)」(制作:安藤美由紀、岩田仲弘)※「東京新聞(朝刊)」(令和5年8月6日号)掲載 ●「包括的核実験禁止条約(CTBT)」について」国際平和拠点ひろしま→

■ 参考映像:
●「原爆誕生 科学者たちの“罪と罰”(フランケンシュタインの誘惑)」(NHK スピーカー:池内 了、山下 了)

※当ページの最終修正年月日
2024.8.5

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