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およそ21,900名と、6,821名+19,217名(昭和20年3月19〜22日頃、硫黄島にて、西竹一中佐、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

硫黄島の惨状 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『【図説】太平洋戦争』(河出書房新社)

波多野秋子
西 竹一

昭和20年3月19日頃(1945年。 太平戦争末期の 硫黄島 いおうとう Map→にて、「戦車第26連隊」を指揮した 西 竹一 にし・たけいち 中佐(42歳)が死去しました。

西は男爵の家に生まれ、後に自身も男爵を継承。騎兵(陸軍の花形)の道に進み、昭和7年のロサンゼルス・オリンピックで、愛馬あいば ウラヌスに乗って馬術大障害飛越で金メダルを受賞。オリンピックの馬術で日本人が取った唯一の金だそうです(令和元年時点)。

時代の流れで騎兵部隊が削減されて、代わって戦車部隊が登場、西も転身しました。昭和18年に中佐に昇進し、昭和19年には「戦車第26連隊」の連隊長として満州をへて、硫黄島に来ました。はぐれた兵士を拒絶する指揮官が多い中、西はそれを招き入れ、米捕虜にも可能な限りの手当をしたとのエピソードが残っています。

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「硫黄島の戦い」に至る概略を記すと、まずは、ハル・ノートで満州事変以後の侵略政策を全否定された日本が、12日後の昭和16年12月8日、英領マレー半島に侵攻(陸軍。英国に対する事前通告をしなかった)、そのおよそ1時間後に米海軍の重要基地・ハワイの真珠湾を奇襲(海軍。米国に対する開戦の通告は攻撃の1時間ほどのちになされた)、アジア太平洋戦争を始めました。不意打ちを食らった米国は太平洋艦隊の主力を失い、英国も東洋艦隊の主力を失います。日本はその隙に、半年足らずで、東南アジアのほぼ全域を制圧しました。

米軍が総力をあげて反撃に出るのは、半年後の昭和17年5月。事前通告をしなかった日本に対し、米国世論は容赦しないという態度で一致団結しました(日本の初戦時の“汚いやり方”は現今も引き合いに出され、今も真珠湾攻撃を美化する日本人が少なからずいることなども欧米人の日本人蔑視の一因になっているのだろう)。米軍は、オーストラリアからニューギニア、ガダルカナル島と島伝いに北上して日本が占領したフィリピンを目指し、同時に、計16隻の航空母艦からなる大機動部隊を編成、日本軍が確保を計画していた太平洋の中央部の島々の攻撃に乗り出します。米軍はマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムと占拠してゆき、その後、そこを拠点に日本本土への空襲を本格化させました。

連合軍の反撃進路
連合軍の反撃進路

そして次に狙われたのが、小笠原諸島南端近くの硫黄島でした。日本軍が要塞とした島です。ここを奪われたら、大型爆撃機B29の緊急着陸を許すこととなり(また、攻撃に対しては無防備なB29を援護する新鋭戦闘機P51の基地となり)、日本本土の制空権さえ握られることとなります。日本はその防衛に29,000人あまりの将兵を送り、上陸してきた米将兵75,000人あまりと対峙しました。

米軍は前年(昭和19年)7月から、空と海(戦艦450隻)から激しく攻撃し、昭和20年2月19日に上陸を開始。5日で占領できると見込んでいましたが、西南端の 摺鉢山 すりばちやま の攻防を皮切りに、結果、1ヶ月以上の絶え間ない戦闘となります。栗林忠道中将ちゅうじょう の指揮によって地下陣地が作られ、それらが地下通路で繋げられて、米兵を引きつけてから、洞窟から身をおどらせるといったゲリラ戦法などによっても米兵に多大な損害を与えます。3月26日の栗林中将以下約400名による決死の夜襲を最後に「硫黄島の戦い」は幕を下ろしました(残存兵は戦後も抵抗を続けた)。

日本側の戦力は2万3千名弱で、死者はおよそ2万2千名(平成29年厚生労働省発表では21,900名。残り1千名ほどが捕虜となった)、米国側の戦力は11万名ほどで死者が6,821名で、戦傷者が19,217名。

折口信夫の養 嗣子 しし (義理の跡取り)の藤井 春洋 はるみ (折口春洋)も、この5万名近くの死傷者の1人。藤井は國學院大学で折口に師事、昭和3年からは当地の折口の家(東京都品川区西大井三丁目8 Map→)に住みました。昭和18年に応召、昭和19年7月に陸軍少尉として硫黄島の守備に着任します。

朝つひに命たえたる兵一人
木陰に据ゑて、
日中をさびしき(折口春洋)

春洋がいかなる状況で死去したかは不明ですが、折口は、米軍上陸開始の2日前の2月17日を春洋の命日と定め「南島忌」とします。折口は自分の墓は不要と考えていましたが、愛弟子の魂を鎮めるため、また、自らもそれに添うために、春洋の故郷に2人の墓(石川県 羽咋 はくい 一ノ宮)を建てました。

もつとも苦しき たゝかひに最苦しみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父信夫の墓(墓碑銘より)

当地の折口邸にて。昭和17年。左が藤井春洋、右が折口信夫
当地の折口邸にて。昭和17年。左が藤井春洋、右が折口信夫

名将として名を残した人、著名な人の他にも、幾万の同等の命がありました。人のマッス(かたまり)としてではなく、敵味方関係なく、その一人一人の生と死が語り尽くされる日がくるでしょうか。

硫黄島は都心の南約1,200kmの地点にある火山島で、東京都小笠原村に属します。東西8km、南北4km。隆起によって面積が広がり、父島を抜いて、現在、小笠原諸島最大の島。明治時代から入植が始まって、硫黄の採取やサトウキビ・コカ・レモングラスなどの生産に従事する人が、一時は1,000名ほど住んでいたとか。要塞化するにあたり、強制疎開させられています(軍務にあたるために徴用された人も。うち90名前後が戦死。戦闘に巻き込まれた島民がいたということ)。昭和43年、日本に返還されましたが、火山活動の活発化や、戦没者の遺骨や不発弾が残っていることなどから、帰島が実現していません(平成30年11月30日時点)。海上自衛隊の基地があります。今も地下に13,000名もの日本兵の遺骨が埋もれたままとのこと・・・(米兵の遺骨は全て米国本土のアーリントン国立墓地への帰還が完了している)。

石原 俊『硫黄島 〜国策に翻弄された130年〜 (中公新書)』 『玉砕/Gyokusai』(岩波書店)。著:小田 実、ドナルド・キーン、ティナ・ペプラー
石原 俊『硫黄島 〜国策に翻弄された130年〜 (中公新書)』 『玉砕/Gyokusai』(岩波書店)。著:小田 実、ドナルド・キーン、ティナ・ペプラー
梯 久美子『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道〜 (新潮文庫)』。辞世の歌にある「散るぞ悲しき」の文言は「散るぞ口惜し」に改変された・・・ 「父親たちの星条旗 」(平成18年公開)。監督:クリント・イーストウッド。擂鉢山に星条旗を立てた兵士たちは「英雄」と讃えられ、戦時国債の宣伝に利用される・・・。クリント・イーストウッドは、同年、日本側の視点で描いた「硫黄島からの手紙」(Amazon→)も作製・公開
梯 久美子『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道〜 (新潮文庫)』。辞世の歌にある「散るぞ悲しき」の文言は「散るぞ口惜し」に改変された・・・ 「父親たちの星条旗 」(平成18年公開)。監督:クリント・イーストウッド。擂鉢山に星条旗を立てた兵士たちは「英雄」と讃えられ、戦時国債の宣伝に利用される・・・。クリント・イーストウッドは、同年、日本側の視点で描いた「硫黄島からの手紙」Amazon→も作製・公開

■ 参考文献:
●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 信、五味文彦、高埜利彦、鳥海 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.472-477 ●『図説 太平洋戦争』(太平洋戦争研究会 河出書房新社 平成7年初版発行 平成13年12刷参照)アジア太平洋戦争の主要海戦・航空戦地図、P.54-61、P.110-113 ●『昭和史(1926-1945)(平凡社ライブラリー)』(半藤一利 平成21年発行)P.426-451 ●「小笠原返還50周年 中央区で記念講演 硫黄島「地域限定で生活可」」(「東京新聞」平成30年11月30日掲載) ●「硫黄島の地面の下」(梯 久美子『私の東京物語』第8話 ※「東京新聞」平成31年1月16日掲載) ●「井上 靖 〜胸の内まで伝える言葉〜(美しくかなしき人々)」(岡野弘彦)(「東京新聞」(夕刊)平成29年8月16日掲載)

■ 参考映像:
●「地獄の戦場 硫黄島」(COSMIC PICTURES「衝撃の映像 太平洋戦争」)

※当ページの最終修正年月日
2024.3.19

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