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硫黄島の惨状 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『【図説】太平洋戦争』(河出書房新社)
昭和20年3月19日頃(1945年。
太平戦争末期の
西は男爵の家に生まれ、後に自身も男爵を継承。騎兵(陸軍の花形)の道に進み、昭和7年のロサンゼルス・オリンピックで、 時代の流れで騎兵部隊が削減されて、代わって戦車部隊が登場、西も転身しました。昭和18年に中佐に昇進し、昭和19年には「戦車第26連隊」の連隊長として満州をへて、硫黄島に来ました。はぐれた兵士を拒絶する指揮官が多い中、西はそれを招き入れ、米捕虜にも可能な限りの手当をしたとのエピソードが残っています。 ------------------------------------------------------ 「硫黄島の戦い」に至る概略を記すと、まずは、ハル・ノートで満州事変以後の侵略政策を全否定された日本が、12日後の昭和16年12月8日、英領マレー半島に侵攻(陸軍。英国に対する事前通告をしなかった)、そのおよそ1時間後に米海軍の重要基地・ハワイの真珠湾を奇襲(海軍。米国に対する開戦の通告は攻撃の1時間ほどのちになされた)、アジア太平洋戦争を始めました。不意打ちを食らった米国は太平洋艦隊の主力を失い、英国も東洋艦隊の主力を失います。日本はその隙に、半年足らずで、東南アジアのほぼ全域を制圧しました。 米軍が総力をあげて反撃に出るのは、半年後の昭和17年5月。事前通告をしなかった日本に対し、米国世論は容赦しないという態度で一致団結しました(日本の初戦時の“汚いやり方”は現今も引き合いに出され、今も真珠湾攻撃を美化する日本人が少なからずいることなども欧米人の日本人蔑視の一因になっているのだろう)。米軍は、オーストラリアからニューギニア、ガダルカナル島と島伝いに北上して日本が占領したフィリピンを目指し、同時に、計16隻の航空母艦からなる大機動部隊を編成、日本軍が確保を計画していた太平洋の中央部の島々の攻撃に乗り出します。米軍はマリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムと占拠してゆき、その後、そこを拠点に日本本土への空襲を本格化させました。
そして次に狙われたのが、小笠原諸島南端近くの硫黄島でした。日本軍が要塞とした島です。ここを奪われたら、大型爆撃機B29の緊急着陸を許すこととなり(また、攻撃に対しては無防備なB29を援護する新鋭戦闘機P51の基地となり)、日本本土の制空権さえ握られることとなります。日本はその防衛に29,000人あまりの将兵を送り、上陸してきた米将兵75,000人あまりと対峙しました。 米軍は前年(昭和19年)7月から、空と海(戦艦450隻)から激しく攻撃し、昭和20年2月19日に上陸を開始。5日で占領できると見込んでいましたが、西南端の
日本側の戦力は2万3千名弱で、死者はおよそ2万2千名(平成29年厚生労働省発表では21,900名。残り1千名ほどが捕虜となった)、米国側の戦力は11万名ほどで死者が6,821名で、戦傷者が19,217名。 折口信夫の養
朝つひに命たえたる兵一人 春洋がいかなる状況で死去したかは不明ですが、折口は、米軍上陸開始の2日前の2月17日を春洋の命日と定め「南島忌」とします。折口は自分の墓は不要と考えていましたが、愛弟子の魂を鎮めるため、また、自らもそれに添うために、春洋の故郷に2人の墓(石川県
もつとも苦しき たゝかひに最苦しみ 死にたる むかしの陸軍中尉 折口春洋 ならびにその 父信夫の墓(墓碑銘より)
名将として名を残した人、著名な人の他にも、幾万の同等の命がありました。人のマッス(かたまり)としてではなく、敵味方関係なく、その一人一人の生と死が語り尽くされる日がくるでしょうか。 硫黄島は都心の南約1,200kmの地点にある火山島で、東京都小笠原村に属します。東西8km、南北4km。隆起によって面積が広がり、父島を抜いて、現在、小笠原諸島最大の島。明治時代から入植が始まって、硫黄の採取やサトウキビ・コカ・レモングラスなどの生産に従事する人が、一時は1,000名ほど住んでいたとか。要塞化するにあたり、強制疎開させられています(軍務にあたるために徴用された人も。うち90名前後が戦死。戦闘に巻き込まれた島民がいたということ)。昭和43年、日本に返還されましたが、火山活動の活発化や、戦没者の遺骨や不発弾が残っていることなどから、帰島が実現していません(平成30年11月30日時点)。海上自衛隊の基地があります。今も地下に13,000名もの日本兵の遺骨が埋もれたままとのこと・・・(米兵の遺骨は全て米国本土のアーリントン国立墓地への帰還が完了している)。
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