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墓を巡る(昭和18年3月9日、北川千代の夫・高野松太郎が死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北川千代と高野松太郎の墓


アジア太平洋戦争中の昭和18年3月9日(1943年。 北川千代(48歳)が、夫の高野松太郎を狭心症で喪くしました。

北川は、家の近くの九品仏くほんぶつ浄真寺じょうしんじ (東京都世田谷区奥沢七丁目41-3 Map→)に墓をたて、日記に「三月九日をもってわが人生おわる」と記しています。理解しあった伴侶の死ほど辛いものはないでしょう。

北川が売れっ子作家の江口 かん との7年間の夫婦関係を解消して、足尾銅山での労働運動の闘士・高野と同棲を始めたのが、21年前の大正11年(北川28歳)。2人して労働者の町といわれた三河島町(東京都荒川区)で暮らし始めます。高野は建設現場で土木作業に従事したり労働運動で各地を歩き回ったりといった感じで、北川江口と一緒のときよりも数段経済的に苦しくなりました。しかし、高野と一緒になってから、北川の執筆活動を含む全生活がかつてと比べものにならないほど充実。三河島のあと2人は当地(現在「大森地域庁舎」(東京都大田区大森西一丁目12-1 Map→)があるあたり)で「高野 養兎ようと 研究所」なるものを営んでいます(昭和2年〜。北川33歳〜)。200羽ほどの うさぎにわとり鵞鳥がちょうのほか、七面鳥、 孔雀くじゃく山羊やぎ 、あひるまでいて動物園のようでした。

墓に霊魂が宿るとは思えませんが、墓はその人を思い返す よすが となるでしょう。墓を巡り、その人とその人が生きた時代に思いを馳せる、そんな時間が持てたらと思います。

当地(東京都大田区)の万福寺(東京都大田区南馬込一丁目49-1 Map→)には、「奇術といえば 天勝てんかつ 」と言われるほど人気を博した女流奇術師・天勝の墓があります(西徳寺さいとくじ (東京都台東区 Map→)の墓から分骨された)。天勝は、三島由紀夫の自伝的小説『仮面の告白』にも、浅草のレビューブームを作った川端康成の『浅草紅団』にも出てきます。

万福寺には、天勝の墓と並んで、彼女の後を追うように亡くなった夫の金澤一郎(スペイン語学者)の墓や、やはり数年後に亡くなった「天勝一座」の三橋支配人の墓もある 万福寺には、天勝の墓と並んで、彼女の後を追うように亡くなった夫の金澤一郎(スペイン語学者)の墓や、やはり数年後に亡くなった「天勝一座」の三橋支配人の墓もある

当地には、本門寺(東京都大田区池上一丁目1 Map→ Site→)という大寺院があり、それこそ一生追究しても追究しきれないほど多くの著名人が眠っています。

本門寺の幸田一族の墓域には、幸田露伴、その妹で音楽家の幸田 のぶ(東京音楽学校で滝 廉太郎や山田耕筰を育てた)、兄の郡司成忠ぐんじ・しげただ(北千島の探検者)、弟の幸田成友しげとも (史学者)、娘の幸田 文)の墓があります。

露伴の墓から本門寺の五重塔を見上げる 幸田 延の墓碑だろうか。楽譜が刻まれている
露伴の墓から本門寺の五重塔を見上げる 幸田 延の墓碑だろうか。楽譜が刻まれている

本門寺には、江戸初期、幕府の御用絵師として君臨した狩野家の三兄弟の墓もあります。

長男・探幽の墓 次男・尚信の墓 三男・安信の墓
長男・探幽の墓 次男・尚信の墓 三男・安信の墓

本門寺には、「竹橋事件」の最重要人物の岡本柳之助の墓もあります。事件の中心にいながら途中で逃げた岡本の墓は、立派なものです。かたや、事件で暴徒と決めつけられ、まともな裁判も受けられずに処刑された55名は1つの墓(「旧近衛鎮台砲兵之墓」。青山霊園(東京都港区南青山二丁目32-2 Map→)の11号29側にある))で済まされました。後者は、しばらく行方不明でしたが、百回忌にあたる昭和52年に当地で見つかったとのこと。彼らが忌避され、軽んじられてきたのが分かります。

岡本柳之助の墓 青山霊園にある「旧近衛鎮台砲兵之墓」。しばらく行方不明だったが、百回忌にあたる昭和52年に当地で見つかる。彼らの死がいかに軽んじられていたかが分かる
岡本柳之助の墓 「旧近衛鎮台砲兵之墓」

本門寺には、戦後直後のヒーロー・力道山の墓もあれば、英 一蝶の墓もあります。

本門寺の隣の 本行寺 ほんぎょうじ 東京都大田区池上二丁目10-5 Map→日蓮が入滅した寺)には、女形の人間国宝・花柳章太郎と、溝口健二の墓(溝口家の墓)が隣合わせにあります。花柳の墓誌は、花柳溝口両者の共通の知り合いの川口松太郎の書。この3人は、昭和14年公開の映画 「残菊物語」を一緒に作りました。溝口(41歳)が監督し、川口(40歳)が構成、花柳(45歳)が主演しています。

左の円内が花柳章太郎の墓所。黒い板碑は、川口による墓誌。右の円内が溝口家の墓所 左の円内が花柳章太郎の墓所。黒い板碑は、川口による墓誌。右の円内が溝口家の墓所

軽井沢で美しい虹を見た2人の墓は、偶然でしょうが、すぐ近くです。歩いてもすぐです。芥川龍之介の墓は慈眼寺(東京都豊島区巣鴨五丁目37 Map→)にあり、片山広子の墓は染井霊園(同駒込五丁目5-1 Map→)にあります。

芥川龍之介の墓 青山霊園にある「旧近衛鎮台砲兵之墓」。しばらく行方不明だったが、百回忌にあたる昭和52年に当地で見つかる。彼らの死がいかに軽んじられていたかが分かる
芥川龍之介の墓 片山広子の墓

東京の禅林寺(三鷹市下連雀しもれんじゃく四丁目18-20 Map→)には、太宰 治森 鴎外の墓が斜めに向かい合っています。鴎外の近くに眠ることが太宰の夢でした。瀬戸内寂聴(当時は瀬戸内晴美)が鴎外の墓参をすると三島由紀夫に手紙に書くと、鴎外を尊敬し、太宰には思うところがあった三島から、「鴎外のお墓に私の分もお参りしてください、太宰のお墓にはお尻を向けて」と返事がきたそうです(笑)。

西村賢太が令和4年、心疾患で突然死去、石川県七尾出身の小説家・藤澤清造の墓の隣に葬られました。西村は藤澤に私淑しており、藤澤の墓の隣に自分で墓を作っていました。平成6年の能登半島地震で、2人の墓がある西光寺(石川県七尾市小島町148 Map→)も被災したとのことです。無事でしょうか・・・。

折口信夫は当地(東京都品川区)で17年間同居した愛弟子の藤井春洋を硫黄島で失います。それまでは自分の墓は不要と考えた折口ですが、藤井の故郷の石川県羽咋はくい に藤井を記念する墓を建て、墓碑銘を刻み、8年後(昭和28年66歳)自らもそこに入りました。

行ってみたいのが、辻 まことの墓。福島県の長福寺(双葉郡上川内三合田29 Map→)にあるそうです。墓石はスイカくらいの天然石で、 草野心平が拾ってきたそうです!

大塚英良『文学者掃苔録図書館 ~作家・詩人たち二五〇名のお墓めぐり~』(原書房) カジポン・マルコ・残月『 墓マイラーカジポンの世界音楽家巡礼記 』(音楽之友社)
大塚英良『文学者掃苔録図書館 ~作家・詩人たち二五〇名のお墓めぐり~』(原書房) カジポン・マルコ・残月『 墓マイラーカジポンの世界音楽家巡礼記 』(音楽之友社)
関根達人『墓石が語る江戸時代 〜大名・庶民の墓事情〜 (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館) 「お墓から見たニッポン」(テレビ大阪)。お墓を訪ね、日本の歴史を考える
関根達人『墓石が語る江戸時代 〜大名・庶民の墓事情〜 (歴史文化ライブラリー)』(吉川弘文館) 「お墓から見たニッポン」(テレビ大阪)。お墓を訪ね、日本の歴史を考える

■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→
村松友視の『力道山がいた』を読む→
川口松太郎の『日蓮』を読む→
芥川龍之介の『魔術』を読む→
片山広子の『翡翠』を読む→
瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』を読む→
辻 まことの『山の声』を読む→

■ 参考文献:
●『覚めよ女たち ~赤瀾会の人びと~』(江刺昭子 大月書店 昭和55年初版発行 昭和56年発行2刷)P.201-211 ●『北川千代 ・ 壷井 栄(日本児童文学大系22)』(ホルプ出版 昭和53年初版発行 昭和54年発行2刷)P.456-459、 P.461 ●『奇術師誕生 ~松旭齋天一、天二、天勝~』(丸川賀世子 新潮社 昭和59年発行)P.74-78、P.213 ●『松旭斎天勝』(石川雅章 桃源社 昭和43年発行)P.3-6、P.299-302 ●『異端の球譜 ~「プロ野球元年」の天勝野球団~』(大平昌秀 サワズ出版 平成4年発行)P.184-193 ●「太宰 治の病跡 〜「HUMAN LOST」から「人間失格」への軌跡」」(中野嘉一)※「日本病跡学雑誌 (第21号)」(日本病跡学会 昭和56年発行)P.3 ●「被災地の文学遺産(大波小波)」(ともに)※「東京新聞(夕刊)」(令和6年1月25日号)に掲載 ●『折口信夫(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.82-83、P.90

※当ページの最終修正年月日
2024.3.9

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