原 民喜と貞恵夫人 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『原 民喜(人と文学)』(勉誠出版)
昭和19年9月28日(1944年。
原 民喜(38歳)が妻の貞恵(33歳)を病いで亡くしています。
原は極度に寡黙な人で、人と会っても一言も言葉を発しないこともあり、人と上手く交われませんでした。でも、昭和8年(27歳)、気さくな貞恵と一緒になってからは、彼にも心穏やかな日々がやってきます。
原は貞恵について次のように書いています。
・・・私の書くものは殆
ど誰からも顧みられなかつたのだが、ただ一人、その貧しい作品をまるで狂気の如く熱愛してくれた妻がゐた。・・・(原 民喜「死と愛と孤独」より)
貞恵は原の才能を疑わず、さりげなく彼を励まし続けたのです。 原の生活力のなさに呆れて実家側が戻ってくるようにいっても、彼女はきっぱりはねつけ、彼のそばにい続けました。
そんな至福の時間にも、結婚6年目の昭和14年、貞恵が発病し、陰りがさしてきます。
そして、とうとう別れの時。
・・・妻が危篤に陥る数時間前のことだつた。彼は妻の枕頭で注射器をとりだして、アンプルを
截
らうとしたが、いつも使う
鑢
がふと見あたらなくなつた。彼がうろたへて、ぼんやりしてゐると、寝床からじつとそれを眺めてゐた妻は、『そこにあるのに』と目ざとくそれを見つけてゐた。それから細い苦しげな声で、『あなたがそんな風だから心配で
耐
らないの』と云
つた。・・・(原 民喜『遥かな旅』より)
これが事実に即したものならば、貞恵の最期の言葉は、原を心配する言葉だったことになります。
「もし妻と死に別れたら一年間だけ生き残ろう、悲しい美しい一冊の詩集を書き残すために」(『遥かな旅』)と考えた原は、2人の11年間に幕が下りた今、「生涯は既に終つた」(『死のなかの風景』)と書きました。
原爆小説として名高い原の『夏の花』は、妻の墓参りの場面から始まります。妻の死から“一年”が過ぎようとしていました。
私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって新盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。
恰度
、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。・・・(原 民喜『夏の花』より)
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当地(東京都大田区)に住んだ頃(昭和3~4年頃)の犀星一家 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『室生犀星文学アルバム』 |
当地(東京都大田区)に来た頃の周五郎ときよ以 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』 |
室生犀星は、昭和34年、70歳の時、妻のとみ子を亡くしています。
2人は大正7年の結婚以来42年間苦楽をともにしました。経済的に苦しいときは、とみ子が自分の服を質屋にいれて助けています。 彼女は家の前を路上生活者が通ると呼び止めて、握り飯を持たせるといった心根の人でした。
昭和13年とみ子が脳溢血で半身が不自由になると、犀星(49歳)は彼流の優しさで彼女を支えました。空襲の恐れが出てくると、当地(東京都大田区南馬込一丁目49-5 Map→)の家の庭にとみ子が楽に入れる防空壕を作り、何度も避難訓練をしたそうです。体は不自由でも彼女は幸せだったでしょう。
とみ子が亡くなると犀星は、家の庭に彼女の墓を作り、脇の水鉢に毎日のように季節の花を生けました。一周忌には、2人の思い出の地・軽井沢の矢ヶ崎川のほとりに、南馬込の家の庭の傭人像(ようにんぞう)を移し、とみ子の骨の一部を納めました。彼女の死から2年半して昭和37年、犀星が亡くなると、遺族によってもう一体の傭人像が南馬込の庭から移され、犀星の骨の一部も納められます。
昭和20年5月4日、山本周五郎(41歳)のきよ
以
夫人(36歳)が膵臓がんで亡くなりました。太平洋戦争も末期で、闘病のさなかの夫人の体を冷やすための氷が手に入らず、添田知道(42歳)らも奔走しました。棺桶も手に入らず、周五郎は自宅の本箱を崩して棺桶を作り、夫人を納め、ようやく借りたリヤカー(遺体を乗せるのを嫌がり貸し渋る人がいた)で、空襲警報が鳴る中を、添田や又従兄弟の写真家・秋山青磁(40歳)らと、桐ヶ谷火葬場(東京都品川区西五反田五丁目32-20 Map→)までひいていったそうです。きよ以夫人の遺品に、家計の足しにするために、周五郎に内緒で書いた原稿があり、彼をしんみりさせたとか。
昭和2年7月24日、芥川龍之介(35歳)が、薬を飲んで自死しました。生前、片山広子や
秀
しげ子など多くの女性との浮き名を流した芥川でしたが、最期は
文
夫人(27歳)の側にいました。芥川の死に際して、文夫人はつぶやきました、「よかったですね」と。晩年の彼の苦悩を知る文夫人は彼の安らかな顔を見て心からそう思ったようです。芥川が死んだ時文夫人はまだ26歳でしたが、その後、息子3人を立派に育て上げました。
昭和45年11月25日に自死した三島由紀夫(45歳)の妻・瑤子
(33歳)も立派でした。三島亡き後、遺作の整理保存、著作権保護に尽力。経団連襲撃事件の際は、三島を尊敬する犯人たちを説得し、人質12名全員の解放に寄与しました。
片山広子(42歳)は、大正9年3月14日、夫の貞治郎(50歳)を亡くしています。貞治郎は日本銀行の理事だった人で、大森倶楽部の発起人にも名を連ねる地元の名士でもありました。片山は貞治郎を亡くして間もない頃、「弁天池(東京都大田区山王四丁目23-5 Map→)の底へ結婚ゆびわをほうり込んできました」「せいせいした」と言って、知り合いの村岡花子(当時26歳)を驚かせています。こんな歌も作っています。
うらわかき我がほそ指にはめられし
指輪もよごれ疵つきにけり
昭和18年、夫の高野松太郎を狭心症で亡くした
北川千代(48歳)は2人の名を刻んだお墓を建てました。 墓は不要と考えた折口信夫でしたが、昭和20年3月、硫黄島の激戦で愛弟子で、
養嗣子
(家督相続する養子)でもあった藤井
春洋
を失うと、藤井の故郷石川県
羽咋
一ノ宮(Map→)に2人の墓を建て、自らもそこに入ることを決意。
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「小室等」。作詞:谷川俊太郎、作曲:小室 等、編曲:佐藤充彦の「おまえが死んだあとで」を収録 |
城山三郎『そうか、もう君はいないのか (新潮文庫)』 |
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キャサリン・M. サンダーズ 『家族を亡くしたあなたに ~死別の悲しみを癒すアドバイスブック~ (ちくま文庫) 』。訳:白根美保子 |
「髪結いの亭主」。監督:パトリス・ルコント。出演:ジャン・ロシュフォール、アンナ・ガリエナ。満たされた生活だったが・・・。唐突な別れとその余韻 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 室生犀星の『黒髪の書』を読む→
・ 山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
・ 芥川龍之介の『魔術』を読む→
・ 三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
・ 片山広子の『翡翠』を読む→
■ 参考文献:
●『原 民喜(人と文学)』(岩崎文人 勉誠出版 平成15年発行)P.81-109 ●『死と愛と孤独』(原 民喜)(青空文庫→) ●『評伝 室生犀星』(船登芳雄 三弥井書店 平成9年発行)P.188、P.270-271、P.285 ●『大森 犀星 昭和』(室生朝子 リブロポート 昭和63年発行)P.197-203、P.255-256 ●『山本周五郎 馬込時代』(木村久邇典 福武書店 昭和58年発行)P.87、P.227-243 ●『空襲下日記』(添田知道 刀水書房 昭和59年発行)P.142-145 ●「浦安と馬込」(木村久邇典)※『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』(昭和61年初版発行 昭和61年発行2刷)P.42、P.45 ●『片山廣子 ~孤高の歌人~』(清部千鶴子 短歌新聞社 平成9年初版発行 平成12年発行3刷)P.145-162、P.165 ●「大正期の大森・蒲田・羽田/開けゆく田園生活の諸相」(大濱徹也、山本定夫)※『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.358
※当ページの最終修正年月日
2023.9.28
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