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当地(東京都大田区南馬込一丁目)にいた頃の山本周五郎。 後ろの本箱が妻の棺桶になった ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『山本周五郎(新潮日本文学アルバム)』
昭和20年5月4日(1945年。
山本周五郎(41歳)の妻・きよ 戦争も末期で、物がなく、 周五郎は当地の自宅(東京都大田区南馬込一丁目18-5 Map→)の本箱を崩して棺桶を作り、夫人を納めて、空襲警報が鳴る中をリヤカーをひいて このように「あるものを使う」良さってありますね。周五郎は、聖書にお金を挟んで金庫がわりにもしていたそうです。お金に縁のなさそうなところに保管すれば泥棒さんの目を欺けるというわけ。 数十年前までは、簡単な大工道具や、裁縫道具やミシンなどが多くの家にあり、ちょっとした修繕や作り替えに使える木や紙や布の切れ端も家にあって、「あるものを使う」ことを今よりもずっとやっていたと思います。 今あるモノを使い続けるのは、不便だ、カッコ悪い、貧乏くさい、買い換えた方がお得、と考える人が多くなったのは、目新しいものを買ってもらいたい生産者や販売者や広告会社に刷り込まれたからでしょう。本体は全然大丈夫なのに一箇所が故障しただけで、丸ごと買い替えなくてはならないような製品の作り方にも疑問を感じます。 作っては捨てるを盛大にやってきたことで、我々はどれだけ環境(地球)を破壊してきたことでしょう。ようやくSDGs(エス・ディー・ジーズ。Sustainable Development Goals。地球上の全ての人間が今後も生永らえるための方策)が叫ばれるようになって、従来の消費社会に疑問の目が向くようになってきました。 「目の前にあるものを違う用途に生かす」といった思考パターンを「ブリコラージュ」と言います。ゼロから設計図を引いてモノを作る「設計」「エンジニアリング」と反対の概念です。「寄せ集めて自分で作る」「リサイクル」「リフォーム」「リユース」「転用」「修繕して使い続ける」とも重なってきます。従来のやり方にこだわる原理主義ではなく、その都度用途を考える機能主義。どちらかと言えば先進国と言われる国々がおろそかにしてきた「ブリコラージュ」を見直し、受け入れ、発展的に利用していく必要がありそうです。 昭和4年6月1日、南方熊楠(62歳)が、和歌山県
川端龍子邸(東京都大田区南馬込)の「爆弾散華の池」は、米軍が落としていった爆弾の穴を生かして作ったもので、これも良いお手本ですね。
使い続け、残すのは、モノにはそのモノと生きた人たちの人生や歴史や思いも刻まれるから。 歴史や痕跡を残すのは、ノスタルジックで美的な景観資源とするといった「金儲け」のためではありません。残されたものを踏まえて現在・未来を考察する人文科学などでは絶対に必要だからでもあります(経済第一主義者にはそこらへんが理解できない?)。
東大の法文一号館(東京都文京区本郷七丁目3-1 Map→)。かつて八角形の形態から「八角講堂」と呼ばれましたが、関東大震災で倒壊。建築家・内田祥三は、「八角講堂」の土台をそのまま使って新たな建物を建てました。よくみると今も部分的にその形態がわかります。 平成27年6月6日、この法文一号館で「立憲デモクラシーの会」のシンポジウム「立憲主義の危機」がありました。ディスカッションで東大法学部教授の石川健治さんが、会場(法文一号館)に引きつがれている「歴史」と、立憲主義をその「歴史」(成り立ち)から学ぶ意義を関連づけて語られ、印象に残りました。 前にTVで、ヴァイオリニストの五嶋みどりさんが、同じ服を着るのは恥ずかしいと皆が言うけど、いまだに理解できないというようなことを言っていました。違う服を着なくてはならないというのも業界からの刷り込みですね。物事に打ち込んでいる人には、どうでもいいことでしょう。 売らんかなのマーケットからの広告に惑わされない、「ブリコラージュ」っぽいのが優しくってカッコいいと思える感性が社会にもっと根付くといいですね。 ・・・むかしママが好きだった Let's all get up and dance to a song that was a hit
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |