川端龍子邸の「爆弾散華(ばくだん・さんげ)の池」
昭和20年8月13日(1945年。
川端龍子(60歳)の家(東京都大田区南馬込四丁目49-10 map→)の庭に、爆弾が落ちました。
日本がポツダム宣言を受諾する1日前(玉音
放送の2日前)です。その日には、まだ早朝から米軍からの空襲があり、当地(東京都大田区大森周辺)も相当被害がありました。爆撃を終えた米機が余った爆弾を空中で捨て、その一つが流れて川端邸に落ちたようです。アトリエは無事でしたが(巨大な窓ガラスなどは現存)、家は壊れました。
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爆弾が落ちた日(昭和20年8月13日)の川端邸 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典: 大田区立龍子記念館名作展「激動の時代を描く」(平成27年)チラシ |
奇跡的に(?)残ったアトリエの大きなガラス戸(左)。ひさしの裏は竹で編まれている |
落ちた爆弾で庭に大きな穴があきました。そんな穴は禍々しさからすぐにでも埋めてしまいたいのが人情でしょうが、龍子は違いました。その穴を利用して池にします。「爆弾
散華
の池」と呼ばれるものです(頁上部の写真参照)。
「
散華
」とは、仏教で花をまき散らして供養すること。「花が散る」 から転じて、死ぬ意味、特に若死や戦死の意味に用いられるとのことです。龍子は、爆弾が落ちた瞬間を「爆弾
散華
」 という絵にもしています。草花が砕け散る様子を幻視したものですが、よく見ると、野菜のようです。左上のオレンジの実はカボチャで、右上に飛び散っているのはナスの花と葉でしょうか。龍子記念館のガイドさんのお話によると、戦時は食糧難だったので、龍子も庭で野菜を栽培していたとのこと。
歴史は隠すものではなく、知り、忘れず、考え、語り、供養し、未来に生かすもの。龍子は「散華」を、庭と作品に刻みました。
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川端龍子作「爆弾散華」 ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典: turblog...I hope too/『激動の時代を描く』→(リンク切れ) |
●大田区立龍子記念館→
東京都大田区中央四丁目2-1(map→)。静かな空間で龍子の絵と向き合える。毎回テーマ設定されており、入場料もお手ごろ、何度でも足を運びたくなる美術館。毎日何度か、向かいの龍子公園(龍子が細部までこだわって設計したアトリエや「爆弾散華の池」などがある)のガイドもあり
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室生犀星は当地の2カ所(東京都大田区山王四丁目13 map→と東京都大田区南馬込一丁目49-5 map→)に住んでいますが、犀星が愛した庭は現存しません(庭石の一部は
萬福寺
(東京都大田区南馬込一丁目49-1 map→ site→)に、家の離れは馬込第三小学校(東京都大田区北馬込一丁目28-1 map→ site→)に残る)。
軽井沢には犀星の別荘(現・「室生犀星記念館」(長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢979-3 map→ site→)が残っており、庭も家もよく保存されています。
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犀星の別荘へ通じる道。手間に咲くのは水引草
。「水引草に風が立ち」の一節を書いた立原道造もこの道をたどって犀星に会いに行っている |
犀星の庭の苔。犀星は庭の表層を「女性の肌」にたとえた |
別荘の近くに犀星が作った空間(なんと呼べばいいだろう。庭とも違うし公園とも違う。彼が詩碑を建てた場所。思い出空間、慰霊空間・・・。長野県北佐久郡軽井沢町軽井沢821 map→)にも、彼の庭哲学が表現されているんでしょうね。
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当地(東京都大田区)の犀星の家の庭から移設された傭人
像が立つ |
矢ケ崎川
と向き合って過ごす一時 |
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昭和19年頃から当地にも空襲が頻繁にあり、町内に一つは防火用の貯水池が必要ということになって、片山広子(66歳)の家(東京都大田区山王三丁目15 map→)の庭に白羽の矢が立ちます。
・・・不幸なことにそこは私の家であつた。
町会と区役所の人たちが頼みに来るまで私はそんな事を夢にも考へなかつた。個人の家の庭に町会の貯水池が掘られるといふことは、誰だつて考へない事なのだけれど、ぎりぎりに押しせまつた必要と、もう一つは、町会の人みんながひどくのぼせて愛国の気持になつてゐたから、何の働きもできない私のやうな女までも、何か好い仕事をさせてやらうといふ真面目な気持も交つてゐたらしく、最期に町会長が来て懇願した。お国のために、こちらのお庭に貯水池を掘らなければ、三丁目には他に適当な場所が一つもないと言つて、それを私が断れば、お国が困るのだといふやうな意味の話をした。・・・(中略)・・・「平和になつた時に、その穴はどうなるのでせうか?」と、あはれな私は敗戦国にならないで日本に平和が来る日もあると思つて、訊いてみた。「それはむろん区役所の方で人夫をよこして元どほりに埋めるさうですから、後日の事は御心配なく」と言つた。かういふ話を私ひとりでがんばつて受けつけないでゐれば、一億一心といふマトーにはづれるのだから、町会から少しぐらゐ意地わるの事をされても仕方がなかつた。・・・(中略)・・・それでは、庭を使つていただいて、家の方の徴用はゆるして頂けるのでせうねと念を押して、貯水池はついに引受けてしまつた。・・・(片山広子「池を掘る」より)
龍子の家の池も望まずしてできましたが、片山の家の池も別の理由でそうでした。不条理に対する静かな憤りをひそませながらも、エッセイのタイトルを「(池を)掘る」と自動詞にしているあたりにタフなユーモア精神を感じます。結局は嫌気がさしたのでしょう。池が出来るか出来ないかの頃、片山は長年住んだ思い出の地を去って、東京都杉並区の浜田山(map→)へ越します。
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散歩に出れば、いろいろな「庭」を眺めることができます。頑丈なコンクリートで囲んでこれ見よがしに監視カメラを設置している家もありますが、大体はフレンドリーな表情をしています。生垣から透けて見える季節の花の彩や、道に張り出した木々の影。玄関の扉の前や窓からの張り出しのちょっとしたスペースにも、住んでいる人の「表情」「表現」がありますね。
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ジル・クレマン『動いている庭』(みすず書房)。訳:山内朋樹。土地のダイナミズムや植物の振る舞いに委ねる造園 |
室生犀星 『庭をつくる人 (ウェッジ文庫)』 |
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重森三玲 『庭を見る心得』(平凡社)。一回見ただけで「見た」というな、と言う。なぜなら、庭は一瞬一瞬移りゆくから。令和2年発行 |
ヴォルフガング ・タイヒェルト『象徴としての庭園 〜ユートピアの文化史〜 (象徴のラビリンス)』(青土社) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 室生犀星の『黒髪の書』を読む→
・ 片山広子の『翡翠』を読む→
■ 参考文献:
●『画人生涯筆一管(自伝)』(川端龍子 東出版 昭和47年発行) P.390 ●『大森 犀星 昭和』(室生朝子 リブロポート 昭和63年発行)P.254-256 ●『燈火節(新編)』(片山広子 月曜社 平成19年発行)P.79-84 ●「「日々の生活」をベースに(重森三玲著『庭を見る心得』の書評)」(高橋秀実)(「東京新聞」(朝刊。令和2年8月8日掲載))
■ 参考サイト:
●ウィキペディア/・散華(平成25年3月13日更新版)→
※当ページの最終修正年月日
2020.8.13
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