(C) Designroom RUNE
総計- 本日- 昨日-

{column0}

片山広子の『翡翠』を読む(謙虚であり、卑下せず)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芥川龍之介室生犀星片山広子のことを“クチナシ夫人” と呼んだ。片山にはそんな雰囲気があった。人を悪く言わない謙虚な人だったので「とかく人を悪く言う庶民の口(クチ)がない(ナシ)」。

世には、ときおり、人を悪く言わない謙虚な人はいる。 しかし、その多くは自分だけは特別扱いで、自分のことだけは思い切り悪く言ったりする。「いえいえ、私なんか・・・」 と。

ところが片山は、違う。

長い代々のわが敷島の道にあつては、一つの歌を見る時、その歌が萬葉人のであつても、西行や實朝のであつても、また自分自身のものであつても、同じように一つの歌として計りみるべきものと私は信じてゐる。自分のものであつても、しひたげ潰すことは罪である。(片山広子「お声そのままに」より)

彼女は、“偉い先人”の短歌だけありがたがって、自作を蔑むのは 「罪である」 とまで言い切った。

『翡翠(かわせみ)』 には、そんな “クチナシ夫人” の歌が並ぶ。

ことわりも教えも知らず恐れなく
おもひのままに生きて死なばや

人の世のおきては人ぞつくりたる
君を思はむ我がさまたげ

よろこびかのぞみか我にふと來る
翡翠かわせみ の羽のかろきはばたき

片山の謙虚は卑下ではない。ときに情熱もほとばし る。


『翡翠』 について

清部千鶴子『片山広子 〜孤高の歌人〜』。巻末に『翡翠』の歌がすべて収録されている
清部千鶴子『片山広子 〜孤高の歌人〜』。巻末に『翡翠』の歌がすべて収録されている

片山広子が38歳で出した第一歌集。 大正5年3月25日(片山が当地(東京都大田区)にいた頃)、竹柏会出版部から発行された。 「心の華叢書」 の一冊。

翡翠は、 「ひすい(宝石)」 とも読むが、ここでは鳥の「かわせみ」。 「かわせみ」を詠った歌も何首か含まれる。

大正5年6月1日発行の「新思潮」に、芥川龍之介(24歳)が唖苦陀という名で『翡翠』の批評文を寄せている。 幼稚な部分はあるが、果敢に新境地を目指している、とちょっと偉そう(笑)。


片山広子について

片山広子。見苦しい形を残したくないとカメラから逃げまわっていたので、貴重な一枚 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 『片山広子 ~孤高の歌人~』 片山広子。見苦しい形を残したくないとカメラから逃げまわっていたので、貴重な一枚 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典 『片山広子 ~孤高の歌人~』

西洋的素養を身につける
明治11年2月10日(1878年)、東京の麻布三河台の一角で生まれる。父親はニューヨークの総領事を務めた人。妹(次子)と弟(東作)がいた。学んだ東洋英和女学院は自宅から1kmほどだったが寄宿し、宗教的、文学的、西洋的素養を身につける。明治29年(18歳)、卒業後、佐々木信綱に入門し短歌を学ぶ。歌誌 「心の花」に創刊時から参加した。明治32年(21歳)、のちに日本銀行理事となる片山貞次郎と結婚。

歌から離れ、アイルランド文学の翻訳を
明治34年(23歳)頃から「心の花」に英訳文を掲載、大正2年(35歳)頃から鈴木大拙の夫人ビアトリスについて本格的に翻訳を学ぶ。大正5年(38歳)に第一歌集『翡翠』を上梓するが、歌作にマンネリを感じ、また歌壇に身を置くことも好まず、歌から離れて、松村みね子の名でアイルランド文学の翻訳に専念。大正9年(42歳)、夫と死別。大正10年(43歳)に 『ダンセイニ戯曲集』 、大正12年(45歳)に『シング戯曲全集』、大正14年(47歳)にマクラオドの『かなしき女王』を訳出。坪内逍遥森 鴎外からも高く評価され、今もアイルランド文学や幻想文学のファンの間で人気がある。文学活動を仕事と考えなかった片山は、稿料を受け取らなかった(『馬込文学地図』)。

昭和3年(50歳)、女性だけの文芸誌「火の鳥」の創刊を渡辺とめ子にすすめる(『辻村もと子 人と文学』)。昭和10年(57歳)頃、短歌に復帰する。

孤高の歌人
昭和19年(66歳)、浜田山(東京都杉並区 map→)に移転し、一人で暮らす。翌年、長男の片山達吉が死去。第二歌集『野に住みて』が編まれるのは、昭和29年、75歳のときだった。昭和31年(78歳)、「燈火節」でエッセイスト賞を受賞。

昭和32年3月19日(1957年。79歳)、死去。 墓所は染井霊園(東京都豊島区)にある。 )。

片山広子
・ 「室生犀星が、「日本人には珍しい人だ」と評していたが、まったく特長のある性格だった。理智的だと思われるのだが、多分アイルランド文学の影響を深く受けて、ひどく夢幻的なところもあった」(村岡花子

・ 「才力の上にも格闘できる女」(芥川龍之介

・「日本婦人中もっとも学識がある」(菊池 寛

フィオナ・マクラウド『かなしき女王 〜ケルト幻想作品集〜(ちくま文庫)』。翻訳:村松みね子(片山広子) 片山廣子『新編 燈火節』
フィオナ・マクラウド『かなしき女王 〜ケルト幻想作品集〜(ちくま文庫)』。翻訳:村松みね子(片山広子) 片山広子『新編 燈火節』

片山広子と馬込文学圏

片山貞治郎と結婚後、千駄木の家(明治23年から2年ほど森 鴎外が住み、明治32年頃片山夫妻が住んだ。その後、英国から帰国した夏目漱石が明治36年から明治39年まで住み、 『我輩は猫である』を執筆、「猫の家」と呼ばれている。 片山は「ぺんぺん草の家」と呼んでいた。明治村に移築され「漱石の家」として保存されている(『片山広子 ~孤高の歌人~』、『東京路上細見(1)』))をへて鎌倉、そして明治38年(27歳)から当地(東京都大田区山王三丁目15 map→)に住む。

東洋英和女学院の後輩にあたる村岡花子は、結婚後(大正8年。村岡26歳)、片山(41歳)を慕って当地(東京都大田区中央三丁目12-4 map→)に居を構えた。 村岡に翻訳を勧めたのは片山である。家事の苦手な村岡片山がご飯のおかずを届けることもあったとか。

大正9年(42歳)夫・貞次郎が死去。まもなく、弁天池(東京都大田区山王四丁目23-5)に結婚指輪を投げ入れる。夫に左右されていた過去に区切りをつけたのか。芥川龍之介との交流を深める。長男の片山達吉が結婚して近くに家を構え(臼田坂付近。東京都大田区南馬込四丁目)、娘の総子も嫁ぐ。以後、若い女中と暮らした。

昭和19年(66歳)頃から空襲が頻繁にあり、町の防火貯水池が広い敷地を持つ片山の家にできた。気が進まなかったが、一億一心という国家のモットーに外れれば町会から意地悪されかねないご時世、涙を飲む。東京都杉並区浜田山に家を見つけ、34年間にわたる当地住まいに切りをつけた。翌昭和20年、長男達吉が死去、そのときはもう片山邸は強制疎開で取り壊されていた。

作家別馬込文学圏地図 「片山広子」→


参考文献

●『片山広子 ~孤高の歌人~』(清部千鶴子 短歌新聞社 平成9年初版発行 平成12年発行3刷参照)P.14 、P.17-18、 P.44、P.66、P.80-84 ●『燈火節(新編)』(片山広子 月曜社 平成19年発行)P.79-84、P.225-228 ●『物語の娘 宗 瑛を探して』 (川村 湊 講談社 平成17年発行)P.124-125 ●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 同年発行2刷参照)P.76 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.178-188 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館編・発行 平成8年発行)P.18、P.56、P.104  ●ビデオ『娘が語る作家の素顔 ~村岡花子編~』 (東京都大田区) ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.138-139 ●『辻村もと子 人と文学』(加藤愛夫 いわみざわ文学叢書刊行会 昭和54年発行)P.150 ●『火災保険特殊地図 N0.66』(沼尻長治作成 昭和13年発行) ●『東京路上細見(1)』(林 順信 平凡社 昭和62年初版発行 同年発行2刷参照)P.140-144 ●『大田区史(下巻)』(東京都大田区 平成8年発行) P.358 ●『青い猿』(室生犀星 春陽堂 昭和7年発行)P.117-118


参考サイト

麦小舎に暮らす/片山広子というひと。→ ●東京さまよい記/夏目漱石旧居跡(千駄木)→

※当ページの最終修正年月日
2020.5.13

この頁の頭に戻る