夕陽を受けて輝く本門寺(東京都大田区池上一丁目 1 Map→)の五重塔。池上会舘(東京都大田区池上一丁目32-8 Map→)の屋上庭園より
天正18年10月13日(1590年。
後の江戸幕府2代目将軍・徳川
秀忠(11歳)の乳母・
大姥局
(岡部局
。65歳。後に大奥で春日局(3代目将軍・家光の乳母)と権勢を競う)が、本門寺に参詣したと推測されています。
典拠の『天正日記』には、
十三日くもる、池上の御寺へ御うばどの御まいり
とあり、「御うばどの」(「御乳母殿」)としか書かれていませんが、最大限の敬意が込められており、岡部局と推測されています。『天正日記』は、秀忠の
傳役
だった内藤
清成
の家臣・数田吉兵衛が書いたと推測されています。日付に混乱があることなどから偽書との説もありますが、書かれた背景を考慮すれば十分に使える資料とも言われています。
岡部局は、3年後の文禄2年(1593年。68歳)、秀忠(14歳)の
疱瘡(
天然痘
。全身に水ぶくれができ致死率が高かった)快癒を願い本門寺に五重塔を建てることを発願、13年後の慶長13年(1608年。岡部局83歳)、立願成就のお礼に五重塔を奉納しています(五重塔の露盤(伏鉢)には前年(慶長12年)に岡部局の発願で建立されたと刻まれている)。秀忠の将軍就任(慶長10年。1605年)の3年後であり、将軍職を全うしていることへの感謝の念も込められていることでしょう。
本門寺の五重塔は、全体がベンガラ(インドのベンガル地方の赤鉄鉱<鉄の赤錆と同じ成分を持つ>から抽出した塗料)塗りで赤く、高さは31.8mあります。初層と2層の屋根は本瓦葺きで、3層から上が銅板葺き。初層のみが和様で、2層から上は唐様です。五重塔によっては上にいくほどかなり小さくなるものがありますが、本門寺のはあまり変わりません。
作ったのは工匠の鈴木近江守長次。最初は祖師堂の前にありましたが、元禄の頃、寺域整備の一環で、現在の位置に移築されたとのこと。昭和20年の空襲で本門寺もかなり焼けましたが焼け残りました。関東で現存する五重塔では一番古いそうです。
この五重塔の下あたりの墓域に幸田露伴、幸田 文ら幸田一族の墓があります。露伴といえば『五重塔』なので、そのゆかりかなと思いましたが、露伴の『五重塔』は、 東京谷中の天王寺(東京都台東区谷中七丁目14-8 Map→)の五重塔がモデルなのですね。天王寺の五重塔は、本門寺の五重塔と同様、1600年代(天保2年(1654年)に建ちましたが、その後2度焼けて、今は存在しません。
1度目は、「江戸の三大大火」の1つ「明和の大火(目黒
行人坂
の
大火)」で焼け、19年して寛政3年(1791年)、再建されることとなって、その時のことを題材にしたのが露伴の『五重塔』です。「のっそり」というあだ名ののんびり屋の大工・十兵衛(手下の職人からもコケにされている)と、切れ者の大工の棟梁・源太という、タイプがまったく異なる2人の職人が、五重塔再建を巡って心意気を交える、清々しい話です。
2度目は、昭和32年、心中するための放火で焼けました。●「谷中五重塔放火心中事件」に取材したドキュメンタリー映画「谷中暮色」の予告編→
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昭和32年7月6日、谷中霊園のシンボルだった天王寺の五重塔が焼けた(写真は当地の掲示物にあったもの)。五重塔の跡には礎石だけが残っている(Photo→) |
ところで、五重塔はどんな塔なんでしょう?
五重塔(三重塔も)には、本来、
釈迦の骨((仏)舎利)を埋めた上に立てる塔婆
の意味があり、それを守るために五重(三重)にも屋根を設けたものなんだそうです。よって、肝心なのは塔の中心を貫く塔婆である
心柱
。複数の屋根はその付属と考えられます。法隆寺や薬師寺など古い時代の塔には、心柱の礎石に舎利孔という穴があって、そこに実際に仏舎利が収められているそうです(世界中に分配するほど仏舎利はあるのでしょうか? 砂つぶほどの大きさでしょうか?)。
仏教は5つの物質(五大。地・水・火・風・空)によって万物が作られていると考えるようで、五重塔はそのことを示唆しているとのこと。
内陣
という部屋(仏像や壁画などが安置されている)があるのは初層のみで、2層以上はなく、筒抜けのようです。
日本と大陸(現在の中国・朝鮮)との行き来は、紀元前1,000年頃から始まり(縄文時代から弥生時代への移行期)、水稲、鉄器、青銅器、機織り具、騎馬技術(古墳に馬具が副葬されるようになり、馬を象った埴輪も作られるようになる)などが大陸より日本にもたらされました。400年前後になると儒教が、そして、医・易・暦などの学術も、大陸(特に親しく交流した現在の朝鮮半島にあった加耶や百済)からもたらされます。そして、538年には百済の
聖明王
から仏像と経典が欽明天皇に贈られ、正式に仏教が伝来。
このように、仏教がインドから伝わったのも日本より大陸の方が早く、五重塔の形象も、百済時代の史跡に見られます。
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百済時代の遺跡・定林寺
址(扶餘郡, 大韓民国 チュンチョン南道 Map→)の国宝「五層の石塔」 ※「パブリックドメインの写真(クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンスにより許諾/作者:Straitgate)を使用 |
現存する日本最古の五重塔は、法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1-1 Map→)のものです。法隆寺は、推古天皇15年(607年)に聖徳太子が創建。天智天皇9年(670年)の落雷で他の堂塔といっしょに焼失しましたが、700年までに再建されました。
和辻哲郎が法隆寺の五重塔には「動的な美しさ」にあると書いています。
・・・もう一つこの日の新発見は、五重塔の動的な美しさであつた。・・・(中略)・・・頸
が痛くなるほど仰向いたまゝ、ぐるぐる廻つて歩く。この漫歩の間にこの塔がいかに美しく動くかを知つたのである。・・・(中略)・・・塔は高い。従つてわたくしの眼と五層の軒との距離は、五通りに違つてゐる。各層の勾欄〔欄干〕も枓栱
〔柱最上部で軒桁を支える部位〕も各々五通り違ふ。・・・(中略)・・・わたくしが一歩動きはじめると、この権衡〔均衡〕と塔勢を形づくつてゐる無数の形象が一斉に位置を換へ、わたくしの眼との距離を更新しはじめるのである。・・・(和辻哲郎『古寺巡礼』より)
ぜひ、ぐるぐる回ってみたいですが、今、法隆寺は入るだけで1,500円もかかるのですね。これでは、「レ・ミゼラブルの奇跡」も起こりえません。当地の本門寺は自由に入れるので(入場料なし)、様々な時刻(明け方や深夜も)の五重塔が鑑賞できます。
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上田 篤『五重塔はなぜ倒れないか (新潮選書) 』。各層から独立した心柱が貫き、地震の揺れを緩衝される仕組など |
西岡常一『木に学べ 〜法隆寺・薬師寺の美〜(小学館文庫)』。宮大工が語る「木の心」。木とともに生きるとは? |
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幸田露伴『五重塔 (岩波文庫) 』 |
藤森照信、前橋重二『五重塔入門 (とんぼの本)』(新潮社) |
■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.7、P.214、P.216、P.221-222 ●『(校訂)天正日記』(注:小宮山綏介
明治16年発行)(NDL→) ●「校訂天正日記の資料価値」(蓮沼啓介)※「法務研究(第15号)」(日本大学大学院法務研究科 平成30年発行)に収録(PDF→) ●「五重塔(二)」(杢 正夫)、「五重塔内本化四菩薩」(編集部)※『池上 本門寺(写真集)』(日本美術社 昭和41年発行)に収録 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.160 ●「長耀山感應寺 〜谷中感應寺五重塔(谷中天王寺五重塔)〜(巻之5)」(s_minaga)(「がらくた」 置場→) ●『木に学べ 〜法隆寺・薬師寺の美〜』(西岡常一 昭和63年初版発行 同年発行8刷)P.86-88 ●「五重の塔」※「日本国語大辞典(精選版) 」(小学館)に収録(コトバンク→) ●「五重塔」※「ブリタニカ国際大百科事典」に収録(コトバンク→) ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤
信
、
五味
文彦、
高埜
利彦、
鳥海
靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷)P.16、P.36-38 ●「日韓交流先駆けの古都 似通う建築 〜日本? いえ、百済です」(上野実輝彦)※「東京新聞(夕刊)」令和5年5月17日号に掲載 ●「法隆寺」※「日本国語大辞典(精選版) 」(小学館)に収録(コトバンク→)
※当ページの最終修正年月日
2023.10.13
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