天和
2年12月28日(1682年。
の昼頃、大円寺(東京都文京区向丘
一丁目11-3 map→。斎藤緑雨の墓がある)から出火して翌朝5時頃まで延焼、『
武野八代集
』(どういった書物だろう?)によると3,500名以上が亡くなったそうです。「
天和
の大火」と呼ばれています。
「天和の大火」は、江戸の大火を記述した『歴代炎上鑑』に「お七(の)火事」と記載されています。同書が書かれた江戸後期には、「天和の大火」はお七が付け火した火事というのが定説になっていたようです。
ところが、「天和の大火」の4年後(
貞享
3年(1686年))に、井原西鶴(44歳)が書いたとされる『好色五人女』(作者未詳で西鶴作品とする学問的根拠はないが、その前衛性を西鶴以外の当時の作家に見いだすことができない)では違っています。
『好色五人女』では、12月28日の「天和の大火」がお七の付け火によるものでなく、お七の家族(本郷森川宿(現・東京都文京区本郷六丁目 map→)の八百屋の大店「八兵衛」)もその火事で焼け出され、菩提寺の
吉祥寺
(東京都文京区本駒込三丁目19-17 map→ ●同寺院の「比翼塚(ひよくづか。愛し合う二人のための供養塔)」→)に避難したとしています。
その後『好色五人女』では、吉祥寺で お七が、
寺小姓
(住職の身の回りの世話をする少年)の
吉三郎
と相愛の仲になります。年を越して天和3年1月25日(1683年)、お七の家の新居が完成、1ヶ月足らずで楽しかった避難生活が終わり、吉三郎と別れ離れに。新居に移ったお七は吉三郎への思いを募らせます。そして、また火事になれば吉祥寺に戻れて、吉三郎にも会えると、お七は付け火をしてしまうのでした。『
天和笑委集
』(貞享年間(1684-1688)成立。写本が残る。作者未詳。お七の放火とその顛末について最も詳しく書かれた文献。西鶴もこれを参考にして『好色五人女』を書いたのか?) によると避難生活を終えて40日ほどした3月2日の夜のこと。
火事はぼやで済みましたが、放火は大罪。翌日(3月3日)、お七は町奉行に引き渡され、1ヶ月もしない3月29日(天和3年。1683年)、市中引き回しの上、当地の鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井二丁目7-3)で火あぶりになったとされています。
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「天和の大火」の出火元とされる大円寺の「ほうろく地蔵」。焼けたほうろく(鍋の一種)を被り、火あぶりになったお七の苦しみを引き受けているという |
円乗寺(東京都文京区白山一丁目34-6 map→ site→)のお七の供養塔。お七が家族と避難したのを西鶴は吉祥寺としたが、ここ円乗寺との説もある |
「天和の大火」の他にも、 江戸では大火が49回もあったそうで、世界でも類がないようです。
「江戸の三大大火」といえば、最初が明暦3年(1657年)の「明暦の大火」(「天和の大火」の25年前)。3日間燃え続け、江戸の大半を灰にしました。江戸城の外堀の内側はほぼ全焼、3~10万人もの死者が出たそうです。江戸城(現・皇居)の天守閣も燃え、以後再建されていません。林 羅山は、この火事で蔵書を全て失い、その衝撃の中、4日後に死去。
「明暦の大火」は「振袖火事」とも呼ばれます。麻布の質屋の娘ウメノが寺の小姓風の美少年に恋をしたというのです。彼女は彼と同じ振袖を枕に着せカツラをかぶせ夫婦ごっこをしていたというのです。そのうちに切なさのあまり病になり17歳で死去。その振袖は次々に同じ年頃の娘にわたり、彼女らの命を奪っていったとのこと。根も葉もない怪談の類でしょう。商家の娘と寺小姓の組み合わせがお七の話にそっくりです。“お七の物語”の原型ではないでしょうか。
さらにはこじつけも甚だしく、その振袖を「不受不施派(日蓮宗の一派)」が供養しなかったがために娘たちの命が奪われたというのです。それで、本妙寺(現・豊島区巣鴨。かつては東大の赤門前にあった)でその振袖を供養することになります。ところが、僧侶が振袖を火にくべた瞬間につむじ風が起きて、燃えた振袖が寺の本堂を焼き、寺の外にも燃え広がって「明暦の大火」になったというのです。「不受不施派」に悪いイメージを持たせるために権力者サイドが流したデマではないでしょうか?
あと、「お七の火事」もそうですが、罪を被せやすい存在(例えば商家の娘)に罪を被せた可能性も高いのではないでしょうか? 失火の罪は重いので、武家や大名屋敷では、出火しても門を閉ざし、極力自力で消そうとしたし、周りもその事情を察して、門が開かないうちは、手を貸さなかったとか。そして、武家や大名屋敷が火元になった場合は、他の弱い存在にその罪を被せた可能性もあるのではないでしょうか?
「お七の火事」(「天和の大火」)の20年後(元禄15年(1702年))赤穂浪士の討ち入りがありますが、浪士たちは上記の習慣(火事になると武家は門を閉ざす)を利用して、火消しの格好をし(日頃から赤穂の火消しの勇敢さは評判だった)、「火事だ! 火事だ!」と叫びながら吉良邸に侵入したようです。ぞろぞろ歩いていても火消しの格好なら不審に思われずらいし、火事であれば、門が開くまでは周りの武家が吉良邸に駆けつけることもなかったでしょう。
おな、「明暦の大火」には、「幕府放火説」「本妙寺火元引受説」というのもあるそうです。
「江戸の三大大火」の2番目が、115年後(明和9年(1772年))の「明和の大火(「行者坂の大火」)」。死者・行方不明者が1万8,900人ほども出たようです。出火元が「天和の大火」同様大円寺(目黒区。「天和の大火」の大円寺は文京区)なのが不思議・・・。3番目が文化3年(1806年)の「文化の大火」です。
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「明暦の大火」で死亡した10万もの人を供養するために建てられたという「回向院
」(東京都墨田区両国二丁目8-10 map→ site→)。小学生の頃の芥川龍之介の遊び場だった。鼠小僧次郎吉の墓がある |
「明和の大火」の出火元とされる大円寺(東京都目黒区下目黒一丁目8-5 map→)の五百羅漢。亡くなった人の供養のためという。近くの明王院(現・「雅叙園」(東京都目黒区下目黒一丁目8-1 map→))にお七の恋人・吉三郎の伝説が残る |
「江戸っ子は宵越しの金をもたない」といいますが、お金を貯めてもどうせ火事でなくなってしまうので、後のことは考えずにパッと使ってしまおうということのようです。また、江戸の火事を「華」といいますが、実際はこの世の地獄。江戸のイメージを悪くしないよう為政者がこしらえた標語か、はたまた庶民の精一杯の強がりか? 明治になってですが、焼け出された人たちが「平素通り幸福そうに見える」のに来日していたモースが驚いています。命さえ助かれば、案外のんきだったのも事実かも。
■ 馬込文学マラソン:
・ 芥川龍之介の『魔術』を読む→
・ 山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
■ 参考文献:
●『お七火事の謎を解く』(黒木
喬 教育出版 平成13年発行)P.105、P.121、P.127、P.161-162 ●「『好色五人女 好色一代女』解説」(東 明雅)※『好色五人女 好色一代女(完訳 日本の古典)』(小学館 昭和60年発行)P.437-440 ●『大田区史年表』(監修 :新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.233、P.244-247 ●『江戸から東京へ(一)(中公文庫)』(矢田挿雲 昭和50年初版発行 昭和50年7刷参照)P.125-129 ●『日本その日その日(1)(東洋文庫)』(モース 昭和45年初版発行 昭和47年発行4刷参照)P.117-120 ●『好色五人女・西鶴置土産』(井原西鶴 吉行淳之介 学研 昭和55年発行)P.68-87 ●『忠臣蔵99の謎(PHP文庫)』(立石 優 平成10年発行)P.260-262 ●大円寺(東京都目黒区)の案内板「大円寺石仏群」「八百屋お七と吉三(西運)」 ●「柳橋物語。(1)」(落合道人→) ●「天和笑委集」(野田寿雄)※「世界大百科事典(第2版)」(平凡社)に収録(コトバンク→)
※当ページの最終修正年月日
2022.12.28
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