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「忠臣蔵」に異議あり?
     (明治31年2月5日、尾崎士郎、愛知県吉良で生まれる)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※「パブリックドメインの映画(根拠→)」のスチル写真を使用 出典:早稲田大学演劇博物館/イベント/無声期の映画館と音楽 ~日活関連楽譜資料「ヒラノ・コレクション」から考える~→ 原典:『(実録)忠臣蔵』(1926年公開の日活映画)※尾上松之助遺品保存会

尾崎士郎

明治31年2月5日(1898年。 尾﨑士郎が愛知県吉良きら 町(尾﨑が生まれた頃は横須賀村。現・西尾市 Map→)で生まれました。吉良は「 忠臣蔵ちゅうしんぐら」の“悪役” 吉良上野介きら・こうずけのすけ の所領だったところです。

「忠臣蔵」は、寛延元年(1748年)、大阪竹本座で初演された義太夫浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」を略したもの。題材になったのは、45年ほど前の「 赤穂あこう 事件」(1701-1703年)です。赤穂藩藩主・浅野 内匠頭 たくみのかみ が切腹させられ、その恨みを晴らすために、赤穂藩の筆頭家老だった大石 内蔵助くらのすけ 以下赤穂の47名の浪士(赤穂浅野家は改易(武士の身分を取り上げられること)となった) が、上野介の首を取ったというもの。内匠頭の無念を晴らしたとして内蔵助は「忠臣」とされて「忠臣蔵」(忠臣●●の内 助)と呼ばれ、「仮名手本」は47名の浪士を「仮名47文字」になぞらえてのこと。「仮名手本忠臣蔵」は「赤穂事件」を題材にした一つの作品ですが、大ヒットして広く名が知られたため、「赤穂事件」を題材にした以後の浄瑠璃・歌舞伎・講談・小説の総称となりました。

内匠頭が幕府から切腹を申し渡されたのは、江戸城の「松の廊下」で上野介に斬りつけたからです。幕府と朝廷は毎年年賀の挨拶の使者を交換しており、勅使を丁重に迎えるのは幕府の一大行事でした。その年(元禄14年・1701年)の勅使饗応役が内匠頭だったのです。赤穂藩は新田開拓、塩田事業、水道事業(世界で初めて上水道を設置)に成功しており経済的に余裕があると思われており、勅使饗応役にさせられます(接待費用は全て勅使饗応役の藩の負担)。かたや上野介は、 高家こうけ(幕府の儀式を司る役職)にあり、勅使饗応役を指導する立場にありました。 時代は「武(精神)」より「金」という傾向にありましたが、赤穂藩は上野介に礼は尽くしても金品(賄賂)を渡すことは極力控えていました。それが上野介の かん わり、内匠頭を人前でジクジクと虐めたとされています。

皇居(江戸城跡。東京都千代田区千代田1-1 Map→)の「松の廊下」跡。ここで、内匠頭の怒りが爆発、上野介を切りつけた。内匠頭には「痞(つかえ)」という持病があり、その抑鬱的症状の影響も指摘されている 内蔵助以下47名は上野介の首を 泉岳寺(せんがくじ) (東京都港区高輪二丁目11-16 Map→)の内匠頭の墓前に供えた。写真は泉岳寺の内蔵助像。流行の元禄羽織を身につけて世の目を欺きつつも、連判状をしかと手にしている
皇居(江戸城跡。東京都千代田区千代田1-1 Map→)の「松の廊下」跡。ここで、内匠頭の怒りが爆発、上野介を切りつけた。内匠頭には「 つかえ」という持病があり、その抑鬱的症状の影響も指摘されている 内蔵助以下47名は上野介の首を 泉岳寺せんがくじ (東京都港区高輪二丁目11-16 Map→)の内匠頭の墓前に供えた。写真は泉岳寺の内蔵助像。流行の元禄羽織を身につけて世の目を欺きつつも、連判状をしかと手にしている
泉岳寺にある堀部弥兵衛の墓。討ち入った浪士で最高齢だった。享年77歳(満76歳)。堀部安兵衛(47名の中で一番の剣客)の義父 47人のお墓にお参りしていたら、大轟音。仰ぎ見ると、内蔵助もビックリの低空飛行。元禄時代にも負けぬ「金」(経済)の世になったか・・・
泉岳寺にある堀部弥兵衛ほりべ・やへえ の墓。討ち入った浪士で最高齢だった。享年77歳(満76歳)。堀部安兵衛(47名の中で一番の剣客)の義父 47人のお墓にお参りしていたら、大轟音。仰ぎ見ると、内蔵助もビックリの低空飛行。元禄時代にも負けぬ「金」(経済)の世になったか・・・

吉良で生まれ育った尾﨑の話に戻すと、吉良の地では、上野介は慈悲深い名君だったのです。治水事業や新田開拓でも功績がありました。吉良の人々には、“よい殿様”をテロまがいで殺した「赤穂浪士」こそ“悪い奴”だったのです。

明治の終わりくらいから吉良町(横須賀村)で作られた玩具。吉良上野介を象ったもの。吉良邸跡(東京都墨田区両国三丁目13-9 map→)の屋外展示より 吉良上野介像。吉良邸跡(東京都墨田区両国三丁目13-9 map→)の屋外展示より
左は明治の終わりくらいから吉良町(横須賀村)で作られた玩具。吉良上野介を象ったもの。右は吉良像。ともに吉良邸跡(東京都墨田区両国三丁目13-9 map→の屋外展示より

尾﨑は、半自叙伝『人生劇場(青春篇)』Amazon→の冒頭で、そういった吉良の人々の意識に触れています。

・・・吉良上野こうづけ の所領であった横須賀村一円で「忠臣蔵」が長いあいだ禁制になっていたことは天下周知の事実である。これは一面、吉良上野が彼の所領においては仁徳の高い政治家であったということの反証にもなるが同時に他の一面から言えば一世をあげて嘲罵の的となった主君の不人気が彼の所領の人民を四面楚歌におとしいれたこともたしかであろう。
 まったく「あいつは『吉良』だ!」ということになると旅に出てさえ肩身の狭い思いをしなければならなかった時代があるのだ。しかし、そうなれば、こっちの方にも(忠臣蔵なんて高々芝居じゃねえか)、──という気持がわいてくる。(うそかほんとかわかるものか、あんなものを一々真にうけてさわいでいるろくでなしどもから難癖をつけられているうちのおとのさまの方がお気の毒だ)──
 三州横須賀は肩をそびやかしたのである。相手にしないならしなくてもいい。そのかわり日本中の芝居小屋で「忠臣蔵」がどんなに繁昌しようとも、この村だけへは一足だって踏み入れたら承知しねえぞ!・・・(尾﨑士郎『人生劇場(青春篇)』より)

吉良の人たちまで差別するとは愚かしい限りですが、今でもある国の為政者の“悪行あくぎょう ”を理由にその国の全ての民まで差別しけなす人がけっこういるようなので、日本って進歩していませんね?

そんな横須賀村(吉良)でも明治になって昔のことだからと「忠臣蔵」が演じられたところ、芝居の途中で内蔵助役が胃ケイレンで動けなくなったり、芝居小屋が火事になったりと災難が続きます。上野介の祟りに違いないと恐れ、慰霊祭が催され、芝居小屋の前にお堂がたち、そして、内匠頭を悪役にした舞台まで作られたとか(笑)。

「忠臣蔵=真実」でないのも確かでしょう。第一、今時、「忠」を声高に言う人の多くは「面倒見てやったのだから文句言うな」のやから でしょう。また、「上野介=よい殿様」もどうだか分かりません。「いい為政者」って、案外「地元(今では選挙地盤)やお金くれる人やお仲間や自分に都合のいい人」限定だったりしますもんね?

とはいえ、「上野介は悪者」といった“日本の常識”とは違った意識のある村に生まれ育ったことが、尾﨑の反骨精神に影響したのは確かでしょう。

山鹿素行
山鹿素行

ところで、赤穂浪士は、なぜにも、皆が志を貫いて目的を達し得たのでしょう?

江戸切っての学者・山鹿素行やまが・そこう (儒学、国学、兵学へいがく に通じていた。1622-1685)の影響が大きいようです。素行は、門人であった赤穂藩の初代藩主・浅野長直に仕え(1652年から1660までの8年間)、のちに、素行が、官学だった朱子学を批判したため赤穂藩に配流され(1666年から1675年までの9年間)、その計18年間に赤穂の藩士に絶大な影響を及ぼしました(内蔵助も8歳から16歳にその薫陶を受けたもよう)。吉良邸(上野介の家)に討ち入りの際、浪士たちが「山鹿流の陣太鼓」を打ち鳴らしたという話は、両者の関係の深さを物語っています(実際には打ち鳴らしていない)。

西山松之助『図説 忠臣蔵』(河出書房新社)。史実、浮世絵、歌舞伎など様々な角度から 真山青果 『元禄忠臣蔵〈上〉 (岩波文庫)』。昭和16-17年、溝口健二が映画化→
西山松之助『図説 忠臣蔵』(河出書房新社)。史実、浮世絵、歌舞伎など様々な角度から 真山青果 『元禄忠臣蔵〈上〉 (岩波文庫)』。昭和16-17年、溝口健二が映画化→
森村誠一『真説 忠臣蔵 (講談社文庫) 』。強硬派でのちに脱落して変節漢として伝わる高田郡兵衛を新解釈した『不義士の荊門』など5編 「忠臣蔵」。監督:渡辺邦男。出演:長谷川一夫、鶴田浩二、市川雷蔵、勝新太郎、京マチ子ほか。オールスター映画
森村誠一『真説 忠臣蔵 (講談社文庫) 』。強硬派でのちに脱落して変節漢として伝わる高田郡兵衛を新解釈した『不義士の荊門けいもん』など5編 「忠臣蔵」。監督:渡辺邦男。出演:長谷川一夫、鶴田浩二、市川雷蔵、勝新太郎、京マチ子ほか。オールスター映画

■ 馬込文学マラソン:
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→

■ 参考文献:
●『評伝 尾﨑士郎』(都築久義 ブラザー出版 昭和46年発行)P.25-30 ●『人生劇場 青春篇(上)(新潮文庫)』(尾﨑士郎 昭和22年初版発行 昭和49年42刷参照)P.7-10 ●『忠臣蔵99の謎(PHP文庫)』(立石 優 平成10年発行)P.20-42、P.81-87、P.100、P.257-260 ●「忠臣蔵 ゆかりの地 港区(「港区歴史フォーラム」の案内)」(山本博文、岩下尚史)※「東京新聞」に掲載(平成29年12月22日) ●「山鹿素行」(佐久間 正)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2023.2.5

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