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思いやる政治へ(正保2年10月14日(1645年)、林 鵞峰、江戸を出立)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

湯島聖堂(東京都文京区湯島一丁目4-25 Map→ Site→ ※入場無料)の中心的な建物「大成殿」。上野の忍岡にあった林 羅山の私塾内の「先聖殿」を、元禄3年(1690年)徳川綱吉(5代将軍)が当地に移した

林 鵞峰
林 鵞峰

正保しょうほ2年10月14日(1645年。 鵞峰がほう(27歳)が、江戸を立ちました。高野山内で対立(訴訟)があり、寺社奉行に随行して、高野山に行くことになったのです。

高野山には 学侶方がくりょかた (学問を専修する僧侶により構成)、 行人方ぎょうにんかた )(諸堂の管理や修行に関わる僧侶により構成) という組織があり、 学侶方は行人方を「下法師」として下に見ていました。ところが、行人方にも有力な僧侶が現れてきて、力が拮抗してきます。

寛永15年(1638年)、行人方がある儀式を受けることに学侶方が反対、両方は激しくぶつかり合います。行人方の僧2,500名は学侶方と絶交しました。争いは、元禄5年(1692年)、幕府の裁決によって学侶方が勝利するまで、50年以上続きました(「元禄高野山騒動」)。

幕府の裁決は、行人方の僧600名以上を流罪とし、関係寺院の1,000院以上を取り潰すといった厳しいものでした。鵞峰は、騒動の初期の段階で幕府の識者として事件に関わり、学侶方が有利になるような道筋をつけたのでしょう。

幕府は、慶長19年(1614年)に高山右近らキリシタン148名をマニラ・マカオに追放し、その1ヶ月後からの「大阪の陣(冬)」で豊臣家を追い詰め始めました。日蓮宗の不受不施派を罪に定めたのが寛永5年(1630年)で、「島原の乱」(寛永14-15年、1637-1638年)鎮圧後、日を開けずに高野山に検使を派遣。この時期幕府は、力ある勢力(特に幕府の抵抗勢力になりかねない勢力)を潰すことに傾注しています。

鵞峰など幕府の御用儒学者たちは、これらの幕府の行為に、(儒学的な?)お墨付きを与えました。

江戸時代の儒学(特にその中の朱子学)隆盛のきっかけを作ったのが藤原惺窩せいかです。惺窩は仏教(特に臨済宗禅)と一体化していた儒教を、儒教だけ取り出して詳しく学び、徳川家康はじめ諸大名に招かれて講じていました。惺窩の影響を受けて出てきたのが林 羅山です。羅山から幕府の御用儒学者の系譜が始まります。

林 羅山
林 羅山

羅山は、13歳で元服し、京都東山の建仁寺で学びますが(寺院は学問の場でもあった)、出家を拒んで家に戻り、17歳頃から儒学を本格的に学び始めました。基本テキストの六経りくけい(『易経えききょう』『書経しょきょう』『詩経』『春秋』『周礼しゅらい』)と、中国宋代の儒学者・朱子が重視した四書ししょ(『論語』『孟子もうし』『大学』『中庸』)、朱子が残した文章を修得し(朱子の儒学解釈に則ったのが朱子学)、20歳のとき京都で朱子の『論語集注』を講義して注目されます。当時、学問の世界では秘伝思想がまだ根強く、ある権威から“秘伝”として学識を授けられていない者が勝手に講義をすることは憚られました。しかし、羅山はやったのです。ある学者は羅山を告訴しましたが、家康は「何の不都合があろうか」と一笑に付し、羅山を幕府の御用学者として召し抱えました。家康自らが直接羅山に3つの質問を投げかけ、羅山はそれに即座に解答、採用となります。家康は薬について医者顔負けの知識がありましたが、儒学や儒学が生まれた国・中国の歴史についても相当な知識がありました。戦世を体験してきた家康は、武力で長期に統治することの難しさを痛感しており、「聖賢の道」(儒学に基づく徳治政治)を模索、江戸幕府を開く10年以上前から、識者からの侍講をたびたび受けていたのです。

羅山でそんな家康に「理想の統治者」の姿を見て、喜んで仕えました。「大阪の陣(冬・夏)」では、家康がかつて主君だった豊臣家を滅ぼす正当性を羅山は説き(問題になった方広寺の鐘に記された文には豊臣家の徳川家に対する呪いがこもっていると曲解。儒学者としてどうなのか)、外交文書を作成し、朝鮮通信使を応接し、法令の制定に携わり、公式文書を作成し、幕府御用達の書物の編纂にも携わりました。事あるごとに儒学的な見地から意見し、幕政に多大な影響を与えます。

羅山後、幕末まで、林家は幕府の教学を司ることとなります。

羅山は、「明暦の大火」(1657年1月19日)で神田の本邸の書庫を焼失、上野忍岡の別邸に避難しますが、ショックのあまりか寝込み、4日後に死去(1月23日)。冒頭で紹介した鵞峰が、林家をついで2代目となりました(鵞峰は羅山の三男だが長男と次男は早逝した)。

鵞峰は、父・羅山が築いた幕府の御用儒学者の地位を保ち、その地位が林家の後代にも継承されるよう心を砕いています。

ところで、儒学はどういった学問でしょう?

孔子
孔子

儒学は、中国の「春秋・戦国時代」(春秋時代。弥生時代)を生きた孔子の言行を起源とする思想で、中国では、漢の武帝(在位:紀元前141年〜(弥生時代))の時代に国教となり、清朝が滅亡(明治45年)するまで中国朝廷の支持を得て、中国社会と文化の基調となりました。

「春秋・戦国時代」(紀元前770年-221年。弥生時代)は、周の権威が凋落し、秦が中国を統一するまでの、550年にもおよぶ血で血を洗う戦乱の世で、孔子は、その戦乱状態を解消すべく、仁を理想とする、徳治政治を説きました。

「仁」という文字は、人(人べん)に横棒が2本(二)で、人から発せられるもの、または、人を支えているもののようにも見え、慈しみ、思いやり、憐れみを表します。キリスト教の愛や、仏教の慈悲に近い概念です。その仁を、親兄弟といった身近なところから及ぼしていき、仁が広く周囲に及べば「仁政」となると考え、「道徳原理」でもあり「政治原理」でもありました。

儒学は日本にも400年前後(古墳時代)に伝来し、古来の神道や、538年に正式に伝わった仏教などと混ざり合いながら、日本の為政者・学者・宗教家に限らず日本に住まう全ての人に影響を与えてきました。他の思想と混交していた儒学を、それだけ取り出して尊重したのが藤原惺窩であり林 羅山だったことは前述しました。幕府は、その政治原理を取り入れ、やや強引に(儒学を都合よく利用した面もある。「力の強いものが他を凌辱するのは当たり前」の野蛮な時代の名残りがあっただろうから止む終えないか)、戦国時代を終わらせることができました。

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『論語 (岩波文庫)』。訳注:金谷 治。孔子とその弟子たちの言行録 大場一央『武器としての「中国思想」』(東洋経済新報社)。中国思想を武器に今を生きる
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■ 馬込文学マラソン:
林 鵞峰の「桃雲寺再興記念碑」を読む→
井上 靖の『氷壁』を読む→

■ 参考文献:
●「湯島聖堂」※「日本歴史地名大系」(平凡社)に収録コトバンク→ ●『江戸幕府と儒学者 〜林 羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い〜(中公新書)』(揖斐 高 平成26年発行)P.3-38、P.53-54、P.97-100、P.248-250 ●「元禄高野騒動と『高野春秋編年輯録』 〜近世高野山組織の形成〜」(村上弘子)※「佛教経済研究(平成29年5月号)」(駒澤大学仏教経済研究所)に収録駒澤大学 学術機関リポジトリ(PDF)→※P.153-162を参照 ●『大田区史年表』 (監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.233、P.225-226、P.233、P.237 ●「儒教」(楠山春樹、石田一良)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→ ●『詳説 世界史研究』(編集:木下康彦、木村靖二、吉田 寅 山川出版社 平成20年初版発行 平成27年発行10刷)P.87、P.93 ●「孔子」(本田 濟)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2024.4.6

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