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寛永8年3月6日(1631年。
加賀藩の初代藩主・前田利家(死後32年)の側室・ 本門寺には寿福院の「
日樹は、天正2年(1574年)、岡山県黒崎で生まれました。本門寺などで学び、元和5年(1619年。45歳)、鎌倉の妙本寺と本門寺の 「不受不施」とは、他宗からの布施や供養を拒否し(不受)、他宗への布施や供養もしないこと(不施)。自らの教えを絶対視した日蓮の教え(不受不施義)に基づくものでした。 文禄4年(1595年)、豊臣秀吉が千僧供養で日蓮宗にも出仕を命じましたが、日奥がそれを拒否(秀吉は日蓮宗でなかったので)。「不受不施」派が政治権力に抵触するとして問題になり始めます。 日蓮宗の中では、政治権力と折り合いをつけようとする一派(「受不施」派)も生まれ、両派は数十年にわたり対立しました。 2代将軍秀忠の夫人・ 権力者(幕府)が間に入れば、「不受不施」派に分があるわけがありません。権力者であっても日蓮宗宗徒でなければそれを拒否するのが「不受不施」派ですから。「不受不施」派は、幕府から邪教の烙印を押され、以後は禁教になってしまいます。日樹は歴代貫首から除籍され、信州伊那に追放されました。寿福院は悲しみの中、1年後の寛永8年(1831年)に死去。日樹(57歳)も後を追うようにその2ヶ月後、追放先で落命します(墓所:長野県飯田市 幕府の宗教の統制・弾圧は徹底しており、寛文9年(1669年)には、「不受不施」派の寺請(てらうけ。檀家を作ること)も禁止します。明暦3年(1657年)の「明暦の大火」(江戸の大半を焼き、10万人もの死者を出した)は振袖火事といわれました。「不受不施」派が死んだ娘の振袖を供養しなかったために起きたからというもので、おそらくは「不受不施」を貶めるために権力サイドから流されたデマでしょう。 「不受不施」派は表舞台から姿を消しましたが、信者は形だけ「受不施」派の檀家となって「かくれ不受不施」となり、僧侶は地下に潜行、「かくし庵」を作るなどして教義を守り、密かに教化も行なっていました。「不受不施」派が認められるのは明治9年。日樹が貫首として復歴するのには昭和6年。現在、岡山県の妙覚寺(岡山市北区
当地(東京都大田区)には、「不受不施」派の気骨を伝える「日樹聖人供養塔」(長勝寺(東京都大田区中央六丁目6-5 Map→)にある。日樹の33回忌に建てられた Photo→)や、日樹の
日蓮宗は、権力(幕府)にもものをいい、権力者からの申し出も拒否する強さがありましたが、宗内から「不受不施」派を追い出したことによってそういった強さは失われました。 ものを「受」けることを、ラッキー!と喜んでばかりもいられません。「受」けることで思うように発言・行動できなくなる現象は、今も、そこら中に見られます。「受」たことで、魂を売ることになることもままあり、金で魂を売るといった恥ずかしい状態を否定するため、彼らの多くが、自ら進んで「施した側が望む人間」になろうとするかもしれません。 公務員(政治家を含む)は「全体の奉仕者」なので、賄賂を「受」け取れませんが(憲法第15条、国家公務員法第96条、地方公務員法第30条)、“賄賂性”の高い企業献金や政治資金パーティーが一向になくなりません。そういった「金権政治家」が、次の選挙でも「皆様のために〜」とかやるのでしょうか? 多くの人が投票せず、それを許してしまっています。恥ずかしいのは、「金権政治家」でしょうか、それとも、それでも投票しない人でしょうか? ともあれ、両者が、日本の民主主義を蝕んでいるのは確かでしょう。 「受」けさせて、相手の言動をコントロールする手法は、広告でも見られます。平成23年の「福一事故」(「東京電力福島第一原子力発電所事故」)以前、「チェルノブイリの原発事故」(昭和61年)で原発の危険性が明らかになったのに、多くの人が日本の「原発は安全」だと思い込んでいました。それは、政府や原子力ムラが原発礼賛の広告を出しまくり、メディアをコントロールしたからです。巨額な広告費はメディアへの“賄賂”となったのでしょう。広告費に依存するようになったメディアは、ギャラが出れば何でも言うロボット学者やロボット芸能人を使って、原発礼賛記事を掲載しまくり、放送しまくった。 人をコントロールしようとする人の口癖に「こんなに世話してやったのに」というのがあります。こんなに世話してやったのに「言うことをきかない」ことを怒っているのでしょう。人は日々成長し、考え方や行動も変容するもの。それが理解できない人とは距離をとった方がいいです、親だろうと何だろう。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |