元文2年1月22日(1737年。
江戸幕府8代目将軍・徳川吉宗(52歳)が当地(東京都品川区)で鷹狩りをし、当地(東京都大田区大森)の「
和中散
」という漢方薬を商う店にも立ち寄っています。
『徳川実紀』(江戸幕府の正史
(政権が編纂した歴史書))には、当地(東京都大田区)での吉宗の鷹狩りが12回記録されていますが、歳を重ねてからの(41歳から60歳までの)5回中4回(吉宗は66歳まで生きた)、「和中散」を商う店にも寄っています。
「和中散」は、「
千振
」の葉を乾かしたものと「橙皮
」(ミカン科の橙
の皮を乾かしたもの)を臼でひいて粉状にしたもので、1日に1〜3回、1回に1包みを湯と一緒に服用。暑気あたり、めまい、風邪に効能があり、東海道の大森
宿
付近に商う店が3軒あって繁盛していました。本家本元は
近江
ですが(
元和年間(1615-1624)に近江国
栗太郡六地蔵
村(「旧和中散本舗
大角家
住宅」(滋賀県
栗東
市六地蔵402 map→ site(PDF。※滋賀県総合教育センター)→))で最初に作られたようだ)、大森のも有名でした。
大森(大森宿)は東海道を江戸の新橋を起点にして、1日分ほど歩いたあたりにあり(13kmほど?。東海道五十三次で1番目の品川宿と2番目の川崎宿の中間。五十三次の中間の宿を「
間
の
宿
」といって「
立場
」の機能(旅人の休泊、馬をつなぐ、荷物の配送など)を持つ)、これからの長く厳しい旅程を思って「和中散」を求める人が多かったことでしょう。江戸城からもさほどの距離でないので、将軍も足を運びやすかったことでしょう。興味深いことに、本家六地蔵村の「和中散」を商う店も京都から2番目の宿(
草津宿
)と3番目の宿(
石部宿
)の石部宿寄りにあり、東海道の終点・京都に近いところで販売されていました(京都出発だと旅の第一歩)。
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大森の「和中散」を商う大店(全体図→)。薬研で薬を粉末状にしている。奥には煙管をくわえた主人(→)、試供の薬(お茶?)を振る舞う店員(→)、効能を説く店員(→)も ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「江戸名所図絵(第4巻)」(74コマ目)(NDL→) |
「(聖跡蒲田)梅屋敷公園」(東京都大田区蒲田三丁目25-6 map→ ※聖跡:天皇が行幸した地)にも、山本忠左衛門・久三郎父子が開いた「和中散」を商う店があった。店に併設した「梅屋敷」も人気があった。左の絵は山本の開いた店かもしれない。画面左上に梅を思わせる樹木(→)がある |
薬は、紀元前5千年頃(日本で言えば縄文時代(前1万年-前千年)の中程)にはあったようです。日本でも、法令(律令)の細目を記した「
延喜式
」に、
令制国
(律令制にもとづく行政区分。相模、武蔵、安房といったもので、明治初期まで使われた)から中央に薬(薬草)を
貢進
(
貢物
を差し出すこと)する規定があり、「延喜式」が編纂された905年から927年(平安中期)には、薬がかなり流布していたと言えます。日本最古の医学書「大同類聚方
」が平安初期に成立したとされ、薬の処方の仕方も記されているようです(写本のほとんどが偽書との見方も)。
飛鳥時代(592-710)、聖徳太子が仏教の慈悲の思想に基づいて「
施薬院
」
を設立したとされますが、どの程度の薬がどの程度庶民に行き渡ったでしょうか。
室町時代、田代三喜
(1465-1544)が12年間(18年間とも)中国(明)で学び、進んだ医学・薬学を日本にもたらしました。それを
曲直瀬道三
(1507-1594)が受け継いで「
後世
派」という江戸医学の一大潮流の礎を築きます。もとにしたのが「
李朱
医学」(中国の金〜元(モンゴル)時代の
李 東垣
(1180-1251)、
朱 丹渓
(1281-1358)が提唱したもの)で、「
温補養陰
」(内臓を温存しその機能を補う)を根本としました。
江戸幕府の初代将軍・徳川家康は、戦さや制度の制定、江戸の町や東海道などのインフラ作りに忙殺されたと思いきや、鷹狩りにも熱中したし、薬作りに対する情熱も尋常でありませんでした。家康は「
萬病圓
」という胃腸障害に効く薬を自分で作り愛用していたようです。その製法は曲直瀬とその養子の玄朔が寛永13年(1636年)に著した『衆方規矩
』にありますが、家康は元和2年(1616年)に亡くなったので、それで知ったのではありません。自ら医学の古典にあたったとも推測されています(山崎)。家康は中国の医学書『
和剤局方』『本草綱目
』(52巻36冊)にも目を通していました。家康は奥医師たちに頼らず自ら処方した薬を飲むことが多かったようです(毒殺を警戒したふしもある)。
庶民も昔から経験則や言い伝えをもとに身近な草木を薬として利用したことでしょう。薬を求める切実な思いは薬師如来の
三昧耶形
(仏の種類を表す持ち物)の
薬壺
にも表れています。当地の「古川薬師」(「安養寺」。東京都大田区西六郷二丁目33-10 map→)の薬師如来像(都内では国分寺とここにしかない古仏(藤原時代(894-1185)にできた藤原仏)。非公開)も左手に薬壷を持ち、薬師如来のもう一つの特徴の背後の「七仏薬師」(化身仏。身を増やして人を救う)もあります。
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「西教寺
」(滋賀県大津市坂本五丁目13-1 map→)の薬師如来像(国宝)の薬壺 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典『滋賀県写真帖』(NDL→) |
「和中散」もそうですが、街道の発達に伴って人の往来が増え、薬も普及したことでしょう。伊達騒動(1671年頃)を下敷きにした志賀直哉の『
赤西蠣太
』 (作品集『夜の光』に収録されている)の蠣太は、こつこつ働くだけが取り柄で、胃腸も弱く、彼の部屋にはいつも「
千振
」の匂いが立ち込めているのでした。「千振」は「
現の証拠
」「
毒矯み
」と並ぶ三大民間薬で、胃腸障害に効くようです(「和中散」にも使われている)。八百屋お七(没1683年)が出てくる井原西鶴の『好色五人女』にも「
海人草」「甘草」という薬草が出てきますし、赤穂浪士に切腹の沙汰があった1703年(元禄16年)ごろが舞台の山本周五郎の『柳橋物語』にも「
中風
によく利く薬」(中風は脳卒中の後遺症)が出てきます。
吉宗が将軍になって6年目の享保6年(1721年。吉宗36歳)、意見を広く募るための目安箱を設置したところ、同年、漢方の町医者・小川
笙船
が経済的に苦しい人たちのための無料医院の設立を提言、「小石川養生所」ができます。「和中散」を求めて当地にわざわざ来るくらいなので、吉宗は医療にも理解があったと思われます。
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山崎光夫『薬で読み解く江戸の事件史』(東洋経済新報社) |
寺澤捷年『和漢診療学 〜あたらしい漢方〜 (岩波新書)』 |
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池上文雄『健康寿命を延ばすための薬食術』(主婦の友社)。「薬」で直せない生活習慣病を「食」で治す |
「薬の神じゃない!」。監督:ウェン・ムーイエ。出演:シュー・ジェン、ワン・チュエンジュン他 ●予告編→ |
■ 馬込文学マラソン:
・ 志賀直哉の『暗夜行路』を読む→
■ 参考文献:
●「品川筋御鷹場」(根崎光男)、「街道と村の道」(櫻井邦夫) ※『大田区史(中巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.186-187、P.771-772、P.782-785 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.81-83 ●『薬で読み解く江戸の事件史』(山崎光夫 東洋経済新報社 平成27年発行)P.12、P.17-20、P.30 ●「漢方医学を築いた先人たち(2)」(女性とこどもの漢方学術院→) ●「藤原時代の古仏か、謎多き古川薬師の三尊仏像」(大田区の史跡と歴史・デジカメ散策→)
※当ページの最終修正年月日
2024.1.22
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