幕末(1865年)の東海道。写真はフェリーチェ・ベアト(1832-1909。1863年から21年間横浜で暮らした英国の写真家) ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『F.ベアト写真集(1) 〜幕末日本の風景と人びと〜』(明石書店)
慶長9年2月4日(1604年。
一里塚が設置され始めたようです。
天正18年7月(1590年)、豊臣秀吉(53歳)が小田原の北条氏を降伏させると(「小田原征伐」)、北条氏の領地だった関八州(武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総・下野の一部・常陸の一部)を徳川家康(46歳)が引き継ぎます。
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で勝利した家康(56歳)は、翌慶長6年(1601年。家康57歳)より街道整備に乗り出します。結果、社会の活性化に資する街道整備でしたが、家康が意図したのは、街道を掌握し自らの覇権を強固にすることだったでしょう。旧来の道を生かしつつ、道幅を広げ、砂利や砂を敷いて路面を固め、松並木などを植えて快適さを向上させるとともに街道の目印ともしました。一里(約4km)ごとに一里塚を設置し、利便性も高めました。
各宿
に朱印状を与え、36頭(後には100頭)の馬を置くことを義務付けて、代わりに地子(領主が賦課した地代)を一部免除(
伝馬
制)。さらには要所要所に関所を置いて通行人を取り締り、防衛上の要衝ともしました。家康は元和2年(1616年)に亡くなりますが、2代将軍・秀忠が事業を引き継ぎ、江戸日本橋を起点とする5つの基幹街道を「五街道」(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)と定めました。寛永9年(1632年)秀忠が没すると、後を継いだ3代将軍・家光が、これらの街道を利用して全国に250以上ある大名家に参勤交代を強制。大名は江戸で1年暮らしたら、次の1年は領地に引き上げ、また次の1年は江戸で過ごさなければならなくなります。大名が江戸を離れる場合も正室と世継ぎは江戸に留まらせ“人質”とされました。江戸城下に大名屋敷がぎっちり建てられた所以。大名の江戸と領地との行き来は大名行列をなし、その規模は大名家の石高や格などをかんがみ幕府が定めました。100万石以上の加賀藩などは4千名にも及ぶこともあり、その旅費や江戸での滞在費たるやいかほどだったでしょう。全て大名の負担だったので、大名たちの力を削がれました。ことに関ヶ原の戦いを境にいやいや徳川家に従った外様大名は虐められたことでしょう。その積もり積もる鬱憤が幕末になって倒幕運動の起爆剤になったのでしょう(薩長土肥はもちろん外様)。
この大名行列をきっかけに街道筋は繁盛し、3代将軍・家光が死去する慶安4年(1651年)ごろには街道の全国展開がほぼ完了。家光が亡くなったのを契機に、武断政治によって増えた浪人の救済を目的に、軍学者の由井正雪が幕府転覆を謀りますが、未然に発覚。正雪の片腕だった丸橋忠弥は、当地の鈴ヶ森の刑場(現・東京都品川区。「東海道」筋)で磔になりました。鈴ヶ森での処刑の第一号だそうです。江戸に入る手前の刑場は、人々を震え上がらせたことでしょう。
「東海道」は他の4つの街道同様江戸の「日本橋」(東京都中央区1 日本橋 Map→)を起点にし、京都の「三条大橋」(京都府東山区大橋町三条京阪前 Map→)までの487kmで、途中53の
宿場
が指定されました(「東海道五十三次」)。当地にあったのは1宿目として栄えた「品川
宿
」。現在の京浜急行「北品川駅」(東京都品川区北品川一丁目1 Map→)あたりから「青物横丁駅」(東京都品川区南品川 Map→)あたりまで広がっていたようです。「日本橋」から2宿目の「川崎宿」、3宿目の「神奈川宿」までは、「日本橋」を起点とする国道15線(日本橋〜新橋間は通称「中央通り」、新橋〜横浜間は通称「第一京浜」)にだいたい沿って南下しますが、途中ところどころに街道風情を残す箇所があります。「新八ツ山橋」〜「鈴ヶ森刑場跡」間の「旧東海道通り」、「大森海岸交番」〜「大森警察署」間の「美原通り」、「六郷神社」を過ぎたあたりから「六郷橋」手前までの「旧東海道通り」など。そして、六郷橋を渡って神奈川県に。東京都は「品川宿」のみですが、神奈川県には「川崎宿」から「箱根宿」まで9つの大きな宿場がありました。「お江戸日本橋」の歌では「七ツ」に出発するとあります。「明け六ツ」が日の出の30分ほど前なのでそのさらに2時間ほど前(真夜九ツより約2時間ごとに正午までカウントダウン)。日がある内をなるだけ利用しようと早立ちを心掛けたのでしょうね。
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立会川
にかかる
浜川橋
(なみだ橋)から「品川宿」方向の「旧東海道通り」を望む。幅員やうねり具合に東海道の面影が残る |
当地(東京都大田区)で、(旧)東海道の面影(道幅など)を残す「美原通り」。かつては「三原通り」(南原、中原、北原の3原)と呼ばれていた |
「品川宿」と「川崎宿」の間には、立場
(馬つなぎ場、水飲み場、茶屋があり旅人が休息できる場所)の機能をもつ「
間
の
宿
(村)」が4つ(観音前、浜川、大森、六郷川端)あり、大森の「間の宿」には漢方薬の「和中散」を商う店があって評判でした。
「東海道」における多摩川の通過は今は六郷橋がありますが、橋のかかっていない期間が長く大変でした。享保13年(1728年)ベトナムから長崎をへて江戸へ向かった象(「享保の象」)も、明治元年(1868年)京都から江戸に向かった明治天皇も、橋のない多摩川を渡っています。
「東海道」の487kmを踏破するには、宿
ごとに泊まったらそれこそ54日かかり、毎日フルマラソンの距離(42.195km)を歩いても11日以上かかります。元禄14年3月14日(1701年)、赤穂藩藩主・浅野
内匠頭
の江戸城松の廊下での刃傷
と即日の切腹があると、それを伝えるための使者が、赤穂城へとその日の午後5時ごろに出発。「東海道」を京都まで行って、さらに西国街道と山陽道をたどるので計620kmほどでした。赤穂着が19日午前6時ごろなので、1日に137km以上です。
宿
ごとの
早駕籠
を乗り継いだわけですが、駕籠だから楽ということはなく、駕籠から転げ落ちないよう命綱に終始しがみつくので眠ることもできず、揺られに揺られること4日半、赤穂に着くころは瀕死状態だったようです。赤穂に入った使者が気付けの水を飲んだという井戸が残っています(「息継ぎ井戸」(兵庫県赤穂市
加里屋
2210 Map→))。
吉良上野介
に過剰な金品を贈ることを良しとしなかった赤穂藩ですが、日頃から宿場の人たちには良くしていたので、駕籠かきたちは協力的だったようです。昭和33年公開の映画「忠臣蔵」(長谷川一夫が大石内蔵助)(Amazon→)は、使者が赤穂へ向かう場面から始まります。使者は
早水藤左衛門
と
萱野三平
ですが、早水は討ち入りに参加、萱野は討ち入り前に父への孝心と主君への忠心との板ばさみとなり自刃しています(『仮名手本忠臣蔵』の「お軽と勘平」の勘平のモデル)。
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「葵 〜徳川三代〜(NHK大河ドラマ) 」。脚本:ジェームス三木、出演:津川雅彦(家康)、秀忠(西田敏行)、家光(尾上辰之助(4代目・尾上松緑)) |
武部健一『道路の日本史 〜古代駅路から高速道路へ〜 (中公新書)』 |
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八木牧夫『ちゃんと歩ける東海道五十三次 〜江戸日本橋─見付宿 +姫街道(新版)』(山と渓谷社)。平成31年発行 |
十返舎一九『東海道中膝栗毛(岩波文庫)』。江戸神田で絵付けをしている弥次郎兵衛という「ただのおやじ」と、居候の喜多八。不運続きの2人は、厄落としにお伊勢参りの旅に出る |
■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行) P.218-220 ●「街道と村の道」(櫻井邦夫) ※『大田区史(中巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.764-765、P.772-773、P.793 ●『忠臣蔵99の謎(PHP文庫)』(立石 優 平成10年発行)P.92-95、P.216-219
※当ページの最終修正年月日
2024.2.4
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