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象、多摩川を渡る(享保13年(1728年)5月25日、象が多摩川を渡る)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「鳥獣鷹象写生図巻」(狩野 古信 ひさのぶ )(東京国立博物館/画像検索→


享保きょうほう14年5月25日(1729年。 象が多摩川を渡りました(5月24日とも)。

徳川吉宗(8代将軍。44歳)が望んで渡来した象(「享保の象」)で、 広南かんなん (現在のベトナム南部ホーチミンMap→あたり)を出て、南シナ海を中国大陸に沿って北上、 寧波ねいは (上海の少し南あたり。Map→)に寄港後、東シナ海を一気に横断して長崎に入港してきました。多摩川を渡るおよそ1年前の享保13年の6月13日です。オスとメスの2頭でした。当時はまだ 帆船はんせん で、東シナ海の横断は命がけだったようです。以前にも(足利義持の治世(1408年)から)5度は象が日本に来てますが、それらの詳細は分かっていないようです。

「享保の象」は、まずは近くの唐人屋敷で飼われますが、3ヶ月ほどしてメス象が舌に腫れ物ができて死んでしまいます。将軍ご所望のものを死なしてしまったことから、長崎奉行の渡辺出雲守は大きなショックを受けたようで、象が多摩川を渡る頃(享保14年5月。象が江戸に到着する前)に病に伏し62歳で死去。

オス象の方は越冬して、享保14年(1729年)3月13日に長崎を出発。象と一緒に日本に来た象使いの 潭数 たんすう (男性。45歳ほど)と 漂綿ひょうめん (女性。32歳ほど)ほか総勢14名が付き添いました。当時の旅は1日に10里ほど(1里を4kmとして約40km)歩いたそうですが、象を疲れさせないよう、1日5〜6里ほど(約20〜24km)に抑え、江戸到着まで2ヶ月ほどみます。

3月25日 石船 いしぶね (砕石を運ぶ船)で関門海峡をわたって本州入り、4月28日には京都御所で 中御門なかみかど天皇(114代。27歳)に謁見(謁見にあたり「広南 従四位 じゅしい 白象 はくぞう 」という階位・称号を与えられたw)。東海道を草津から中山道に入り、美濃路(木曽川は舟で渡る)から東海道に戻って、姫街道(浜名湖の北側を通る。かつては東海道の本道)を 辿たど って、浜松からは東海道をまっしぐら。

京都に到着した「享保の象」。言うことを聞かせるために 鳶口 ( とびぐち ) を頭や背に打ち込んだ。傷はすぐにふさがるとはいえ、かわいそう ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「享保十四年渡来象之図」(烏丸家所蔵)の写本(写: 河鰭実利 ( かわばた・さねとし ) )(NDL→) 伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」にも白象が描かれている。「享保の象」が京都を通過した時、若冲は13歳で京都在住。実際に見たのではないかと推測されている ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:静岡県立美術館/コレクション/若冲≪樹花鳥獣図屏風≫→
京都に到着した「享保の象」。言うことを聞かせるために 鳶口 とびぐち を頭や背に打ち込んだ。傷はすぐにふさがるとはいえ、かわいそう ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「享保十四年渡来象之図」(烏丸家所蔵)の写本(写: 河鰭実利 かわばた・さねとし )(NDL→ 伊藤若冲の「樹花鳥獣図屏風」にも白象が描かれている。「享保の象」が京都を通過した時、若冲は13歳で京都在住。実際に見たのではないかと推測されている ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:静岡県立美術館/コレクション/若冲≪樹花鳥獣図屏風≫→

東海道の難所・大井川(当時の川幅はおよそ1.4km。江戸防衛のため橋がなかった)では、両岸にそれぞれ350人ほどもいたという 川越人足かわごし・にんそくが総出で「人間のせき 」を作り流れをゆる めることで、無事渡渉できました。

ところが東海道中一番の難所、“天下の けん ”「箱根八里」の山越えでは、 流石さすが の象もへたり、歩かなくなり、やっと歩いても尻餅をつき、口から白い泡を吹いて、スタッフを慌てさせました(何かあったら切腹もの)。箱根宿に着くと同時に象は倒れ込んで次の日にも起き上がりません。宿場あげての介抱により4泊5日の止宿ししゅく の末、ようやく元気を取り戻して、めでたしめでたし。

そして、小田原、戸塚、川崎とへて、いよいよ、当地(東京都大田区)と神奈川県川崎の境を流れる六郷川(多摩川の下流部)の渡渉となります。かつては109間(1間を180cmとしておよそ196m。異説あり)の六郷大橋がかかっていましたが、たびたび流され、その頃は架橋を断念、渡船を使っていました。「享保の象」はこの200mほどもある川を渡らなくてはならず、江戸を目前にして最後の難関となります。

船30そう を横に並べて固定し板を並べて「船橋ふなばし 」を作って対処したようです(異説あり)。両岸の川崎領と六郷領から人足を出させ、7日間の工事で、六郷領だけでも805人が動員されています。「御用」とあれば、無償で労働力(または金品)を提要しなくてはならなかったようです。かくして、「享保の象」は最後の難場を切り抜けることができました。

江戸到着前に発行されたかわら版。江戸は大フィーバー! ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『象の旅』(新潮社) 原典:「象のかわら版」(発行:江戸三十間堀 象潟屋 ( きさかたや ) 清八) 悪悪戯盛りの8歳のオス象を74日間歩き通させた象使いの手腕は“天才的” ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『尾張名所図会(附録 巻1)』(昭和5年発行)(NDL→)
江戸到着前に発行されたかわら版。江戸は大フィーバー! ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『象の旅』(新潮社) 原典:「象のかわら版」(発行:江戸三十間堀 象潟屋 きさかたや 清八) 悪戯盛りの8歳のオス象を74日間歩き通させた象使いの手腕は“天才的” ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『尾張名所図会(附録 巻1)』(昭和5年発行)(NDL→

六郷川を渡った日(6月25日)には江戸入りして、「浜御殿」(現「浜離宮恩賜公園」(東京都中央区浜離宮庭園1-1 Map→ Site→))に到着(東海道の最後の宿・品川宿に泊まったとの説もある)、1日休んで江戸城で吉宗とご対面。

吉宗は、象が食べ物を器用に鼻に巻きつける仕草などには感心したものの、どの程度人の命令に従うか、どのくらいの速さで走れるかなどをテストした結果、さほど利用価値がないと見切ってしまったようです。吉宗は良くも悪くも実利第一だったのです。吉宗はその後も2度ほどは象に会ったようですがそれっきり、1年後の享保15年6月末にはもう、象を払い下げるとのお触れを出しています。1日に100kgほどもウンコをしたというので、その程度は食べたのでしょう。飼料だけでも1年に130両かかり、世話も大変でした。緊縮財政で紀州藩と幕府の財政を立て直してきた吉宗にとって、「金食い象」は苦々しい存在となったようなのです。はるばるベトナムから海と陸を超えてやって来たというのに・・・。

江戸の庶民が浮かれたのも最初のうち。一目見ようと詰め掛けもしましたが、冷めるのも早かったようです。商魂たくましい(?)武州中野村の百姓・源助は、象のウンコを売り出してボロ儲けしたと言いますが、果たして薬効はあったのでしょうか? 薬にうるさい吉宗がよく認めたものです(象は霊獣と讃えられたので、ありがたくいただいてプラシーボ効果はあったか?)。江戸に来て12年後の 寛保かんぽう 元年(1741年)象は源助に預けられますが(現在の「朝日が丘公園」(東京都中野区本町二丁目32 Map→ ※「象小屋の跡」の案内板がある)あたりに象小屋を建てた)、翌年(寛保2年。1742年)には、21歳で死んでしまいます。幕府から与えられた餌代130両が生かされず飢えさせてしまったようです。象の平均寿命は60歳ほどのようで、かなりの早死です。骨と牙は「宝仙寺」(東京都中野区中央二丁目33-3 Map→ Site→)が寺宝にしていましたが、空襲で焼け、現在は牙が一本残るのみとのこと(非公開)。

辻村もと子

その後も江戸時代に2度は象が日本に来ましたが、日本で象の本格的な飼育が始まるのは明治になってで、「上野動物園」(東京都台東区上野公園9-83 Map→ Site→)おいて。第二次世界大戦・太平洋戦争中は、動物が逃げたら危険という人間様のご都合で猛獣・大型動物が大量に殺処分され、敗戦時まで日本で生き延びた象はわずか2頭。現在は(平成30年10月現在)、日本に、アフリカ象が32頭、アジア象が78頭の計110頭いるそうです。

昭和14年シバタサーカスが当地(東京都大田区)にテントを張ったとき、火事になり、象が足に鎖をつけたまま逃げ出すという騒ぎがありました。

石坂昌三『象の旅 〜長崎から江戸へ〜』(新潮社) 薄井ゆうじ『享保のロンリー・エレファン』(岩波書店)
石坂昌三『象の旅 〜長崎から江戸へ〜』(新潮社) 薄井ゆうじ『享保のロンリー・エレファン』(岩波書店)
『若冲ワンダフルワールド 』(新潮社)。若冲って何者? なぜ、象の絵を描いた? なぜ、描けた? 14歳の若冲は、京都で「享保の象」を見たのか? 坂本小百合『ゾウが泣いた日』(祥伝社)。著者は「市原象の国」の運営者。●当園を舞台にした映画(柳楽優弥の主演2作目)→
『若冲ワンダフルワールド 』(新潮社)。若冲って何者? なぜ、象の絵を描いた? なぜ、描けた? 14歳の若冲は、京都で「享保の象」を見たのか? 坂本小百合『ゾウが泣いた日』(祥伝社)。著者は「市原象の国」の運営者。●当園を舞台にした映画(柳楽優弥の主演2作目)→

■ 参考文献:
●『象の旅 〜長崎から江戸へ〜』(石坂晶三 新潮社 平成4年発行)P.13-14、P.22-34、P.137-142、P.163-172、P.182-186、P.190-191、P.197-199、P.205-215、P.218、P.222-223、P.229-230、P.238-241 ●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行)P.288-289 ●「長崎から江戸まで歩き、 六郷の船橋を渡った象の物語」(Kazunori Higuchi)馬込と大田区の歴史を保存する会→ ●「象図」東京富士美術館→ ●「ゾウのシンポジウム@日本 開催報告」認定NPO法人ボルネオ保全トラスト・ジャパン→

※当ページの最終修正年月日
2023.5.25

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