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昭和14年3月18日(1939年。 当地(東京都大田区西蒲田)で興行していた「シバタ・サーカス」で火事があり、サーカス小屋などが全焼しました。
俳優で芸能研究家の小沢昭一は、当時、近くに住んでいて、この火事を目撃しています。9歳の時で、遊び盛りですね。後年、下のような文章を書いています。 ・・・大きなテントが建てられ、ライオンやトラや象などの動物も運び込まれて、私ども子供は興奮しました。 小沢は東京都杉並区
文中の「近くの神社」は「
この火事で小沢少年の心に残ったのは、動物のこと。火から逃れようとして象は、鎖がつながる柱を鼻で叩き割って、足に鎖をつけたまま通りを逃げたそうです。その後捕まって電信柱につながれた全身火傷の象の悲しい目。ライオンなどの猛獣は射殺されたようです。特に、燃えるテントから逃げ出たカンガルーが、火事を見に集まった人間の気配に怯えてか、また燃えるテントに戻っていった姿は、後々まで小沢の心に焼き付いて離れなかった。「 サーカス(芸能活動)の華やかさと悲哀」。それを目の当たりにしたことが、小沢の進路を決定したのではないでしょうか。
サーカスは古代エジプト時代からあったようですが、日本では、幕末(1864年。江戸城明け渡しの4年前)、横浜の外国人居留地で興行された「アメリカ・リズリー・サーカス」が最初のようです。興行主のリズリーは、「リズリー・アクト」(横たわって足で子どもをジャグリングする)の創始者。最初は人が集まったようですが、場所が場所だったので長続きはせず、リズリーはサーカスを解散、生計を立てるために牛乳や氷を販売したり(日本で最初に牛乳・氷を販売した人物とされる)、日本の芸人を集めて「帝国日本芸人一座」(Imperial Japanese Troupe)を作って米国公演したりと、ユニークなことをしています。 明治になって「開国」したと思っている人もいるかもしれませんが、国を開いたのは幕府です。幕末からユニークな外国人たちが日本で活躍しています。 日本人が作ったサーカスのはしりは、明治32年に山本 中原中也の詩で真っ先に「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(タイトルは「サーカス」)を思い浮かべる方も多いでしょう。「幾時代かが」あって、「茶色い戦争」もあって、冬には「疾風」も吹いて、外は「
今夜 ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん 中也が生前に出した唯一の詩集『 観客様はみな
昭和3年に公開された「サーカス」というチャップリン(38歳)の映画があります。大正14年の「黄金狂時代」(チャップリン36歳)と、昭和6年の「街の灯」(チャップリン41歳)の間に撮られた大作です。映画製作自体がサーカスの綱渡りのようで、デイヴィッド・ロビンソン(チャップリン研究の権威)はこの映画を「完成にこぎつけたこと自体が驚異」と表現しました。撮影直前に滅多にない嵐でサーカス・テントのセットが壊れ、また、クランクインから1ヶ月ほどして、ラボのミスでそれまでに撮影した全てのフィルム(多くのエキストラを使った大掛かりなカットを含む)に傷があることが判明して全て撮り直しとなり、クランクインから9ヶ月ほどもして、火災でセットの全てを失いました。さらには、妻リタ・グレイの親族が財産目当てに干渉し始め、撮影途中に離婚訴訟までありました。そんな中でもチャップリンは、スタントなしの“命がけの笑い”にチャレンジ、サーカスの綱を700回以上も渡り、調教が不十分なライオンの檻に200回ほども入って(映画の中の恐怖の表情は演技でなかったとか)、この映画を完成させています。「サーカス」の撮影中、蒲田の監督・
三島由紀夫が大蔵省に勤めていた頃(昭和23年。22歳)、『サーカス』(Amazon→)という原稿用紙50枚の作品を発表しています。綱渡りの綱から足を踏み外して落下する少女を、馬に乗った少年が抱きとめるはずでしたが・・・。毅然と生きる少年・少女と、それを密かに妬む大人たち。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |