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ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん(昭和14年3月18日、シバタ・サーカスが全焼)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和14年3月18日(1939年。 当地(東京都大田区西蒲田)で興行していた「シバタ・サーカス」で火事があり、サーカス小屋などが全焼しました。

小沢昭一
小沢昭一

俳優で芸能研究家の小沢昭一は、当時、近くに住んでいて、この火事を目撃しています。9歳の時で、遊び盛りですね。後年、下のような文章を書いています。

・・・大きなテントが建てられ、ライオンやトラや象などの動物も運び込まれて、私ども子供は興奮しました。
 親がそのうち観せてやると言ってくれたものの、早く中へ入って観たいのです。近くの神社の森でターザンごっこをしている時も気になって、木の上から町の屋根ごしにサーカスのテントを眺めていましたら、テントのてっぺんに飾られている万国旗の綱が切れて、パッと煙が上るのを私は目撃したのです。・・・(小沢昭一『あたく史 外伝』Amazon→より)

小沢は東京都杉並区 和泉いずみ Map→で生まれ、父親が写真館を始めた東京の日暮里をへて、昭和8年ごろ(4歳)、当地(東京都大田区蒲田)に移転。「小沢写真館」は、「写真を撮るなら写真館」の時代なので、元旦や七五三と時は大繁盛、会計係の母親の割烹着のポケットは「お札でギューギューにふくらんでいた」そうです。蒲田といえば、大正9年に「松竹蒲田撮影所」ができ、映画関係者が行き来するモダンな町で、小沢少年は当時からホットドック屋でホットドックを食べたりしています。

文中の「近くの神社」は「 女塚おなづか 神社」(東京都大田区西蒲田六丁目22-1 Map→)で、「小沢写真館」は神社に入る細い道の向かいあたりにありました。サーカスのテントは、現在、「日本工学院(専門学校)」(東京都大田区西蒲田五丁目23-22 Map→)が建っているあたりの原っぱに張られたようです。

この火事で小沢少年の心に残ったのは、動物のこと。火から逃れようとして象は、鎖がつながる柱を鼻で叩き割って、足に鎖をつけたまま通りを逃げたそうです。その後捕まって電信柱につながれた全身火傷の象の悲しい目。ライオンなどの猛獣は射殺されたようです。特に、燃えるテントから逃げ出たカンガルーが、火事を見に集まった人間の気配に怯えてか、また燃えるテントに戻っていった姿は、後々まで小沢の心に焼き付いて離れなかった。「 サーカス(芸能活動)の華やかさと悲哀」。それを目の当たりにしたことが、小沢の進路を決定したのではないでしょうか。

リズリー
リズリー

サーカスは古代エジプト時代からあったようですが、日本では、幕末(1864年。江戸城明け渡しの4年前)、横浜の外国人居留地で興行された「アメリカ・リズリー・サーカス」が最初のようです。興行主のリズリーは、「リズリー・アクト」(横たわって足で子どもをジャグリングする)の創始者。最初は人が集まったようですが、場所が場所だったので長続きはせず、リズリーはサーカスを解散、生計を立てるために牛乳や氷を販売したり(日本で最初に牛乳・氷を販売した人物とされる)、日本の芸人を集めて「帝国日本芸人一座」(Imperial Japanese Troupe)を作って米国公演したりと、ユニークなことをしています。

明治になって「開国」したと思っている人もいるかもしれませんが、国を開いたのは幕府です。幕末からユニークな外国人たちが日本で活躍しています。

日本人が作ったサーカスのはしりは、明治32年に山本政七まさしち らが作った「日本チャリネー一座」(来日して反響を呼んだイタリアの「チャリネ一座」からの命名)のようです。そして、大正末から昭和にかけ、「有田サーカス」「木下大サーカス」「シバタ・サーカス」などが作られました。ちなみに、当地にもテントが張られた「シバタ・サーカス」の“シバタ”は 新発田しばた で、新潟県の新発田市が発祥。戦後まであり日本一と称されることもあったようですが、現在はやっていないようです。

中原中也

中原中也の詩で真っ先に「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(タイトルは「サーカス」)を思い浮かべる方も多いでしょう。「幾時代かが」あって、「茶色い戦争」もあって、冬には「疾風」も吹いて、外は「 劫々こうこうけ」「真ッくら 、闇の闇」。そんな現実と、サーカス小屋のやけに明るい空間の「ノスタルヂア」。※全文は:Amazon→ 青空文庫→

今夜此処ここでの殷盛さか

ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん

中也が生前に出した唯一の詩集『山羊やぎ の歌』の3番目の詩で、初めて会う人にはだいたい読んで聞かせたという自信作。サーカスの不 十全 じゅうぜん な、少し安っぽく、嘘っぽく、怪しげだけど、なぜか心に染みてくる不思議な魅力をよく表わしています。「ノスタルヂア」(ノスタルジー)は望郷の念。見ている人間だって十全ではないのです。

観客様はみないわし
咽喉のどが鳴ります牡蠣殻かきがら

チャップリン
チャップリン

昭和3年に公開された「サーカス」というチャップリン(38歳)の映画があります。大正14年の「黄金狂時代」(チャップリン36歳)と、昭和6年の「街の灯」(チャップリン41歳)の間に撮られた大作です。映画製作自体がサーカスの綱渡りのようで、デイヴィッド・ロビンソン(チャップリン研究の権威)はこの映画を「完成にこぎつけたこと自体が驚異」と表現しました。撮影直前に滅多にない嵐でサーカス・テントのセットが壊れ、また、クランクインから1ヶ月ほどして、ラボのミスでそれまでに撮影した全てのフィルム(多くのエキストラを使った大掛かりなカットを含む)に傷があることが判明して全て撮り直しとなり、クランクインから9ヶ月ほどもして、火災でセットの全てを失いました。さらには、妻リタ・グレイの親族が財産目当てに干渉し始め、撮影途中に離婚訴訟までありました。そんな中でもチャップリンは、スタントなしの“命がけの笑い”にチャレンジ、サーカスの綱を700回以上も渡り、調教が不十分なライオンの檻に200回ほども入って(映画の中の恐怖の表情は演技でなかったとか)、この映画を完成させています。「サーカス」の撮影中、蒲田の監督・ 牛原虚彦 うしはら・きよひこ がチャップリンに弟子入りしました。牛原が撮影現場に赴くと、10mを越すロープ上で撮影中だったチャップリンが「登って来なさい」と声をかけたとか(牛原は必死に登ったようです)。

三島由紀夫が大蔵省に勤めていた頃(昭和23年。22歳)、『サーカス』Amazon→という原稿用紙50枚の作品を発表しています。綱渡りの綱から足を踏み外して落下する少女を、馬に乗った少年が抱きとめるはずでしたが・・・。毅然と生きる少年・少女と、それを密かに妬む大人たち。

『サーカスの時間』(河出書房新社)。5年にわたって撮られたサーカスに生きる人々。写真・エッセイ:本橋成一。小沢昭一とヘンリー・安松との対談も 亀井俊介『サーカスが来た! 〜アメリカ大衆文化覚書(平凡社ライブラリー)』。大衆文化とエリート文化との、相克と相互影響
『サーカスの時間』(河出書房新社)。5年にわたって撮られたサーカスに生きる人々。写真・エッセイ:本橋成一。小沢昭一とヘンリー・安松との対談も 亀井俊介『サーカスが来た! 〜アメリカ大衆文化覚書(平凡社ライブラリー)』。大衆文化とエリート文化との、相克と相互影響
ミヒャエル・エンデ『サーカス物語 』(岩波書店)。イラスト:司 修。翻訳:矢川澄子 「サーカス」。監督・出演:チャップリン ●The Lion Cage→ ●The Mirror Maze→
ミヒャエル・エンデ『サーカス物語 』(岩波書店)。イラスト:司 修。翻訳:矢川澄子 「サーカス」。監督・出演:チャップリン ●The Lion Cage→ ●The Mirror Maze→

■ 馬込文学マラソン:
中原中也の「お会式の夜」を読む→
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→

■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行) P.467 ●『あたく史 外伝(新潮文庫)』(小沢昭一 平成17年発行)P.55-59、P.70-74 ●「蒲田少年 小沢昭一とこころのふるさと」(大田観光協会展示資料 監修:シネパラ蒲田実行委員会 デザイン・レイアウト:村上多恵子) ●『チャップリン ~作品とその生涯~(中公文庫)』(大野裕之 平成29年発行)P.177-194 ●「シバタ大サーカス」(やぶからす)緑の谷・赤い谷→

※当ページの最終修正年月日
2024.3.18

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