貞享5年7月21日(1688年。
東海道が当地の六郷川(多摩川
の下流域)を渡る所に架かっていた「(第1)六郷橋」(「六郷大橋」とも)が、大洪水によって流失しました。
慶長5年(1600年)、徳川家康(57歳)が架け、全長は216m、「千住大橋」「両国橋」とともに江戸三橋の一つに数えられました。その30年前(永禄12年(1569年)の武田信玄(47歳)が碓氷峠から江戸に攻め入った際、当地を治めていた
行方弾正
が橋を焼き落として武田勢を食い止めたと伝わるので(『小田原記』)、家康以前からその原型はあったのかもしれません。
六郷川(多摩川)は、埼玉県と山梨県の境にある笠取山(Map→)あたりを源流とする138kmほどの河川で、利根川などと比べて川床の勾配が急で雨が降ると下流部で増水、毎年のように洪水があったようです。「(第1次)六郷橋」は5度破損し、5度架け直されましたが、この享保5年(1688年)の流失で以後の再建が断念され、このあたりは幕末まで渡船場(「六郷の渡し」)となります。享保14年(1729年)、ベトナムから象がやって来て六郷川を渡ったときも、明治元年(1868年)、明治天皇一行が江戸入りする際六郷川を渡ったときも、まだ、橋がなく、何十艘もの船を並べて一時的に「船橋」が作られたようです。
「六郷橋」が再び架かるのは、186年後の明治7年。地元の鈴木左内
らが自費で「(第2次)六郷橋」(「左内橋」とも)を架けました(「
橋銭
」(通行料)を取った)。ところが、これも、翌年(明治8年)より洪水で打撃を受け、修理に追われ「金喰い橋」といわれ、そして、橋ができてわずか4年後の明治11年の流失を機に再建が断念され、再び「渡船」となります。
5年後の明治16年に新たに「(第3次)六郷橋」ができますが、それも明治43年に流され、そして同年(明治43年)「(第4次)六郷橋」(仮の橋だった)ができますが、それも大正2年に流されます。六郷川(多摩川)に橋を架けるのはほんと大変なことだったのですね。
大正14年にようやく「(第5次)六郷橋」(初の鉄橋。446mあり、それまで最長だった家康の「(第1次)六郷橋」の約2倍)ができ、それが昭和59年に架け替えられ、ようやく「(第6次)六郷橋」(現在の「六郷橋」。平成9年に完成)となります。この架け替え作業中、撤去中の橋桁が落下して18名の死傷者が出る事故がありました。一般の人は「橋ができて便利だなぁー」ぐらいの感覚でしょうが、「現場」では、困難で、時には危険を伴う作業を日々こなしている人たちがいるんでしょうね。「同一労働」とは何でしょう?
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「(第2次)六郷橋」(明治7年建造。「左内橋」とも)。手前は筏
の溜まり場。洪水時、筏が暴れて橋を壊すことも ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大田区史(下)』 原典:「SIGHTS AND SCENES ON THE TOKAIDOO」 |
「六郷神社」(東京都大田区東六郷三丁目10-18 Map→)に、「(第4次)六郷橋」(明治43年建造。最後の木橋)の親柱が保存されている。「木造文化」がまだまだ主流だったのだろう |
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「宮本台緑地」(東京都大田区仲六郷四丁目30 map→)に保存されている「(第5次)六郷橋」(初の鉄橋。大正14年開通)の橋門。昭和59年の事故の追悼詩(作:森村 桂)のプレートがはまっている。亡くなった5名のうちの1人が森村の義兄だったとのこと |
「(第6次)六郷橋」(平成9年完成。現在の「六郷橋」。東京都大田区仲六郷四丁目32 Map→)。現在、六郷川(多摩川)の大田区域には、上流から、丸子橋、ガス橋、多摩川大橋、六郷橋、大師橋の5橋のほか、新幹線、東海道本線などの鉄道橋などが架かる |
橋は、土地と土地とを結ぶ場所であり、そこに人と人との交流が生まれる。橋は「結ばれること」「理解し合うこと」の象徴ともなります。
結ばれることを拒絶された地(人)には、“橋”がかかりません。住井すゑの7部からなる長編小説『橋のない川』には、その橋の象徴性が生かされています。差別の理不尽さ・陰湿さを描き、多くの人に人間の平等と尊厳を考えるきっかけを提供しました。
人と人とを結ぶ“橋”は、生活上重要なポイントで、橋の両端から道が伸びることが多いです。東京の外堀通りの交差点は、新橋、土橋、数寄屋橋、有楽橋、鍛冶橋、呉服橋、常盤橋、竜閑橋、鎌倉橋、昌平橋、水道橋、石川橋、飯田橋、と橋の名のところが多いですね。今はお堀でなく道路なので、気がつきませんでした。
当地(東京都大田区)のように道が錯綜しているとなかなか地理を理解できません。顕著な道には名が付いていますが、大方の生活道には名が見当たらず、理解が難しいです。そこで、川に架かる橋のある通りを「●●橋通り」と理解するようにしています。当地(東京都大田区)には、多摩川の他にも、呑川、旧呑川(主に埋め立てられ緑地になっている)、
海老取川
(シン・ゴジラが遡った川)、内川、各種運河(京浜運河、京浜南運河、平和島運河など)、掘や堀の跡(貴船堀、北前堀、南前堀)、六郷用水(ほとんど埋め立てられているが一部復元)などの流れがあり、それらにかかる橋があり、流れは失われても「●●橋」と地名が残っているところがあるかもしれませんし、それらが頭に入れば地理を理解する助けになることでしょう。
山本周五郎の『柳橋
物語』は、隅田川と神田川が出会うあたりの柳橋が舞台。苦労の絶えない、それでも健気に生きるおせんという少女が出てきます。「元禄の大火(水戸様火事)」の火が迫る場面が凄まじいです。
アカデミー賞映画「戦場にかける橋」の橋が、第二次世界大戦中、日本軍がタイとビルマ(現・ミャンマー)間に敷設した泰緬
鉄道の「クウェー川鉄橋」(Map→)であることを、日本人の何パーセントが知っているでしょう? 泰緬鉄道の工期は昭和17年11月から翌年にかけての1年弱。イギリス、オーストラリアなどの捕虜約6万5千人、アジア人労働者約20〜30万人が工事に携わり、そのうち、捕虜約1万2千人、アジア人労働者約4万2千〜7万4千人が命を落としています。BC級戦犯を考える上での基礎的事実の1つです。
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上田 篤『橋と日本人 (岩波新書)』 |
五十畑 弘『「橋」の科学と技術(図解入門 よくわかる最新) 』(秀和システム)令和元年発行 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 山本周五郎の『樅ノ木は残った』を読む→
・ 三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
■ 参考文献:
●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行) P.205、P.260、P.288、P.411-412 ●『大田区史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.99 ●「小田原北条氏の支配」(下山治久)※(『大田区史(上)』東京都大田区 昭和60年発行)P.815-816、P.819-824 ●「多摩川の水運と村々」(平野順治)※(『大田区史(中)』東京都大田区 平成4年発行)P.636-638 ●「交通機関の整備と発展/六郷橋のこと」(野村義治)※(『大田区史(下)』東京都大田区 平成8年発行)P.397-398 ●『「BC級裁判」を読む(日経ビジネス文庫)』(半藤一利、秦 郁彦、保阪正康、井上 亮 平成27年発行)P.87-92
※当ページの最終修正年月日
2024.7.21
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