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「羽田空港」の南西端を臨む。かつてこの辺りに3つの町があった。そこにあった「穴守稲荷神社」は地元有志らによって移転されたが(Map→)、「一の鳥居」のみ空港内に残す。平成10年、空港新B滑走路建設のため撤去することになったが、その時も地元住人らがカンパで2,000万円作り、800m移動、昔の町に残した。現在は「羽田の大鳥居」と呼ばれる(写真右の鳥居。かつての姿→)。手前の川はシン・ゴジラが遡った海老取川 敗戦から1ヶ月ほどした昭和20年9月21日(1945年。 GHQが、多摩川の支流・海老取川の東(鈴木新田。今は羽田空港の敷地)に住む住民に、48時間以内に退去せよとの命令を下しています。 最初12時間以内でしたが住民代表の決死の訴えで48時間になりました。でも、48時間(丸2日)です。 そこには「羽田江戸見町」「羽田
48時間以内とはあまりに過酷で、ある者は川の土手で、ある者は神社の縁の下で生活を始めます。身を寄せる親族や知人が近くにいる人ばかりではなかったのです。 「羽田江戸見町」にはすでに「羽田飛行場」(「東京(国際)飛行場」。昭和6年開港。初の国営飛行場)がありましたが、住民を追い出したGHQはその日から、この羽田の3町をブルドーザーで壊し、空港の拡張を始めました。そして翌年3月(昭和21年)には、元の3.5倍もの広さの「Haneda Army Airbase(ハネダ・アーミー・エアベース )」(「羽田米陸軍航空隊基地」)ができます。 作家の小関智弘さんがこの「羽田3町強制退去」について次のように書いています。 ・・・人びとが羽田空港あるいは東京国際空港と呼んでいる敷地の基礎は、この三つの町の住民の犠牲によって生まれた。 羽田の飛行場は、かつてそこに住んでいた人びとには怨念の的となった。 飛行場が日本のものでなくなったときから、ハネダの名が世界中に知られるようになったのは歴史の皮肉だろう。 しかもその羽田の悲運を、日本人のほとんどは知らない。 同じ大田区の羽田とは目と鼻の先に戦後ずっと住んでいるような人でさえ知らない。・・・(中略)・・・ハネダが日本に返還されたからといって、土地がかつての住民の手に戻ったわけではない。 かつての住人の多くはいまだに海老取川の西側の町に住んでいて、空港の変転を見つめている。 プロペラ機からジェット機への移行は、騒音と大気汚染の激増だけを、住民への贈り物にした。いまもなお、羽田地域は大田区でもっとも人口の密集した地帯であり、生活保護世帯の比率も最も高い。・・・(小関智弘『大森界隈職人往来』) 「羽田空港」の繁栄を語るときも、住民の多大な犠牲があったことを忘れてはなりません。大鳥居を守り抜いた元住人の心意気とともに語りついでいきたい。
その後、「Haneda Army Airbase」は、昭和27年の「対日講和条約」(「サンフランシスコ平和条約」)の発効により日本に返還され、「東京国際空港」(通称「羽田空港」)となります。 日本は昭和29年より高度経済成長期に入り、航空業界も活況を呈します。昭和35年にはジェット機を導入。しかし、周辺住人にとってはそれが「第二の苦難」(「第一の苦難」は強制退去)の始まりとなります。その爆音たるや計測器の限度の130ホンを超えることもありました。 また、昭和41年は「日本航空界最悪の年」となり、羽田空港がらみの事故だけでも、「全日空機羽田沖墜落事故」(133名死亡)、「カナダ機羽田着陸失敗事故」(64名死亡)、「羽田発英国機富士山麓墜落事故」(124名死亡)、「日航機羽田空港墜落事故」(5名死亡)と続きました。相次ぐ増便によって管制と飛行に困難さが増したことも事故の一因になったようです。周辺住人は飛行機そのものへの恐怖感を募らせます。 昭和50年、大田区議会は国に対し「現空港を撤去し沖合に移転すること」「新空港は面積拡大しないこと」「撤去後の跡地は森林公園などにして区民に開放すること」など8項目を要望します。町内会を中心とした住民の動きも活発になりました。昭和52年には国と東京都と地元(大田区・品川区)からなる三者協議会が持たれるようになり、昭和56年、羽田空港の沖合移転が基本合意され、昭和59年に着工。海底の地盤がゆるく、埋め立ては難航しますが、昭和63年、旧C滑走路の450m東側に現A滑走路が完成します。しかして、羽田3町だった所のかなりの部分(?)は、現在「羽田空港跡地」になっているようです。 「羽田空港跡地」は長らく放置されていたようですが、平成30年に入って急に(?)動きだし、大田区は区税165億円あまりを使って跡地の一部を国とURから買い取るようです。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |