当地の「照栄院
」(東京都大田区池上一丁目31-10 Map→)にある「シンガポール チャンギー 殉難者慰霊碑」
昭和21年7月30日(1946年。
シンガポールの「チャンギー刑務所」(Map→)に収容されていた7人(中山春美(37歳。海軍上等兵曹)、藤江竹夫(34歳。海軍上等兵曹)、久保木 登(40歳。海軍工員)、澤根初太郎(年齢不詳。海軍工員)、内村貞雄(年齢不詳。海軍工員)、高崎信治(年齢不詳。陸軍大尉)、黒澤貞男(28歳。陸軍伍長))が、処刑を前にして遺書を書いています。
海軍上等兵曹だった中山は次のように書いています。
父上、母上宛
長い間お世話になりました。何一つ親孝行らしいこともせず
参りますことをお詫び致します。此の度、唯御国の為になれかしと一生懸命に働いて居りましたのでしたが、敗戦といふ大変時に遭遇して処断されることになりましたので決して私事に関したことで家門を汚す様なことは絶対にして居りませんから其の点御安心下さい。仮令世間の人が一体どんな眼で見ても何時
かは判る時が必らず参りませう。私を信じて下さい。・・・
4人の子どもたちには、
・・・美律子さんは大きくなって居る事とて良く判って居るだろうが決してお前達が世間様に恥づる様なことで死んで行くのではない。今もお父さんは晴々とした気持で笑って居ます。・・・
「犯罪者」として死んでいくことで、家族が悲しみ、周りから冷たい視線を受けるだろうことを危惧し、思いやっています。
中山らはなぜ処刑されることになったのでしょう?
戦犯の中で、A級戦犯(侵略戦争を始めた「平和に対する罪」を犯した者)は、東條英機ら7名が処刑されたこともよく知られていますが、もう1つの戦犯、BC級戦犯(B級は国際法に書かれた「通例の戦争犯罪」、C級は戦争行為以外の大量殺戮や虐待などの「人道に対する罪」)は、学校やメディアでもあまり取り上げられず、あまり知られていないようです。その実態は、なんと25,000名以上が逮捕され、約5,700名が訴追され、2,244件の裁判があり、984名に死刑判決がおり、920名が実際に処刑されたのです。
「BC級裁判(BC級戦犯容疑者の裁判)」が日本で開かれたのは横浜軍事法廷(ドラマ・映画「私は貝になりたい」で取り上げられた)だけで、他の2,243の裁判は、戦場になったアジア・太平洋の49ヵ所で開かれました。裁いたのは、連合国側の軍事委員会で、判事も全て軍人、司法的な裁判ではありませんでした。判決結果の執行も軍の司令官の命令でなされました。裁判記録も裁いた側が自国に持ち帰り、日本に渡されていません。
「チャンギー刑務所」は英国が作ったものですが(シンガポールは英国の植民地だった)、昭和17年、日本がシンガポールを陥落、日本軍が捕虜収容所として使用してきました。日本が敗戦すると、今度は、タイ、ジャワ、ボルネオなどから2,000名を超える日本のBC級戦犯の容疑者が集められ収容されます。
彼らは、おもに捕虜を虐待したとして、国際法「俘虜の待遇に関する条約(「ジュネーブ条約」の1条。昭和4年に追加締結された)に違反したとして裁かれました。日本は同条約に署名していましたが、軍部や枢密院から反対があり批准しておらず、条約の内容が軍隊内で周知されておらず(中途半端な「準用」という形だった)、というより、当時日本が国際法を遵守する気があったかさえ疑われます(日露戦争の頃は軍に法学者が随行したが、日中戦争の頃から随行しなくなった。法務官は随行したが発言力が弱かった)。
タイの泰緬
鉄道敷設における捕虜虐待は、映画「戦場にかける橋」(Amazon→)でも有名です。映画の中では連合国側の捕虜が口笛を吹きながら行進する場面がありますが、実際には「枕木の数だけ死者が出た」と言われるほどの凄まじい捕虜虐待があったのです。英国・オーストラリアなどの捕虜が約6万5千人、アジア人労働者が約20万人動員され、工事期間中に、捕虜が約1万2千人、アジア人労働者が約7万4千人死亡しています(異説あり。アジア人労働者の死亡率が捕虜の死亡率より高い。連合国側の捕虜よりアジア人がこき使われたことが伺える)。死因の大半が栄養失調からの脚気や疫病(コレラなど)でした。
BC級戦犯に指定された人の逮捕や取り調べは杜撰なもので、一列に並ばせ「犯人は誰か」の問いに、虐待を受けたり見たりした人が指指すだけで罪に定められることもありました。
チャンギー刑務所だけで処刑者は129名にのぼり、昭和30年、厚生省の調査隊によって遺骨の一部が持ち帰られ遺族に渡されましたが、残りはチャンギーの墓地公園に合葬されています。地元民の感情に配慮して、目立たないよう、幅5センチほどの角柱で高さは膝の高さほどしかないようです。
チャンギー刑務所で教誨師(受刑者の精神的救済をする人)を勤めた川崎出身の僧侶・関口亮共
(昭和31年に明長寺(神奈川県川崎市川崎区大師本町10-22 Map→)の住職となる)と、その後任の僧侶・田中本隆(田中日淳)は、トイレットペーパーや本や地図の裏などに書かれた処刑予定者の遺書をこっそり持ち出し(遺書を書くことは認められていなかった)、筆写し、遺族に届けています。上で紹介した海軍上等兵曹・中山の遺書もその1つです。当地(東京都大田区)の照栄院の住職になった田中は、チャンギーでの受刑者の遺族や関係者との交流を深め、昭和58年、院内に、遺族によって「シンガポール チャンギー 殉難者慰霊碑」(上の写真)が建てられました。
BC級戦犯に指定された人には、徴用された朝鮮人148人、台湾人173名も含まれていました。彼らは捕虜の監視に当たることが多く、顔を覚えられることが多く、追訴されることが多かったようです。刑死した日本人には恩給が復活しましたが、外国籍であることを理由に日本政府は彼らを冷遇しました。これなども、“美しい国”の国柄なのでしょうか? 照栄院の「シンガポール チャンギー 殉難者慰霊碑」にも14名の朝鮮人の名前が刻まれています。照栄院の住職になった田中は、朝鮮人の救済に心を砕きました。
BC級裁判では、上官は「始末しろ」といっただけで「殺害しろ」とは言っていないなどと言い逃れして、殺害を遂行した兵士のみが刑死したケースも少なくないようです。令和になっても一向になくならないやはり“美しき国”の“美しき構図”。三島由紀夫の短編小説『復讐』は、「戦犯の罪をなすりつけ」て日本に戻ってきた上官の元に刑死した男の父親から復讐を誓う手紙が届くという怖いお話です。
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『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』(アスコム)。編著:田中日惇、聴き手:堀川惠子、監修:田原総一郎。田中へのインタビューと118人の遺書 |
『教誨師 関口亮共とBC級戦犯 〜シンガポール・チャンギー刑務所(一九四六 - 一九四七)〜』(日本評論社)。編著:布川玲子、伊藤京子 |
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『「BC級裁判」を読む (日経ビジネス人文庫)』。著者:半藤一利、秦 郁彦、保阪正康、井上 亮。説明と対談が交互にあって理解が深まる。捕虜や市民の虐待、裁かれた武士道・非人道的行為・無差別攻撃 |
「私は貝になりたい」(東宝)。ドラマ版のリメイク映画。監督:橋本 忍。出演:フランキー堺ほか。上官の命令でいやいや捕虜を刺殺した人のいい男が、C級戦犯として処刑されるまで |
■ 馬込文学マラソン:
・ 三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
■ 参考文献:
●『日本の戦争 BC級戦犯 60年目の遺書』(編著:田中日惇、聴き手:堀川惠子、監修:田原総一郎 アスコム 平成19年初版発行 同年発行2刷)P.1-50、P.76-80、P.93、P.150-156、P.314-319 ●『孤島の土となるとも 〜BC級戦犯裁判〜』(岩川 隆 講談社 平成7年発行)P.180-185、P.768、P.777-780 ●「現代の歪みの構図 〜BC級戦犯裁判を想起〜」(保阪正康)※「東京新聞(夕刊)」(平成30年7月13日号)に掲載 ●『「BC級裁判」を読む(日経ビジネス文庫)』(半藤一利、秦 郁彦、保阪正康、井上 亮 平成27年発行)P.16-18、P.26-28、P.44-51、P.60-66 ●「田中日淳上人」(照栄院→) ●「教誨師・関口さん 戦犯に送った言葉」(山本哲正)※「東京新聞(朝刊)」(平成29年7月5日号)掲載 ●「朝鮮ゆかりの歴史地図 〜東京界隈編〜」(高麗博物館 Site→)
※当ページの最終修正年月日
2023.7.30
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