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林鵞峰『桃雲寺再興記念碑』を読む(彼の名は書かれなかった)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


平成29年まで、当地の「薬師堂」と呼ばれる一角(東京都大田区山王三丁目29-8 map→)に、「桃雲寺とううんじ 再興記念碑」が建っていた。現在はマンションが建ち、「根岸地蔵」がある場所(東京都大田区山王三丁目26-8 map→)に移設されている。 寛文4年11月20日(1664年)、当地の5代目領主・木原義永(よしなが)が菩提寺の桃雲寺の再興を記念して建てたもので、江戸初期の記念碑は珍しいとのこと。

刻まれている文字はほぼ鮮明に保存されている。 19行で全586文字。 いったい何が書かれているのだろう? (全文はこちら。PDF→)漢文は高校の授業以来だが、「返り点」のことなどを思い出しながら、当てずっぽうで読んでみた。

木原氏の来歴や、当地の様子が書かれている。江戸の南3里(約12km)の場所にあって人や馬の行き来が多く賑やかで、遥かなる海と美しい 家並いえなみ、富士山、本門寺の堂塔が望める風光明媚ふうこうめいび の土地と書かれているようだ。たとえば、「田畝萌動秀実」とあるのは、「田畑の作物はよく育ち、豊かに実る」といった意味だろうか。理想的な土地であることを強調した文だ。お国自慢。領主が建てたものなので、自画自賛といっていいだろう。

「薬師堂」にあった頃の「桃雲寺再興記念碑」
「薬師堂」にあった頃の「桃雲寺再興記念碑」

気付いたことが、2つ。

1つは、これが建った寛文4年(1664年)には、「義民六人衆事件」の発端になった、寛文元年(1661年)の木原氏が行った年貢の増徴がすでになされていたこと。厳しい検地とそれに伴う年貢の増徴によって領民が追い込まれたとされる。「桃雲寺再興記念碑」で当地の豊かさをことさらに謳っているのは、年貢増徴を正当化する意図があったのかもしれない。実り豊かな土地なのだから年貢だって高くっても当然だろうと。この石碑を建てた5代目木原 義永よしながと、「義民六人衆事件」のときの領主・木原重弘しげひろ とは同一人物である。義永を重弘と改名したのは一種の 韜晦 とうかい (姿を隠すこと)ではなかったか。無邪気な“お国自慢”と笑っていられないかもしれない。

もう1つは、碑文に、ある一人の重要な人物の名がないのが気になる。このページの冒頭に拡大した写真を掲げたが、活字にすると以下のとおり。

桃雲寺再興記念碑

「東照大神」 と「大猶院」 のところが他の行より一文字上に出ている。前者 は初代将軍・徳川家康の神名(家康は死んで神になった!?)で、後者は3代将軍・徳川家光の諱(いみな。死後の名)だ。 こういった書法で敬意を表したようだ。

不思議なのは、2代将軍・秀忠の名がないこと。2代秀忠の在位期間(1606年~1623年)の17年間には、木原氏とて世話になったことの1つや2つはあっただろう。が、彼の名がない。「桃雲寺再興記念碑」が建つ56年前の慶長13年(1608年)、当地の名所・本門寺の五重塔が建った。これは、2代秀忠の疱瘡快癒の立願成就のお礼に秀忠の乳母・ 大姥局 おおうばのつぼね が寄進したもの。秀忠と当地とは浅からぬ縁もあるのだ。「桃雲寺再興記念碑」の碑文中の「池上之蘭若高聳」は、本門寺の五重塔を含む堂塔が高く聳えているという意味だろう。それなのに、秀忠の存在をほのめかす文字が碑文に見当たらない。なぜだろう?

「桃雲寺再興記念碑」は林 鵞峰がほう という儒学者(林 羅山の三男で林家をついで幕政に参加。当時46歳)が作文している。身分制度にもとづく秩序を重んじた儒学者が2代目将軍のことが念頭になかったはずはなく、それでも彼の名を書かなかったのは、「書いてはならなかった」からなのだろう。「桃雲寺再興記念碑」が建った時の将軍・4代目・家綱の意中を忖度したとも言えそうだ(3代目・家光は1651年に死去)。

徳川家康からの最後の将軍、15代目・慶喜までで、「家」の文字を継いでいないのは4名のみ。さらには、2代目・秀忠には、「秀」が入っている。天正18年(1590年)、秀吉から一字もらったもので、秀忠と書けば「秀吉に忠誠」とも読める。10年後の関ヶ原の戦いでは、徳川家康を総大将とする東軍も、「豊臣家に仇為す者を成敗する」という大義名分で戦ったが、15年後の慶長20年(1615年)、家康は「大坂夏の陣」で大坂城を攻め落とし、豊臣秀吉の跡取りの秀頼とその母の淀君を自殺に追い込んだのだ。家康の「秀吉への忠誠」は権力を奪取するための方便だったのだろうか。さらにいえば、秀頼の妻は秀忠の娘(千姫)であり、秀頼の母(淀君)は秀忠の妻・ ごう の姉である。秀忠を見るたびに、さすがの家康も己の残酷さに胸が痛んだかもしれない。秀吉を想起させる秀忠の名は、できれば徳川家の歴史から消したいと思ったかもしれない。

林 鵞峰は、家康(徳川家)のそんな思いを忖度して、「桃雲寺再興記念碑」にも秀忠の存在をにおわせなかったのではないだろうか。

絶対権力者が存在した時代に存続しえた石碑は、その権力者のお目にかなうようなものだけだっただろう。石碑からその時代の“真実”を探るには、そこに「書かれていること」だけでなく、「書かれていないこと」にも注意する必要があるだろう。

テーマ別馬込文学圏地図「桃雲寺再興記念碑」→

吉屋信子 『徳川秀忠の妻 (河出文庫) 』 「葵 ~徳川三代~(NHK大河ドラマ ) 完全版 第1集(第1~27回)DVD」。2代目・徳川秀忠を西田敏行さんが好演
吉屋信子『徳川秀忠の妻 (河出文庫) 』 「葵 ~徳川三代~(NHK大河ドラマ ) 完全版 第1集(第1~27回)DVD」。2代目・徳川秀忠を西田敏行さんが好演

林 鵞峰について

はやし・がほう。元和4年5月29日(1618年)、林 羅山の三男として京都で生まれた。 春斎、道春などの名も持つ。 父羅山同様江戸に出て江戸幕府に仕える。羅山死後は林家を継ぎ、 朱子学の理論を継承、幕政に参加した。編纂事業を主導した。昌平坂学問所の基礎を作ったとされる。 江戸幕府の正当性を追及。 延宝8年(1680年)5月5日、61歳で死去( )。日本三景の元になる文章を残したことから、鵞峰の誕生日の7月21日(新暦)は「日本三景の日」に制定されているとか

揖斐 高 『江戸幕府と儒学者  ~林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い (中公新書)』 小島 毅『朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)』。日本にも大きな影響を与えた儒学の2大学派、朱子学と陽明学は、どんな考え方か
揖斐 高 『江戸幕府と儒学者 ~林 羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い (中公新書)』 小島 毅『朱子学と陽明学 (ちくま学芸文庫)』。日本にも大きな影響を与えた儒学の2大学派、朱子学と陽明学は、どんな考え方か

林 鵞峰と馬込文学圏

鵞峰が「桃雲寺再興記念碑」の作文を引き受けたのは、5代目木原氏・義永(重弘)も朱子学を学び、鵞峰と親交があったため。鵞峰が1643年京都からの帰途、当地の六郷大橋(現・六郷橋。東京都大田区東六郷三丁目 map→)を過ぎようというときの詩もある(この頃はまだ六郷大橋がかかっていた)。


参考文献

●『大田区史年表』(監修:新倉善之 東京都大田区 昭和54年発行) P.239、P.250 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.16-18 ●『大田区の文化財(第二集)』(東京都大田区教育委員会 昭和40年発行)P.34-35 ●『大田区の文化財(第十一集)』(東京都大田区教育委員会 昭和50年発行)P.95-96 ●「桃雲寺再興記念碑」現地の案内板(平成24年12月7日参照) ●『大田区ウォーキングガイド 2』(西村敏康 ハーツ&マインズ 平成23年発行) P.122

参考サイト

●ウィキペディア/・林 鵞峰(平成24年9月5日更新版)→ ・寛文(平成24年12月9日更新版)→ ・徳川将軍一覧(平成24年10月25日更新版)→ ・徳川秀忠(平成29年11月12日更新版)→ ●松岡正剛の千夜千冊『徳川イデオロギー』 ヘルマン・オームス→ ●あの戦国の現場に行こう!/実は大事な働きをしていた天野康景の城(坂崎城)→ ●日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記/許禰神社と木原畷古戦場(静岡県袋井市 古戦場 観光名所)→ ●旅行記 ~日本には美しい風景がたくさんある!!~/浜松城 浜松城公園 桜祭り→

※当ページの最終修正年月日
2020.2.6

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