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歴史的事実と伝承(延宝5年1月11日、「義民六人衆」、斬首される)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善慶寺(東京都大田区山王三丁目22-16 map→)の義民六人衆の墓にて


延宝5年1月11日(1677年。 江戸麹町一番丁(現・東京都千代田区一番町 map→)の当地( 新井宿村 あらいじゅくむら )の領主・木原氏の本邸で、新井宿村のリーダー6名が斬首されたとされています。

6名は村の窮状を4代将軍・徳川家綱に直訴するために、14日前の延宝4年12月28日、熊野神社(東京都大田区山王三丁目43-11 map→)で誓いの杯を交わしたあと、出立。正月に家綱が上野東照宮(東京都台東区上野公園9-88 map→)に参拝に現れるまで浅草 馬喰ばくろ町(日本橋馬喰町ばくろちょう map→)の百姓宿「武蔵屋」に潜伏したとのこと。登城する老中、または勘定奉行あたりに訴えようとしたとする説もあります。将軍への直訴は、警護が厚いので難しいでしょうし、上野の東照宮と馬喰町は距離があります。後者の可能性の方が高いかもしれません。

ところが、村人から木原氏へ密告があって(異説あり)、延宝5年1月2日(1677年)、木原氏の手によって6人は捕らえられ、殺されたといいます。 越訴えっそ (階層を飛ばして上の位の人に訴えること)は領主の落ち度とされ取り潰しや減封の理由になったので、木原氏は幕府に知られないよう彼らをなきものにしたのでしょうか。

「天保改正御江戸大絵図」の半蔵門近くに「木ハラ(木原)」の文字が見える。番町中央通りと半蔵門駅通りが交差するあたりにある鳥料理店「炭や」(東京都千代田区一番町4-3 map→)あたりか 「天保改正御江戸大絵図」の半蔵門近くに「木ハラ(木原)」の文字が見える。番町中央通りと半蔵門駅通りが交差するあたりにある鳥料理店「炭や」(東京都千代田区一番町4-3 map→)あたりか

事件の発端は、16年前の寛文元年(1661年)、木原氏が行った年貢の増徴にあると言われます。突然夜中に検地したそうなのです。あぜ道や入会地まで課税対象になり、前年より米百俵、金8両の増徴となったようです。『武蔵田園簿』という文書には新井宿村の村高は480石ほどと記載されていますが、延宝4年(1676年)の検地では930石ほどと算出されます。

延宝元年(1673年)には干ばつもあり、翌延宝2年(1674年)には多摩川(六郷川)が氾濫、村民はいよいよ困り果て、持ち馬を売ったり、兄弟や子どもを奉公にだしたり、高利の借金をしたりしたようです。同年9月、村のリーダーが木原氏に「十九ヶ条の訴状」を差し出して年貢減免を願い出ますが、黙殺。 翌延宝3年(1675年)にも訴えましたが、やはりダメでした。

そして、とうとう、村のリーダーたちは、将軍への越訴という非常手段を取るに至ったとされます。

村のリーダー6人は以下の通り。()内は法号です。
●名主の酒井権左衛門(宗圓)38歳
●年寄の平林十郎左衛門(椿葱)55歳
●年寄の鈴木大炊之助おおいのすけ (嘯慶)47歳
●年寄の間宮太郎兵衛(道春)39歳
●年寄の酒井善四郎(是信)53歳
●百姓代の間宮新五郎(賢榮)47歳
名主・年寄・百姓代といえば村方三役と呼ばれ村政を担う存在です。名主の酒井の邸宅は約10万㎡(正方形で1辺310mほど)あり、現在の日枝神社(東京都大田区山王一丁目6-2 map→)は酒井の庭内社だったといいます。「義民六人衆大祭」のパレードの出発点が日枝神社なのはそのためのようです。こういった村の有力者が、苦しむ百姓のために危険を犯したというのです。

そして、上述のとおり、6名は木原氏につかまって斬首され、彼らの家族も、ある者は殺され、ある者は自害し、ある者は逃亡したというのが 「義民六人衆」伝承の大筋です。

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しかし、この事件は、 「十九ヶ条の訴状」が存在し(明治34年、当地在住の間宮新太郎の家の戸袋から見つかった。善慶寺(東京都大田区山王三丁目22-16 map→ site→)が所蔵。 都の文化財)、また、6人の遺骨を入れたとも考えられる かめ が発見されたことなどから、そのような事件があったと推測されるものの、越訴未遂から6人の処刑にいたる経緯を伝える確実な史料は存在せず、伝承の域を出ないようです。越訴したとされる6人が村方三役だった可能性は学問的にはほぼ否定されており(百姓代という役職は江戸中期以降に一般化したとされ、延宝年間にはなかったとも)、また、木原氏という旗本レベルでの処刑執行が可能であったかも疑問視されています。村方三役と越訴した人は別の人たちで、むしろ両者は対立していたという興味深い説もあります。

当地の「根岸地蔵」が建つ場所(東京都大田区山王三丁目26-8 map→)に、「 桃雲寺 とううんじ 再興記念碑」が建っています(平成29年まで「薬師堂」(東京都大田区山王三丁目29-8 map→ 現・マンション「ザ・グローベル 大森山王」)にあった)。これは、寛文4年11月20日(1664年)当地の5代目領主・木原義永(よしなが)が菩提寺の桃雲寺の再興記念に建てたものですが、そこには、木原氏の来歴のほか、当地の様子も刻まれています。江戸の南3里(約12km)の場所にあって人馬の行き来が多く賑やかで、遥かなる海と美しい家並、富士山、本門寺の堂塔が望める風光明媚の土地と書かれています。「田畝萌動秀実」とは、「田畑の作物はよく育ち、豊かに実る」といった意味でしょう。当地が理想的な農地であることが強調されています。上に書いたように、義民六人衆事件の発端は、寛文元年(1661年)、木原氏が行った年貢の増徴にあると言われます。「桃雲寺再興記念碑」 が建った時には既に事件の伏線となる農村の困窮が始まっていたことになります。「桃雲寺再興記念碑」で豊かな農地であることを強調し、増徴を正当化したのでしょうか?

こんな感じで、「義民六人衆」の実像は、まだまだはっきりしません。でも、村を救うための勇敢な行為を伝えるものなので、伝承として大切に伝えていきたいですね。

善慶寺の「義民六人衆」の墓。彼らが処刑されたとされる年の2年後(延宝7年。1677年)、間宮藤八郎なる人物が父母の墓を建て、そこに六人の法号も刻んだ。現在は六人の法号の面が正面を向いている 善慶寺の「義民六人衆」の墓。彼らが処刑されたとされる年の2年後(延宝7年。1677年)、間宮藤八郎なる人物が父母の墓を建て、そこに六人の法号も刻んだ。現在は六人の法号の面が正面を向いている

「義民六人衆」は文学作品にも描かれています。

捕物帖作家の三好一晃(三好一光か? 南馬込一丁目に住んでいた)が、新井宿の商店街からの依頼で、「義民六人衆」を題材にした戯曲を書き、 彼らの270回忌(昭和21年)に上演される予定でしたが、何らかの理由で中止になったといいます。 戯曲は残っているのでしょうか?

出来立てホヤホヤの「わがまち新井宿の歌」にも「義民六人衆」が登場! 歌うは山王書房店主・関口良雄のご子息の関口直人さん。場所は山王書房跡で直人さんらが営業する「カフェ昔日の客」(東京都大田区中央一丁目16-11 map→ Twitter→)。

小関智弘さんの小説『まつる町』(『羽田浦地図』(文藝春秋)東京都大田区立図書館→に収録)にも「義民六人衆」が出てきます。

江角英明、えすみ友子『地場演劇ことはじめ 〜記録・区民とつくる地場演劇の会〜』(オフィス未来)。「義民六人衆」をモチーフにした 「六花ふるふる 〜新井宿義民伝異聞〜」も収録 水本邦彦『村 ~百姓たちの近世~ (岩波新書)』。日本人の大半が農民だった。彼らは、世人の生活を支え、田畑を切り開き、掟を定め、時には国家権力にも物申した
江角英明、えすみ友子『地場演劇ことはじめ 〜記録・区民とつくる地場演劇の会〜』(オフィス未来)。「義民六人衆」をモチーフにした 「六花ふるふる 〜新井宿義民伝異聞〜」も収録 水本邦彦『村 ~百姓たちの近世~ (岩波新書)』。日本人の大半が農民だった。彼らは、世人の生活を支え、田畑を切り開き、掟を定め、時には国家権力にも物申した
保坂 智 『百姓一揆と義民の研究』(吉川弘文館) 横山十四男 『義民 (三省堂選書) 』
保坂 智 『百姓一揆と義民の研究』(吉川弘文館) 横山十四男 『義民 (三省堂選書) 』

■ 馬込文学マラソン:
林 鵞峰の『桃雲寺再興記念碑』を読む→
関口良雄の『昔日の客』を読む→
小関智弘の『大森界隈職人往来』を読む→

■ 参考文献:
●「代表越訴」(北原 進)※『大田区史(中巻)』(東京都大田区 平成4年発行)P.154-184 ※「義民六人衆」についての学術的論考 ●『大田区の史跡散歩(東京史跡ガイド11)』(新倉善之 学生社 昭和53年発行)P.13、P.17-20 ●『大田区史年表』(東京都大田区 監修:新倉善之 昭和54年発行)P.246、P.250、P.254-255 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.100 ●『大田区ウォーキングガイド 2』(西村敏康 ハーツ&マインズ 平成23年発行)P.119-137 ●『地場演劇ことはじめ』(江角英明・えすみ友子 オフィス社 平成15年発行)P.160-161、P.180-182、P.188-189、P.199-201 ●「新井宿義民六人衆について」(善慶寺の案内板) ●「天保改正御江戸大絵図」(出雲寺万次郎 、尚古堂岡田屋嘉七 弘化3年(1846年)発行)NDL→ ●「新井宿 義民六人衆」善慶寺→ ●『義民六人衆事蹟』(義民六人衆顕彰会)PDF→ ●「善慶寺(大田区山王にある日蓮宗の寺院、新井宿義民六人衆墓)」猫のあしあと→ ●「山王日枝神社」猫のあしあと→ ●「池上道を歩く/新井宿村・ 不入斗いりやまず村全図(明治9年)」(馬込と大田区の歴史を保存する会)大田区史跡と歴史 デジカメ散策→ ●「区民とつくる地場演劇の会」Site→

※当ページの最終修正年月日
2023.1.10

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