「布晒舞図(ぬのさらしまいず)」。英 一蝶が流刑先の三宅島(Map→)で、遊興三昧の日々に思いを馳せ描いもの(全体図→) ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『英 一蝶(日本の美術 1 No.260)』 原典:「遠山美術館」(Site→)所蔵作品 ※原画を素材にして構成した
宝永6年8月21日(1709年。
英 一蝶
(57歳)に赦免の報せが届いたそうです。元禄11年(1698年。46歳)に幕府から厳罰が下り、
三宅島
(東京都三宅島 Map→)に流されていました。三宅島に来てから11年ほどの歳月が流れていました。
庭に目をやると蝶が一匹庭先の草花で戯れており、その時、赦免の報せが届いたのが不思議で、画名「一蝶」という名を思いついたと伝わっています。この赦免を機に、これまで使っていた画名「
多賀朝湖
」を「一蝶」に改めました。『荘子』(Amazon→)に「
胡蝶
の夢」という話があって、蝶になった夢を見た荘子は、夢の中で自分が蝶になったのではなく、ひょっとしたら今の自分は蝶が夢見ていることなのではないかと疑ったそうです。もう一生江戸に戻れないと思っていた一蝶は、突然の赦免を、庭先の蝶が見ている夢の中の出来事なのではないかと疑うほど「夢のような出来事」だったのでしょう。
一蝶が、なぜ、島流しされたのでしょう?
一蝶は、太鼓持ち(宴席で座を盛り上げる職業)としても有名で、遊び仲間の仏師民部
や村田半兵衛と、大名や旗本の元に出入りしていました。当主を吉原に誘うこともあり、不逞の輩として幕府から睨まれていたのです。延宝8年(1680年)からは6代将軍・徳川綱吉の治世であり、その潔癖に過ぎる施策(「生類憐み令」「
服忌令
」「勘定吟味役の創設」など)により、多くの失脚者が生まれます。一蝶もその類でしょう(表向きの罪状は「馬が物言う」(綱吉は館林藩主時代「館林右馬頭
」と名乗った)という流説に関与したことからの「生類憐み令」違反?)。
宝永6年1月(1709年)、綱吉が天然痘で死去するや、6代将軍・徳川家宣
は、まずは「生類憐み令」を廃止したので、一蝶は真っ先にその恩赦に浴することができました(「生類憐み令」の廃止に伴う恩赦は9千名近くに及んだ)。
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「吉原風俗図巻」(部分)。三宅島に流されて5年して描いたもの。半玉が客に呼びかけ、話がついて相手をする女性を呼んだところか? ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:『英 一蝶(日本の美術1)』(至文堂) |
一蝶が生まれたのは、
承応
元年(1652年)。京都の産です。父親の白庵(伯庵とも)は伊勢亀山藩主・石川憲之の侍医でした。江戸幕府ができて50年ほどで、まだ関西が文化の中心でしたが、江戸も徐々に栄えるようになって、一蝶の家族は江戸に下ります、一蝶が8歳頃(15歳の頃とも)です。石川の江戸づめに従ったともされます。石川は白庵の子・一蝶の才能を見抜き、「狩野三兄弟」の三男で狩野派宗家をついだ狩野安信に入門させます。そんなこんなで一蝶の画才が開花していきました。狩野派の伝統を踏まえつつ、風俗画の先駆者・岩佐又兵衛(1578-1650)や、浮世絵の創始者・菱川師宣(1618-1694)の影響を強く受けたと考えられます。
上でも触れた通り、一蝶が生まれた1650年代を境に時代は大きく変っていきます。武力を背景に全大名を幕府に従わせる体制を整えた3代将軍・徳川家光が1651年に死去したあと(一蝶の誕生はその翌年(1652年))、4代将軍・徳川家綱以降は、武断から文治へと政策が大きく転換。封建的な武家からの圧力が弱まって、上方を中心に町人文化が伸長し、古典的な雅な文化も復興してきます。町人の文化は「俗」のテイストも大切にしました。そんな時代の流れの中で、近松門左衛門、井原西鶴、菱川師宣らが出てきます。一蝶が20代の頃、浮世絵の創始者・菱川師宣が頭角を現し、驚くべき絶倫男・浮世之助が登場する井原西鶴の『好色一代男』(浮世草子の第1作)が刊行されたのが、天和2年(1682年)、一蝶が30歳の時です。遊里や芝居町などいわゆる「悪所」を絵画や文芸の題材にすることを世間一般は受け入れ、師宣も西鶴も時代の寵児としてもてはやされたことでしょう。そして、爛熟した元禄期(1688-1704)の文化へと突入していきます。
明暦3年(1657年)の江戸の大半を灰にした大火事「明暦の大火」(焼死者が10万人を超えた)が、明日のこと(命)は分からないので、今をバッと楽しんでしまえといった一種享楽的な感情に拍車をかけたかもしれません。「江戸っ子は宵越しの金を持たない」と言われますが、「明暦の大火」後も度々ある江戸の大火事をへた人々の口の端に上った言葉が元になったのではないでしょうか。
「俗」や享楽の追求は、精神の解放をもたらすとともに、精神の頽廃にも繋がりかねません。特に統治者は、人々の「俗」や享楽への傾斜を警戒しそれを抑圧することが多いでしょう。5代将軍・綱吉の儒教を元にした施政はまさにそうだったのでしょう。その煽りを食って、風俗画家であり太鼓持ちの一蝶も島流しになった。
一蝶が三宅島に流されている間
(1698-1709年)の1701-1703年(元禄14-16年)、江戸城松の廊下の刃傷事件や赤穂浪士の討ち入りで有名な赤穂事件がありました。主人のために命を賭した赤穂浪士たちの行動を庶民が賞賛したのは、「俗」や享楽の追求の中で浮華に流れがちだった世相に対する庶民サイドの揺り戻しの反映といえるでしょうか。
江戸に戻った一蝶は、東京深川の霊岸寺門前に住み、仏師民部や村田半兵衛ら悪友とまたつるんで(両者は一蝶より罪が重いとされ、三宅島より遠方の八丈島(Map→)に流されたが、やはり赦免となった)、大商人(樽屋三右衛門、奈良屋茂左衛門、紀伊国屋文左衛門など)のところに出入りし、彼らの遊興を助けています(笑)。
宜雲寺
(一蝶寺とも呼ばれる。東京都江東区白河二丁目6-3 Map→)に住みながら、風俗画をたくさん描きましたが、同寺院に残された彼の作品の多くは関東大震災で失われたとのこと。一蝶の墓は
承教寺
(東京都港区高輪二丁目8-2 Map→)にありますが、承教寺が当地(東京都大田区)の本門寺の末寺(旧末寺)だった関係からでしょうか、本門寺にも一蝶の墓があります(Photo→)。 本門寺には狩野派の墓が集まっているからかもしれません(一蝶の師の狩野安信の墓もある)。
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小林 忠『英 一蝶(日本の美術 no.260)』(至文堂) |
小嵐九八郎『我れ、美に殉ず』(講談社)。地位を捨てて美に殉じた江戸時代の4人の絵師。英 一蝶についても |
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『風俗画の展開 (辻 惟雄集 第4巻) 』(岩波書店) |
守屋 毅『元禄文化 〜遊芸・悪所・芝居〜 (講談社学術文庫)』 |
■ 参考文献:
●『本朝画人伝(下)』(村松梢風 中央美術社 大正15年発行)P.54-55(NDL→) ● 『英 一蝶(日本の美術1 No.260)』(小林 忠 昭和63年発行)P.17-29 ●「胡蝶の夢」(田所義行)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録(コトバンク→) ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤信、五味文彦、高埜利彦、鳥海靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.269-272 ●「元禄文化」(高尾一彦)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録(コトバンク→)
※当ページの最終修正年月日
2023.8.21
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