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4秒で1句(井原西鶴の矢数俳諧)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:東京国立博物館/画像検索/井原西鶴像(森田亀太郎による模写)→


井原西鶴

貞享じょうきょう元年6月5日(1684年。 井原西鶴(42歳)が、1日に23,500句を詠んだそうです。「住吉神社」(大阪市住吉区住吉2-9-89 map→)に、大勢の観客を集めて興行されました。

こういった俳諧はいかい速吟そくぎんは、当時流行していた武芸者による、一昼夜(24時間)に何本弓矢を射当てることができるかを競う「大矢数おおやかず 」を真似たもので、西鶴が始めたようです。俳諧の方も「大矢数(大句数)」と呼ばれました。

西鶴は15歳頃から、当時流行の貞門系(松永貞徳を中心とする俳諧の流派。俳言はいごん (和歌や連歌で使わない俗語・漢語など)を重視))の俳諧を学んだと推測されています。頭角を現すのはずっと後の寛文13年(1973年)、西鶴31歳の時でした。200名を超える人を集めて、突如、大規模な「万句まんく興行」なるものを主催し、『 生玉いくたま 万句』という書物まで刊行したのです。貞門系は人気がありましたが、俳語を重視するあまりに、類型化、平板化しつつあったようです。西鶴は「軽口の句」を「そしらば誹れ」と、貞門系に抵抗し始めます。西鶴は新しく起こった檀林系(西山宗因を中心とする俳諧の流派。貞門系の保守性を打破)の俳諧師として認められつつありました。

延宝3年(1675年)、西鶴(33歳)は幼い頃からの馴染みだった愛妻を病で亡くします。10歳未満の3人の子を抱える男やもめとなりました。即座に剃髪して僧の姿となり(後妻を持たない覚悟と商人としての引退の表明か)、それまで商売( 鑓屋町やりやまち (現・大阪市中央区 map→)に住んでいたことから刀剣などの武具を商っていたと推測されている)の片手間にやっていた俳諧にのめり込んでいきます。妻の死の5日後には、妻の追慕の念から、1日に1,000句を詠んで『俳諧独吟一日千句』を刊行、速吟を始めます。

そして2年後の延宝3年(1675年。西鶴35歳)、初めて「大矢数」を興行し、一日に1,600句を記録します。すると、競争者が現れ、月松軒紀子げっしょうけん・きしが1日に1,800句を詠み(この1,800句は「作物」(偽物?)であると西鶴下里知足しもざと・ちそく に手紙に書いている)、さらには大淀三千風おおよど・みちかぜ が一日に3.000句を達成(この3,000句は西鶴も認めた。大淀は記念して三千風と名のる)。すると西鶴は受けて立って、延宝8年(1680年。38歳)に一日に4,000句を成就します。さらには、4年後の貞享元年(1684年。42歳)、上に紹介した一日23,500句成就しました。

この時の23,500句は帝国図書館に所蔵されていたようですが、関東大震災で焼けてしまったとのこと。今は、他の本に引用されたものや、短冊やメモのような形でしか残っていないようです。芭蕉の一番弟子・ 其角 きかく (22歳)もこの「大矢数」の客として来ていたようで、其角の『五元集』にその第一句が書かれています。

俳諧の息の根とめん大矢数

これで、俳諧の勝負は終わりだぜ!と西鶴は息巻きますが、挑戦者の「息の根」とともに自分の「息の根」も止まりかねませんね!?

23,500句といえば、1日は24時間で1,440分なので、1分でおよそ16句。 ということは1句に4秒もかけられない計算です。自分で書き留める暇などはとうていなく、弟子か誰かが脇目もふらずに書き取っていったのでしょうね。詠む方も書き取る方も、寝ずに、食事もとらずに、トイレに行くのも控えながら、24時間淀みなく続けたことでしょう。手伝いの人だけでも50人とかいたようです。この記録を証する資料は少なくないようで、大方事実であると推測されています。おそるべし、西鶴

量は凄まじくっても、その内容はどうだったでしょう。

この「大矢数」だけについてではありませんが、西鶴について、同時代の芭蕉(西鶴は1642年、芭蕉は1644年生まれ、西鶴は1693年、芭蕉は1694年に死去。西鶴が2つ年上で、1年前に亡くなった)が、

・・・ことばあしくいやしくいひなし、あるいは人情をいふとても、今日のさかしきくまぐままで探り求め、西鶴が浅ましくくだれる姿あり・・(向井去来『去来抄』)

と評しています(『去来抄』は芭蕉の弟子の去来が著した俳諧論。芭蕉の言葉が引かれている)。意訳すると、「言葉の選び方も良くないし、第一賎しい。人情と言ったって、最近のことを小器用に細く書いているに過ぎず、西鶴は浅ましくてダメだなぁ」といったところでしょうか。

これを芭蕉は悪口のつもりで言ったのでしょうが、西鶴が聞いたら「私はまさにそういうものを目指している」と膝を打ったかもしれません。人々の生活や感情の下の下まで降りていって、人々の喜怒哀楽やら欲望やらを掴み取って表現することを目指したのでしょうから。

西鶴は、貞享元年(1684年。42歳)、俳諧の余技として書いた『好色一代男』(色恋の限りを尽くす浮世之助の一生)が大変な人気を呼び、以後、同年、『好色一代男』の続編『 諸艶大鑑しょえんおおかがみ』、翌貞享2年(1685年。43歳)には遊女に惚れて破産し狂気の末に水死した実在の人物をモデルにした『椀久わんきゅう一世いっせい の物語』、翌貞享3年(1866年。44歳)には、当地(東京都大田区・品川区)にもゆかりある八百屋のお七も出てくる『好色五人女』溝口健二の映画「西鶴一代女」の原作『好色一代女』、翌貞享4年(1987年。45歳)には、いろいろな地域の人々の生ぐさい話を集めた人間観察集『 懐硯ふところすずり 』、バラエティに富んだ32の仇討ちストーリー『武道伝来記』、翌貞享5年(1688年。46歳)には画期的な経済小説『日本永代蔵』、と傑作を次々に生み出していきました。俳諧師としても高いプライドがあったでしょうから、『好色一代男』を書いた年(貞享元年。1684年。42歳)、以後浮世草紙にかかりきりになることを予想して、俳諧において他の追随を許さない大記録(一日23,500句の「大矢数」)を樹立し、その地位を不動のものにしておこうとしたのでしょうね(ほんと負けず嫌いですね(笑))。西鶴は最晩年まで俳諧師としての矜持を失いませんでした。浮世草紙も俳諧のためのステップと考えていたようです。

貞門系が1600年代の50年間ほど流行したのに対し、談林系は1600年代終盤の10年間ほどしか盛り上がりませんでしたが、その自由な立場から、芭蕉・西鶴という考えを異にする大作家を生みました。俳諧は、本来、その文字が示すように、「 諧謔かいぎゃく(滑稽、洒落)」 を旨とするものなので、西鶴の方がより俳諧師の名にふさわしそうです。芭蕉は、高雅な味わいを追求し、新たに「蕉風しょうふう 」を起こし、現在に到る俳句の源流となりました。

吉江久彌『西鶴全句集 〜解釈と鑑賞〜』(笠間書院) 大野鵠士(こくし) 『西鶴 矢数俳諧の世界 (和泉選書)』
吉江久彌よしえ・ひさや西鶴全句集 〜解釈と鑑賞〜』(笠間書院) 大野鵠士こくし西鶴 矢数俳諧の世界 (和泉選書)』
朝井まかて『阿蘭陀西鶴』(講談社)。阿蘭陀(おらんだ)とは、わけのわからないもの、変なものの俗称。盲目の娘と大阪で暮らしながら、妥協のない創作を続けた異端の人気作家・井原西鶴の物語 本渡 章『大阪暮らし(むかし案内 江戸時代編)〜絵解き井原西鶴〜』(創元社)。西鶴の浮世草紙とその挿絵から読み取る、人の世のあれやこれや。お金にまつわる天国と地獄や、色恋沙汰の万華鏡
朝井まかて『阿蘭陀西鶴』(講談社)。阿蘭陀(おらんだ)とは、わけのわからないもの、変なものの俗称。盲目の娘と大阪で暮らしながら、妥協のない創作を続けた異端の人気作家・井原西鶴の物語 本渡 章ほんど・あきら 『大阪暮らし(むかし案内 江戸時代編)〜絵解き井原西鶴〜』(創元社)。西鶴の浮世草紙とその挿絵から読み取る、人の世のあれやこれや。お金にまつわる天国と地獄や、色恋沙汰の万華鏡

■ 参考文献:
●「評伝 井原西鶴」( 谷脇理史たにわき・さまちか )※『井原西鶴(新潮古典文学アルバム)』(平成3年発行)に収録 P.15、P.18-20、P25-29、P.90、P.104-108 ●「貞門」(雲英末雄きら・すえおコトバンク→) ※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録 ●「談林」(ブリタニカ国際大百科事典)(ブリタニカ・ジャパン)コトバンク→) ●「俳諧」(乾 裕幸いぬい・ひろゆきコトバンク→ ※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に収録 ●『西鶴 矢数俳諧の世界』(大野 鵠士 こくし  和泉書院 平成15年発行)P.1-12 ●「矢数俳諧と西鶴の方法」(田崎治泰)※『西鶴(日本文学研究資料叢書)』(昭和44年発行)P.63-74 ●『西鶴全句集』(吉江久彌 笠間書院 平成20年発行)P.229-231 ●『談林俳諧集(日本俳書大系 7)』(神田豊穂 非売品 大正15年発行)P.14-15

※当ページの最終修正年月日
2022.6.4

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