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昭和27年4月17日(1952年。
溝口健二監督(53歳)の映画「西鶴 井原西鶴の『好色一代女』を原作にしたもので、御所勤めの若い“お春”が主人公。“お春”は美しさゆえに人生を流転し、 主演は田中絹代(42歳)。“うぶな娘役”を演じ大人気だった田中(日本初の本格的トーキー映画でも活躍)も、すでに40を越え、かつての人気も過去のものになりつつありました。田中はこの映画で心機一転、鬼気迫る演技で新たな境地に入っていきます。「若さは去っていく」という、全人類、いや、それこそ全生命に共通する摂理を、これほど容赦なく描いた映画も珍しいかもしれません。 この映画について、映画評論家の佐藤忠男さんが次のように書いています。 ・・・この光の
この「西鶴一代女」で溝口はヴェネツィア国際映画祭で監督賞を受賞。翌昭和28年にも「雨月物語」で銀獅子賞1位、翌々年の昭和29年にも「山椒大夫」で銀獅子賞4位と3年連続で受賞しました。「世界の溝口」の誕生です。フランスの「ヌーヴェル・ヴァーグ」(「新しい波」の意。昭和35年前後の若い監督らによる映画運動。ロケ撮影中心、同時録音、即興演出などが特徴)の監督らにも多大な影響を与えました。溝口が3度目に受賞した昭和29年、ゴダール(23歳)が第1作「コンクリート作業」(スイスのグランド・ディクサンス・ダムの建造工程を記録したもの。ゴダールはこのダムでアルバイトしてためたお金でこの映画を撮った)を撮っています。ゴダールは「好きな映画監督を3人あげよ」との問いに、「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えたとか。昭和41年(ゴダール35歳)来日した際には、京都の満願寺(京都市左京区岡崎法勝寺町130 Map→)にある溝口の墓に詣でています。ロシア(当時ソ連)の監督・アンドレイ・タルコフスキーも、新しい映画に取り掛かる前には必ず、溝口の「雨月物語」を見直していたとのことです。 当地の
大正15年 「紙人形春の
溝口の墓の隣に女形の人間国宝・
二人の墓が隣り合わせなのは偶然でしょうが、溝口は花柳を主役(男役)にすえて「残菊物語」を撮っています。歌舞伎の二代目・尾上菊之助の生涯を描いたものですが、ここでも、溝口の女性の描き方は容赦ないです。映画評論家の淀川長治は、「残菊物語」を自身の邦画ベスト3の1つにあげていました。
世界的にも極めて評価が高い「雨月物語」でも、女性が悲劇的です。焼き物師の男が華やかな女の幻に惑わされている間に、地味ながらも男を支えてきた妻は死んでしまいます。正気に戻るとそこにもう妻はいない。その亡き妻の声を聴きながら、その声に励まされつつ、無我夢中に焼き物を焼く最期のシーンは忘れがたいものです。人間の愚かさと堕落、そして、そこからの救済が見事に描かれています。 「祇園の姉妹」にも、男たちの欲望や打算に翻弄され打ちのめされる祇園の芸妓たちが描かれます。情にあつい姉も結局は男に裏切られ、男なんかに負けるもんかと頑張る妹は軽くあしらった男に復讐されます。妹役の山田
溝口映画の特徴は、「ワン・シーン=ワン・ショット」といって、一つのシーンを一度に撮影する手法。クローズ・アップ(大写し)も極力排し、ロング・ショット(遠景撮影)とフル・ショット(全身撮影)を中心に画面を作っていきました。フィルムが一度に長く回るため、俳優の負担も大きかったと思われますが、溝口は妥協せずに(厳しく)演出し、クレーンなどを駆使してスムースなカメラ移動を工夫して変化をつけています。 大正時代の終わり頃から、米国映画の影響で、ショットを細かく分けて劇的に表現する撮影法が盛んで、1時間半くらいの映画でも1,000ショット位ざらだったそうですが、溝口の「元禄忠臣蔵」などは3時間半ほどの長篇なのに、160ショットほど。平均するとワン・ショット1分20秒ほどです。溝口は流行に流されることなく自らの手法にこだわりました。 映画評論家の蓮實重彦さんと淀川長治が溝口映画について語るとこんな感じです。 蓮見 ・・・ゴダールもトリュフォーもベルトルッチもテオ・アンゲロプロスも、みんな溝口の影響を受けています。『ラストエンペラー』なんて、誰が見ても溝口健二にオマージュを捧げた映画なのに、見ていてそれが分かる日本人がほとんどいない。溝口は偉大な監督だとは知っていても、今の若い人たちはあまり見ていない。 淀川 恥ずかしいね。溝口知らなきゃ、バチが当たるよ。・・・(『映画に目が眩んで 口語篇』(蓮實重彦)より)
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