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“下手”と言われた画家(延宝7年11月14日(1679年)、狩野安信、山鹿素行に教えを請う)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「狩野三兄弟」の寅。左より、安信(三男)、尚信(次男)、探幽(長男)が描いた寅。三兄弟の性格やあり方はまちまちだったが、同じ一派(狩野派)に数えられるだけあって、同じ題材だと同じようなものか? 同じポスト印象派のゴッホとセザンヌほどの違いを感じない。「個」を表現する時代でなかったからだろうか ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「探幽 3兄弟展(狩野探幽尚信安信)(カタログ)」(東京都板橋区立美術館ほか)

狩野安信

延宝7年11月14日(1679年。 狩野安信(64歳)が、 山鹿素行やまが・そこう (57歳)に会いに行ったようです。「素行日記」の14日に、

古来問其装束也

とあり、武者絵を描くにあたり、軍学者の山鹿に、戦にまつわる 有職故実 ゆうそくこじつ (しきたり)を訊いたようです。当時、絵師は、見知った形象を素描して残し、自分や弟子が後に描く時の参考に供しましたが、なお不明な点は、識者を訪ねて教えを請うたのでしょう。写真や映像がない時代なので、時代の「形」をなるべく正確に残すといった使命も絵師にはあったのでしょうね。

安信の絵を「劣」(下手)とする当時の文献があります。長兄の探幽の「 雪中 せっちゅう 梅竹鳥図 ばいちくちょうず ふすま 」(名古屋城)Photo→や、次兄の尚信の「富士見西行図」Photo→(東京都板橋区立美術館)といった緊張感のある傑作がないからでしょうか?

それとも、狩野宗家そうけを継ぐことになった安信の“幸運”に対するやっかみもあったでしょうか? 元和げんな9年(1623年)長男の探幽(当時21歳)は別家して 鍛冶橋 かじばし 狩野家(東京駅近くの鍛冶橋交差点Map→あたりに屋敷があった)を成し、次男の尚信(当時16歳)は父・孝信の跡を継いで 木挽町 こびきちょう 狩野家(歌舞伎座近くに画塾跡の案内板がある Map→)の祖になり、三男の安信(当時9歳)が死の床にあった狩野貞信の養子になって宗家を継ぎ中橋なかばし狩野家(全国信用組合会館(東京都中央区京橋一丁目9-1 Map→)あたりに屋敷があった)の祖になったのです。探幽安信をずいぶんいじめた(鍛えた?)ようです。

そんな安信でしたが、悪評やいじめに屈することなく、独自の絵画論を打ち立てていきます。「下手」と言われた彼だからこそ、才能に溺れることなく、絵を学び続ける重要性を説くことができたのでしょう。以下は安信が残した文章です。

・・・画に質あり学有、質というは生れついて器用なる天性の質有、学と云は習学ならい・まなびその道をいそしみその術を得たるをいゑり。・・・(中略)・・・我家にいいつたえるは、天質の器用を以て書出すの妙は妙なりと云へり、さはいへとこれとおとばず、いかむとなれは後世の法となりがたし、まなび至るはくるしみて伝ふれとも、万代ばんだい不易ふえきの道備て、子孫是を受て失はず・・・ (狩野安信『画道要訣』より)

天性の素質で描かれた絵はその人限りだが、学ぶことによって身につけた画法は子々孫々受け継がれる、といった意味でしょうか。狩野派が幕府の御用絵描きとして幕末まで活躍できたのは、安信画法の伝授システムを確立したことによるところが大きいかもしれません。

安信は貞享2年(1685年。71歳)まで生きますが、絵に対する情熱を枯らすことなく、死の直前まで、中国や日本の古い絵を鑑定したり、優れた絵を模写したり、学ぶことをやめませんでした。

狩野探幽

「狩野三兄弟」の長男・狩野探幽は、元和3年(1617年。15歳)に江戸幕府の御用絵師となります。南宋画なんしゅうがから余白減筆(少ない手数で本質を表現しようという水墨画によく見られる技法)を学び、瀟洒淡泊しょうしゃ・たんぱく と呼ばれる探幽様式を確立、江戸狩野派の本流となりました。

狩野尚信

次男の狩野尚信も、16歳の時から御用絵師の道を歩み始めます。当初から高く評価され、明治になっても岡倉天心おかくら・てんしんが「探幽に比するにその画に対して楽しき点にいたりては尚信を優れり」とし、長生きしていたら探幽を越えただろう書いています(探幽は72歳、安信も71歳まで生き、尚信は彼らより30年ほども短い生涯)。満足いかないと自ら作品を破り捨てるといった潔癖さがあったようで残っている作品が少なく、彼の画風を本格的に継ぐ人もなく、語られることが少ないようです。慶安3年4月7日(1650年)、亡くなったとされていますが、中国に渡ろうとしたとか、釣りで溺れ死んだともされ、また、将軍・家光が尚信を高く評価して狩野家を継がせようとしたため、兄・探幽の恨みを買わないよう先回りして絵を捨てたとする説もあります。尚信作「富士見西行図屏風」Photo→に描かれた西行西行部分の拡大→のように、ガチガチの御用絵師の世界からドロップアウトして、一人、ぶらりと旅に出たのかも?

この「狩野三兄弟」が、 江戸狩野派の礎を築いたとされます。

当地の本門寺(東京都大田区)には、狩野派絵師の90基もの墓と53基もの位牌があり、「狩野三兄弟」の墓もあります。

芥川比呂志 芥川多加志 芥川也寸志
芥川多加志たかし
芥川也寸志やすし

「芥川三兄弟」も有名です。

かなり前の人たちなので知らない方も多いと思いますが、名優・芥川 比呂志ひろしや、テレビの音楽番組「音楽の広場」などの司会者として人気を博した芥川也寸志やすし(作曲家・指揮者)は、 芥川龍之介の歴とした息子です(比呂志が長男で、也寸志が三男)。

芥川は昭和2年にさっさと死んでしまったので、子どもたちを育てたのは、ほとんどが妻のふみです。 芥川と同じ道をそのままたどらせるのではなく(むしろその神経質さを受け継がないようにして)、息子のそれぞれの志向に沿ってそれを援助、才能を開花させたのですからすごいです。芥川が死んだ時、文はまだ26歳。比呂志が6歳、也寸志が1歳です。

芥川にはもう一人、多加志たかしという息子(次男)がいました。多加志は文学的な才能を示しましたが、昭和20年(22歳)、ビルマの市街戦で戦死。日本が戦争など仕掛けていなければ、生きて、父に匹敵する作家になっていたかもしれません(多加志も“英霊”とかいうものになったのでしょうか?)。

松木 寛『御用絵師 狩野家の血と力 (講談社選書メチエ)』。室町中期から幕末までの400年間、日本の絵画界に君臨した狩野家の闘いと苦悩 芥川瑠璃子『青春のかたみ 〜芥川三兄弟〜』(文藝春秋)。芥川比呂志の妻であり、龍之介の姪でもあった著者による(比呂志とは従姉弟)による内側からの芥川家
松木 寛『御用絵師 狩野家の血と力 (講談社選書メチエ)』。室町中期から幕末までの400年間、日本の絵画界に君臨した狩野家の闘いと苦悩 芥川瑠璃子『青春のかたみ 〜芥川三兄弟〜』(文藝春秋)。芥川比呂志の妻であり、龍之介の姪でもあった著者による(比呂志とは従姉弟)による内側からの芥川家
『「白樺」の人びと 〜有島三兄弟(有島武郎・有島生馬・里見 弴を軸に〜』 。編:日本近代文学館。2人小説家(タイプが異なる)で、1人は画家 「宋家の三姉妹」。財閥の孔 祥熙(こう・しょうき)の妻になった靄齢(あいれい) 、孫文の妻になった慶齢、蔣介石の妻になった美齢のたどった数奇な人生。「宋公館」の宋 子文の実の姉妹だ
『「白樺」の人びと 〜有島三兄弟(有島武郎有島生馬里見 弴を軸に〜』 。編:日本近代文学館。2人小説家(タイプが異なる)で、1人は画家 「宋家の三姉妹」。財閥の孔 祥熙こう・しょうきの妻になった靄齢あいれい 、孫文の妻になった慶齢、蔣介石の妻になった美齢のたどった数奇な人生。「宋公館」の宋 子文の実の姉妹だ

■ 参考文献:
●「探幽 3兄弟展(狩野探幽尚信安信)(カタログ)」(東京都板橋区立美術館・群馬県立近代美術館・読売新聞社・美術館連絡協議会 平成26年発行)P.4、P.51、P.78、P.138-145、P.196-197 ●「池上本門寺の狩野家墓所」(本門寺配布資料) ●「江戸のアーチストたちの住んだ京橋」東京中央ネット→ ●「浜町狩野」※「世界大百科事典(第2版)」(平凡社)に収録コトバンク→ ●『遺訓と日記』(山鹿素行 井田書店 昭和17年発行)P.230-231(NDL→ ●「鍛冶橋狩野家」(夢見る獏)気ままに江戸♪→ ●「本門寺の狩野派展(2019 3/16-5/26 ※霊宝殿の展示)」日蓮宗大本山「池上本門寺」※PDF→

※当ページの最終修正年月日
2024.11.14

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