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生からの逃走(昭和2年7月24日、芥川龍之介、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芥川龍之介

昭和2年7月24日(1927年。 の明け方、芥川龍之介(35歳)が、自宅2階の書斎(東京都北区田端一丁目19-18 Map→)で大量の薬を飲み、その後、階下で寝ていた妻の ふみ の横に伏し、絶命(松本清張の「芥川龍之介の死(『昭和史発掘1(文春文庫)』Amazon→に収録)」など2階の書斎兼寝室で亡くなったとしている本もある)。

芥川の死を知り、その安らかな顔を見て、文の口から自然と出た言葉は 「よかったですね」。 彼の苦しみを知り抜いていた彼女には、死が、苦しみの終止符のように思えたのでしょう。

主治医であり年上の友人でもあった下島 勲しもじま・いさお が駆けつけると、枕元には聖書がおいてあったそうです。芥川は前夜までユニークなイエス論『続 西方の人』を書いていた模様(原稿の末尾に前日の日付(7月23日)が書かれている)。

遺言に従って親友の小穴隆一おあな・りゅういち (32歳)が、死顔を10号キャンバスに木炭で写し始めました。 当時、デスマスクを取ったり、死に顔を描くのが流行っていたのでしょうか。

芥川が自ら命を絶った理由は、いろいろ言われますが、遺書ともいえる『或旧友へ送る手紙』には「ぼんやりした不安」とあり、その具体的な中身は『 ある阿呆あほう の一生』(死後見つかった51の短文からなる)Amazon→ 青空文庫→にだいたい書き尽くしたとしています。

帝大在学中に書いた『鼻』を夏目漱石から絶賛されて以来、文壇の寵児(もっといえば時代の寵児)として歩んできた芥川ですが、27歳頃からすでに「疲労と倦怠の兆し」が表れていたようです。それでも、持ち前の几帳面さから、膨大な仕事をこなしていました(完璧主義者だったので、数々の傑作・佳作を残せたわけだが)。東京田端の芥川の家には、妻と3人の子どもの他に、養父母と伯母が同居していて、彼らの生活を芥川の筆一本が支えました。立て膝で食事し、食べ終わるとそそくさと2階の書斎に戻るといった根の詰めようだったそうです。若い頃に“成功”した彼は、周りから“期待”され、それに応えようと走りに走って走り疲れていったようです。「この二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた」(『或旧友へ送る手記』より)とのこと。一種の過労死のようにも思えます。幻覚症状は精神の疲弊がもたらしたものでしょう。

この才覚があってこの容貌ですから女性にもモテたでしょう。そして好意を寄せられれば冷たくもできなかったのではないでしょうか。鎌倉の小町園の女将、浅草の春日園の小亀、谷崎潤一郎の義妹、 ひで しげ子、片山広子らと浅からぬ関係があったようです。

その年(昭和2年)の正月には、芥川の姉のヒサの夫・西川の家が全焼、西川が莫大な火災保険をかけていたことから西川の自作自演の嫌疑が浮上し、西川はそれを苦にして、火災の2日後に自死します。芥川はその事後処理にも奔走。その他にも、死の間際まで、作家仲間や友人の面倒もよく見ています。何ごとにおいても“優等生”で、“いい人”過ぎました。「そんなこと、知ーらない」と、時には尻を まく れるふてぶてしさがあったなら、もっと生きられたことでしょう。

プロレタリア文学が文壇を席巻せっけんしはじめており、自らの文学を見直すためか、社会科学系の書籍も渉猟しょうりょう 。文学的な悩みもあったかもしれません。

芥川は児童向けの雑誌「赤い鳥」にも『蜘蛛の糸』など数篇を書いてますが、そこから「失うことの恐怖」を読み取ることができます。芥川のような早くからの成功者は羨ましくもありますが、頂点をきわめた人は、今度はそこから脱落する恐怖と戦っていかなければならないのかもしれません。苦しいものかもしれません。

そんな芥川も、馬車馬のような人生からおりてしまおうかと考えた時期がありました。でも、思ったようにはならなかったようです。

芥川の死後、堀 辰雄(22歳)が、小説『聖家族』で、芥川が死んだあとの周囲の微妙な心の動きを描き出しました。物語は、芥川(作中では 九鬼 くき )の葬式の場面から始まります。

三島由紀夫

芥川龍之介が死去したとき、三島由紀夫は2歳でした。芥川の死をもって「大正文学の 終焉 しゅうえん 」とする論者もいますが、三島とともに昭和が始まりました。

三島も43年後(昭和45年)に、自ら命を断ちました。三島の死は、安保闘争・中国文化大革命・ベトナム戦争最中に実行された確固たる政治的表現として語られることが多いようですが、あんがい人生論的でもあったかもしれません。三島が強靭な精神の持ち主だったこと(強靭であろうと強く志向したこと)は間違いありませんが、彼には「自分の老い」を受け入れることができない“ひ弱さ”もありました。

川端康成

三島の死の2年後(昭和47年)に今度は川端康成(72歳)まで死んでしまいます。仕事場の逗子マリーナ(神奈川県逗子市小坪五丁目23-9 Map→)417号室の浴室で大量のガスを吸引、自死を遂げました。検視報告書に「(ガスストーブの)ガス管を口にいれ」とあり新聞もそう書きましたが、 女婿 じょせい (養女の夫)の川端 香男里 かおり (ロシア文学者、東大名誉教授)は、最初に部屋に入った川端家の2人のお手伝いさんの証言からそれを否定しています。

川端の自死は、近親者にとっても晴天の霹靂で、秀子ひでこ夫人からして「(自死の理由が)なんにもわからないのよ。何も・・・」と知り合いの胸で泣きました。新聞社からの電話で川端の自死を知った丹羽文雄などは、思わず「嘘つけ!」と怒鳴ったほどです。周りは川端が強靭な精神と信念の持ち主と思っていたのです。

理由はいろいろ言われていますが(三島由紀夫との関係、お手伝いさんとの関係、創作上の行き詰まりなど)、何事もそうだと思いますが、おそらく理由は複合的でしょう。異邦人として生きてきた川端が、異邦人として去っていった感が強いです。

川端のノーベル賞受賞が昭和43年で、その2年後(昭和45年)に三島が自死し、さらに2年して(昭和47年)川端が自死。三島を最初文壇に押し上げたのが川端で、三島が最後に家族を託したのが川端でした。因縁深いものを感じます。

植田康夫『自殺作家文壇史』(北辰堂出版)。上記3人の他、北村透谷、有島武郎、太宰 治、原 民喜など 頭木弘樹(かしらぎ・ひろき) 『カフカはなぜ自殺しなかったのか? ~弱いからこそわかること~』(春秋社)
植田康夫『自殺作家文壇史』(北辰堂出版)。上記3人の他、北村透谷、有島武郎太宰 治原 民喜など 頭木弘樹 かしらぎ・ひろき 『カフカはなぜ自殺しなかったのか? ~弱いからこそわかること~』(春秋社)
デュルケーム『自殺論 (中公文庫) 』。訳:宮島 喬。自死を4タイプに分類、現代社会における「個の危機」を指摘 熊沢 誠『過労死・過労自殺の現代史 ~働きすぎに斃れる人たち~ (岩波現代文庫)』
デュルケーム『自殺論 (中公文庫) 』。訳:宮島 喬。自死を4タイプに分類、現代社会における「個の危機」を指摘 熊沢 誠『過労死・過労自殺の現代史 ~働きすぎに たお れる人たち~ (岩波現代文庫)』

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
堀 辰雄の『聖家族』を読む→
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
川端康成の『雪国』を読む→

■ 参考文献:
●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 同年発行2刷)P.38-40、P.64-65、P.72-73、P.79-96、P.97-103 ●『或旧友へ送る手記』『続 西方の人』 ※「芥川龍之介集(日本現代文学全集26)」(筑摩書房 昭和28年発行)に収録 ●「芥川龍之介の死」(松本清張)※『昭和史発掘2』(文藝春秋 昭和40年初版発行 昭和49年発行29刷)P.7-26 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行)P.86-93 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.131-134 ●『自殺作家文壇史』(植田康夫 北辰堂出版 平成20年発行)P.9-44、P.243-255、P.259-275、P.288-298 

※当ページの最終修正年月日
2023.7.24

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