昭和12年頃の浅草映画館街。左手に松竹館のノボリが見える。浅草には松竹系の映画館が多数あった。松竹の蒲田時代を描いた映画「キネマの天地」は、昭和8年の浅草映画館街から始まる ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:「世界畫報(昭和12年2月号)」(国際情報社)
昭和4年12月12日(1929年。
、「東京朝日新聞」夕刊で、川端康成(30歳)の『浅草
紅団
』の連載が始まりました。川端は昭和4年9月、当地(東京都大田区南馬込三丁目)を去って、上野の桜木に転居。浅草通いを始めて、3ヶ月後からこの連載を始めます。一高時代、浅草蔵前に下宿していたので、浅草は川端にとってなじみの町でした。桜木から歩いて通ったようです。
浅草の不良グループ「紅団」のリーダー(男装の美少女・弓子。川島芳子人気の影響を受けたか?)が、浅草に不案内の「私」をいろいろ案内し、その見聞を「私」が読者に伝える形を取った小説です。
浅草の外れにひっそりと住んでみたいと部屋探しをしていた「私」が見つけたのは、日本堤
消防署(Map→)近くの長屋。同じ長屋の一軒おいた玄関で、「私」は弓子と出会います。
・・・奥へ入って三軒目──私は真赤な花束を突きつけられたように立ち止まった。
赤い洋装の娘が、玄関でピアノを叩いているのだ。布の赤とピアノの黒とから浮き出して、膝から下の素足の白さがみずみずしい。玄関といっても、下駄の長さ程のたたきしかないので、明け放った門口
の外から彼女の腰の黒いリボンを引っぱれそうだ。飾りはそのリボンだけだが、袖がなく、襟
ぐりが広いから、セミ・イヴニング──というよりも、舞台の踊り服を家
でも着ているのか。男風に刈り上た襟筋の毛の中に、白粉
が残っている。・・・(川端康成『浅草紅団』より)
長屋がごちゃごちゃ集る袋小路で、「真赤な花束」を突然突きつけられたような鮮烈な出合いでした。その弓子に案内される浅草の裏の裏には、深夜の「花屋敷のお人形」、行きずりの男に
妾
の世話までする「人力車夫」、哀れさを売りものにする「マリ売り」もいれば、船から小学校に通う子どもたち、活動小屋の看板絵にしみじみ見入る浮浪者たち、理髪店の柱の鏡で化粧直ししている「お
洒落
狂女」、朝参りの芸者に、子守り、日雇い人夫に、朝帰りの男・・・、そうして、ようやく「浮世知らぬ顔」の人だかり。そういった清濁合わせ飲む浅草の町を背景に、弓子の復讐劇が展開されます。
大正12年の関東大震災で浅草も大きな被害がありましたが、不死鳥のように甦えって、川端が通った昭和4年頃からは浅草が“最も浅草らしい時代”を迎えました。昔ながらの江戸情緒と映画など最先端文化の絶妙なる融合。
川端には浅草を舞台にした『花のワルツ』(Amazon→)、『浅草の姉妹』(Amazon→)といった作品もあります。
添田唖蝉坊
が『浅草底流記』を書いたのも同時期です。昭和3年に「改造」に12頁ほど掲載し、昭和5年に1冊にしています。川端の『浅草紅団』は『浅草底流記』にインスパイアーされて書かれ(『浅草底流記』からの引用もある)、唖蝉坊は唖蝉坊で『浅草紅団』のヒットに刺激され、加筆・出版したのではないでしょうか。
『浅草底流記』は次のような調子です。
浅草は万人の浅草である。
誰もがハラワタまでさらけ出す安息地帯である。
大衆は刻々に歩む、その大衆の浅草は、常にいっさいのものの古い型を溶かしては、新しい型に変化させる鋳物場
だ。
男は、女は、この色彩と交響の狂奔
の中に流れ込んでは、その中から、明日も生きようという希望を拾ひ出してゆく。(添田唖蝉坊『浅草底流記』より)
唖蝉坊は周辺に住み(対岸・本所
番場町
や上野の
下谷山伏町
)、浅草通いには年季が入っています。『浅草紅団』は「浅草っ子」になりきれない悲しみを含んだ“異郷文学”ですが、唖蝉坊の『浅草底流記』は「浅草っ子」との“連帯文学”。じつは『浅草底流記』、息子の知道の代作なのですが・・・。
『浅草紅団』には、軽演劇団(レビュー)「カジノ・フォーリー」(「カジノ」。同昭和4年11月設立の出来たてのホヤホヤ)が登場、この小説で話題を呼んだようです。
「水族館」(現在の「木馬館 Map→」の隣にあった)の2階の「カジノ」に通い詰めた川端は、人気の踊り子の
梅園龍子
にぞっこんで、引き抜いてバレリーナに育てることも考えたそうです。『浅草紅団』にも梅園が出てきます。堀 辰雄(25歳)も『聖家族』(昭和5年脱稿)に、「カジノの踊り子」を登場させています。また、堀の『水族館』(青空文庫→)は浅草の「水族館」が舞台です。浅草の対岸・向島で育った堀にとっても、浅草は親しみのある場所だったのでしょう。
『浅草底流記』では、「カジノ」について一歩踏み込んでいます。
・・・ナンセンスの連続。ダンス。これはちょっぴり寒い。踊り子の黄色い素足。何んと細い足。乳当てをしてはゐるが、乳当てをするような乳があるのかしらん、ペッシャンコではないか。いかにも子供々々してゐて、色気がなくっていい。観客に足を向けて寝転ぶと、今度はその足を空に突き出す。人間の下半部を、後から覗くのだ。だがかうしたサマを色気抜きで眺め得られるところに、カジノのいいところがあるのだらう。私はどうしても、この痩せた女の子たちから、芳艶な肉の香ひを嗅ぐことはできない。人によっては結構これで間に合ってゐるらしいが。・・・(中略)・・・しかし、ここのジャズは、歌は、踊りは、なんて、出たら目の、間に合せだ。これは断然インチキだ。
だが、それ故に繁昌することを忘れてはならない。整頓を持たない、理容を持たない演技と、舞台裏のやうなゴミゴミした舞台。汚ならしいが、抑制がないから、どこか抜けてはゐても、生きてゐる。・・・(添田唖蝉坊『浅草底流記』より)
唖蝉坊もじつはちょっと“つるぺた”に萌えていたかは定かでありませんが、野方図な「カジノ」が大好きだったのは確かでしょう。
川口松太郎は浅草の
今戸町
育ちで、たくましくも14歳頃から、一人、浅草伝法院の塀際に古本を並べて商売してます。
辻 潤も浅草の
向柳原町
(現在の浅草橋 あたり)で生まれ、妻の伊藤野枝出奔後は、北稲荷町(一部が浅草)に「英語、尺八、ヴァイオリン教授」 の看板を掲げています。浅草の酒場に入り浸って、役者や音楽家と親交、自らも浅草の「観音劇場」の舞台に立つこともありました。大正5年頃なので、震災前。当時の日本で一番高いビル「浅草十二階(
凌雲閣
)」(明治23年開業。日本で初めてエレベーターが設置された。震災で倒壊)がまだ聳えていました。
高見 順は当地(東京都大田区大森北四丁目)に住んでいましたが、昭和13年(31歳)、浅草にアパートを借りて仕事場にしています。戦時色が強まる息苦しい世間から逃れるように、浅草のレビューに通ったようです(「カジノ」は昭和8年に解散)。代表作の一つ『如何なる星の
下
に』(Amazon→)は浅草体験がもとになっています。
永井荷風にも『すみだ川』(Amazon→)『踊子』(NDL→)、武田麟太郎にも『日本三文オペラ』(Amazon→)といった浅草を舞台にした小説があります。浅草の案内書には、小沢昭一の『ぼくの浅草案内』(Amazon→)、矢田挿雲の『浅草(江戸から東京へ(二)(三))』(Amazon→)(Amazon→)などがあります。
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北野 武『浅草迄』(河出書房新社) |
『浅草謎解き散歩 (新人物文庫)』(KADOKAWA)。著:川上千尋、荒井 修、塩入亮乗 |
■ 馬込文学マラソン:
・ 川端康成の『雪国』を読む→
・ 川口松太郎の『日蓮』を読む→
・ 辻 潤の『絶望の書』を読む→
・ 高見 順の『死の淵より』を読む→
・ 堀 辰雄の 『聖家族』 を読む→
■ 参考文献:
●「浅草と『浅草底流記』」(小沢昭一)※『浅草底流記(添田唖蝉坊 添田知道著作集 II)』(刀水
書房 昭和57発行)に収録 ●『高見 順(人と作品)』(
石光 葆
昭和44年初版発行 昭和46年発行2刷)P.154
※当ページの最終修正年月日
2023.12.12
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