広津和郎は父・柳浪の死顔を描いた。広津父子は仲がいいので有名だった ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(東京都大田区立郷土博物館)
昭和3年10月15日(1928年。
の暁、広津柳浪(67歳)が、当地の自宅(現在の「山王公園」(東京都大田区山王三丁目32-6 Map→)あたりにあった)で死去しました。
死の床には、次男の広津和郎(36歳)はじめ、大岡山(東京都目黒区)から駆けつけた間宮茂輔(29歳)らの姿がありました。 間宮は弔辞の依頼に江見水蔭(59歳)の元に走ります。
和郎は柳浪の死顔を板に描きました(上の写真参照)。
柳浪が亡くなる一年前(昭和2年)、芥川龍之介(35歳)が自死しましたが、その折も、画家・
小穴
隆一(33歳)が絵筆を取っています。小穴は芥川の親友で、芥川の子どもあての遺書には「小穴隆一を父と思へ」の一文がありました。芥川の次男の芥川
多加志
(昭和20年4月、ビルマで戦死)の名は、(小穴)隆一の「隆」(たかし)から取っています。小穴は4年前(大正12年)、
脱疽
になって右足を足首から切断、義足を使用していました。
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岡本唐貴が描いた死せる小林多喜二。通夜のおり、3時間ほどスケッチし、それを元に描かれた。原画では右端にパレットを手にした自身の姿も描かれている 出典:『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』 |
昭和8年2月20日、特高警察に捕えられてその日のうちに拷問の末に殺された小林多喜二(29歳)を、画家の岡本
唐貴
(29歳)が描いています。岡本は、 名作コミック「カムイ伝」(Amazon→)の作者・
白土三平
の父親です。
津田
青楓
は多喜二の拷問死に触発されて「犠牲者」を描き、警察に検挙されました。
青楓は、夏目漱石の親友で、漱石に絵を教えた人物です。漱石の晩年の2作品『道草』『明暗』の装丁も手がけました。大正5年、漱石(49歳)の死顔を描いています。
ゴッホの描いた「医師・ガシェの肖像」(Photo1→ Photo2→)は有名ですが、ガシェも、死の床のゴッホを描いたのですね(明治23年)。
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熊谷守一の描いた息子・陽の死姿 出典:「一番悲しい絵」(kawasimanobuo)(ノボ村長の開拓日誌→) |
48歳のとき4歳の次男を失った熊谷守一も絵筆を取っています。「売るための絵」が描けず、病院に連れていくお金もなく、死なせてしまったようです。慚愧の念から無我夢中で筆を取ったのでしょうか。描いている途中で描いている自分に気がつき、嫌になって止め、未完のようです。題名は「陽
の死んだ日」。大原美術館(岡山県倉敷市中央一丁目1-15 Map→ Site→)が所蔵しています。
アラーキーは、妻の陽子を撮り続け、彼女が棺に入ってもシャッターを切っています。
仏教の開祖・ブッダ(釈迦)の死を描いた「涅槃図」(または「涅槃像」)は、仏教発祥のインド、仏教が伝播した中国、日本を含むアジアの諸国などで様々に描かれてきました。「涅槃図」はブッダが入滅した日に行われる涅槃会(2月15日)で掲げられ、また、涅槃像が設置されている寺院も多いので、仏教圏では、もっとも馴染み深い「死顔」はブッダのものと言えるかもしれません。●参考サイト:「涅槃図に描かれる母への思い」(千葉公慈)(駒沢女子大学/駒沢女子短期大学→)
歌舞伎の役者が亡くなったとき発行される浮世絵「
死絵
」も人気がありました。1人の役者が亡くなると何種類も発行されたそうです。
文章で描かれた死顔もたくさんあることでしょう。
50年間不敗だった本因坊・秀哉の引退碁について書かれた川端康成の『名人』は、川端には珍しい「忠実な記録小説」です。秀哉が亡くなった直後、遺族から頼まれて親しくしていた川端が秀哉の死顔の写真を撮ることになりました。写真が現像され、川端の元に届きます。
・・・私はなかの写真を出してみるなり、ああとその死顔にひき入れられた。写真はよく出来ていた。生きて眠っているように写って、しかも死の静けさが漂っていた。・・・(中略)・・・強く張ったあご骨と、少しあけた鰐口とが、なお目立っていた。たくましい鼻も不気味なほど大きく見えた。そうして、閉じた瞼の皺から、陰の濃い額にかけて、深い哀愁があった。・・・(中略)・・・大きい黒子が二つ見えるのは、右の頬だが、その右の眉毛がまた非常に長くうつっていた。眉毛のさきは瞼の上に弓形を描いて、瞼を閉じた線にまでとどいていた。どうしてこんなに長くうつったのだろう。そして、この長い眉毛と大きい黒子とは、死顔に愛情を添えているようだった。
しかし、この長い眉毛は、私の胸をいためるわけがあった
・・・(川端康成『名人』より)
川端には「
掌の小説」(川端は自身の超短編をそう呼んだ。127篇ある)に『死顔の出来事』という1篇(文庫本で2頁と5行ほどの超短編)もあります。妻の死に目に会えず、駆けつけた夫。妻の母が「会ってやって下さい」と言ったとき、夫は「ちょっと待って下さい」と一人で妻に対面することを望みます。一人になり、白い布を持ち上げると、妻の死顔は苦痛に歪んでいました。その後、彼がとった「きちがいじみた」行動とは・・・。真の弔い。真の弔いには、葬祭場も、義理で足を運ぶ弔問客も、花輪も、香典も、いらない。
最後に、西東三鬼の死顔二句。一句目は俳友の石橋辰之助を悼んだもの。「京大俳句」弾圧事件で連座した仲です。二句目は長兄を喪った時のもの。林檎がうまくっても、「うまいね」と言い合う兄はもういません。
涙出づ眼鏡のままに死にしかと
死顔や林檎硬くてうまくて泣く
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岡田温司『デスマスク (岩波新書)』 |
『陽子 (荒木
経惟
写真全集 3)』(平凡社) |
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吉村 昭『死顔 (新潮文庫) 』 |
笹原留似子『おもかげ復元師の震災絵日記』(ポプラ社) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 広津和郎の『昭和初年のインテリ作家』を読む→
・ 間宮茂輔の『あらがね』を読む→
・ 芥川龍之介の『魔術』を読む→
・ 川端康成の『雪国』を読む→
■ 参考文献:
●『広津和郎 この人との五十年』(間宮茂輔 理論社 昭和44年発行) P.95-97 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.34-44 ●『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.57、P.96-97 ●『芥川龍之介(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年発行 昭和58年発行2刷)P.64、P.94-96 ●『小林多喜二(新潮日本文学アルバム)』(昭和60年発行)P.64 ●「岡本唐貴自伝的回想画集」白土三平は父の人生をなぞっている」(KUMA0504)(再出発日記→) ●『夏目漱石(新潮日本文学アルバム)』(昭和58年初版発行 平成13年発行18刷)P.92-95、P.107 ●「津田青楓 四条円山派Ⅰ」(enmasaroomのblog→) ●「大原美術館再訪・熊谷守一と地獄変・下手も人生のうち」(dogu the fisher)(土偶StaticRoute→) ●「解説」(吉村貞司)※『掌の小説(新潮文庫)』(川端康成 昭和46年初版発行 平成30年発行82刷)に収録 ●『西東三鬼の世界(昭和俳句文学アルバム15)』(編著:大高弘達 梅里書房 平成4年発行)P.51、P.59
※当ページの最終修正年月日
2024.10.15
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