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子どもに質の高い文学を(大正7年7月1日、鈴木三重吉、「赤い鳥」を創刊する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鈴木三重吉

大正7年7月1日(1918年。 その頃、プロコフィエフが日本にいた)、鈴木三重吉みえきち (36歳)が、児童雑誌「赤い鳥を創刊しました。

鈴木は、「子ども向けだからそれなりに」ではなく、「子ども向けだからこそ(人生の最初期に出会うものだからこそ)より良いものを」と考えました。「美辞麗句を並べただけのもの」ではなく、「一つの考え(国策とか、教条とか、著者の信条とか)を押し付る」のでもなく、「受けねらいのもの(お涙頂戴。「感動できる」的なもの。おちゃらけたもの)」でもない、子どもの心に配慮した芸術性の豊かな童話・童謡の創出が目指されました。大正時代の自由主義的、民主的、人間主義的な空気から「児童尊重」の気運が高まったようです。

赤い鳥」の執筆陣はそうそうたるもので、鈴木の死により昭和11年8月(二・二六事件の半年後)に廃刊するまでの18年間の197冊で、森 鴎外島崎藤村芥川龍之介有島武郎、泉 鏡花、宇野千代、高浜虚子、菊池 寛谷崎潤一郎、三木露風、小島政二郎、新美南吉、坪田譲治、北川千代らも筆をとりました。

芥川は『魔術』青空文庫→、『 蜘蛛くもの糸』青空文庫→、『 杜子春とししゅん青空文庫→生きることの本質を問い、有島は『一房の葡萄ぶどう青空文庫→少年の淡い恋心を見事に捉え、新美は『ごん狐』青空文庫→孤独な魂同士の交歓を悲劇的に描き、北川は『世界同盟』で全人類の融和を描きました。

物語には、虚栄心を持つ人、おごる人、犯罪者、堕落者、盗む人、いたずらする人、ズルする人、苦しむ人、悲しむ人、怒る人、本来の特性を喪った人なども出てきます。子どもたちは様々な人たちと物語で出会い、自分にもそれらの人々と同じ心の動きがあるのを発見し、時には共感し、ときには反駁しながら、心を耕していったことでしょう。

北原白秋

赤い鳥」の童謡欄を担当したのが北原白秋(創刊時33歳)です。最初、 ことば だけを掲載するつもりでしたが、創刊の年(大正7年)の11月号に掲載した西條八十やそ (26歳)の「かなりや」に成田為三がメロディーをつけて翌大正8年の5月号に掲載したところ、大きな反響があり、以後はメロディーも掲載されるようになったようです。白秋の有名な童謡「からたちの花」も 「赤い鳥」に掲載されたものです。白秋は経済的に苦しい生活を送っていましたが、投稿された童謡の選者にもなり、初の童謡集『トンボの眼玉』もよく売れて、経済的にかなり安定するようです。が・・・

山本鼎

創刊から2年した大正9年の1月号から、子どもの絵も掲載されます。選考したのは山本 かなえ(37歳)です。それまでの図画教育は臨画りんがといってお手本の絵を真似て描くのが主流でしたが、山本“豊富な自然こそが手本”と主張し、臨画ではなく「自由画」を提唱していました(大正7年の長野県の上田市立神川小学校における講演「児童自由画の奨励」がその原点)。その観点から選ばれた子どもたちの絵が「赤い鳥」を飾りました。

これらの活動は 「赤い鳥運動」といううねりとなって、大正中期以降の児童文学ブームを作りました。

赤い鳥」が引き金となって、 「金の船」「童話」「おてんとさん」「童街」「児童文学」といった児童雑誌が続々と誕生。村岡花子が翻訳した物語を寄稿した児童雑誌「小光子」の創刊も大正8年で、「赤い鳥」創刊の翌年です。

と、ここまでが表向きの「赤い鳥」 。人に裏があるように、「赤い鳥」にも裏があります。

小島政二郎

同誌の編集に携わった小島政二郎が後年、自伝小説『眼中の人』 で、「赤い鳥」と主宰者の鈴木三重吉についての知られざる一面をぶちまけました。

鈴木が喘息で入院して小島が編集を一手に引き受けたときのこと、

・・・ところが、締め切り前後にもう一度行つて見ると、二三の人を除いてあとは全部、
「どうも童話といふやつは、むづかしくつてね。 何しろ生まれてからまだ一度も書いた経験がないので──」
 さういふ返事だつた。私は途方に暮れた。 が、書けないと ふものはどうにもしやうがなかつた。 と云つて、八人も穴があいては、雑誌にならなかつた。外の人に頼むと云つても、それからではもう時間がなかつた。
「仕方がありませんから、私が大急ぎで八つ書きませう」
 私は寝てゐる三重吉にさう云ふより外なかつた。
「しかし、名前に困つたな」
寝台に仰向けになりながら、大きな潤んだ目をパチーリ、パチーリさせてゐた三重吉が、不機嫌な語調で、
「もう一度みんなのところを廻つて、事情をよく話してだね、約束不履行の償ひとして、名前を借りることを強引に承諾させて来てくれたまへ」・・・(小島政二郎 『眼中の人』 より)

しかして、小島が8人分の代作をしたそうな。

“名前”をありがたがるととんだ恥をかきます。小島を軽くみていた久米正雄は、小島が書いた「秋声作品」を褒めちぎり、その作品の味は「小島君にはちょいと分るまいね」とまで言いました。小島久米の眼力はその程度かと見切るようになります。

作家なら真実を徹底的に追求すべきなのに、その場を荒立てたくない、嫌われたくないといった八方美人的な理由から、真実に目を塞いでしまう。そんな自分の勇気のなさに若い小島は悩みます。そして、それを乗り越えた時、「何でも書いてしまう作家・小島政二郎」が誕生。作家の間では「(何を書かれるか分からないので)小島よりも先に死ぬな」と言葉が交わされるまでになりました。 自分のことも人のことも容赦なく書くのが小島流です。

『眼中の人』には、鈴木の酒乱や夫人に対するすさまじい暴力などについても克明に書かれています。

河原和枝 『子ども観の近代 〜『赤い鳥』と「童心」の理想〜 (中公新書)』。「子どもを無垢な存在と見なすロマン主義的な子ども観」が、どのように生まれ、普及したかを追う。昭和に入って戦時となり、それがどう変質したか。そして、現在に至り、どのような子ども観が一般化しているか 『赤い鳥代表作集〈1〉』。鈴木三重吉「ぽッぽのお手帳」、芥川龍之介「杜子春」、有島生馬「ないてほめられた話」、島崎藤村「小さなみやげ話」、菊池 寛「一郎次、二郎次、三郎次」、久米正雄「どろぼう」、小島政二郎「ふえ」、有島武郎「一ふさのぶどう」、室生犀星「さびしき魚」ほか
河原和枝 『子ども観の近代 〜『赤い鳥』と「童心」の理想〜 (中公新書)』。「子どもを無垢な存在と見なすロマン主義的な子ども観」が、どのように生まれ、普及したかを追う。昭和に入って戦時となり、それがどう変質したか。そして、現在に至り、どのような子ども観が一般化しているか 赤い鳥代表作集〈1〉』。鈴木三重吉「ぽッぽのお手帳」、芥川龍之介「杜子春」、有島生馬「ないてほめられた話」、島崎藤村「小さなみやげ話」、菊池 寛「一郎次、二郎次、三郎次」、久米正雄「どろぼう」、小島政二郎「ふえ」、有島武郎「一ふさのぶどう」、室生犀星「さびしき魚」ほか
周東美材『童謡の近代 〜メディアの変容と子ども文化〜 (岩波現代全書)』。童謡の流行と変質の背景を考察 神田愛子『山本 鼎物語 〜児童自由画と農民美術〜 〜信州上田から夢を追った男〜』(信濃毎日新聞社)
周東美材『童謡の近代 〜メディアの変容と子ども文化〜 (岩波現代全書)』。童謡の流行と変質の背景を考察 神田愛子『山本 鼎物語 〜児童自由画と農民美術〜 〜信州上田から夢を追った男〜』(信濃毎日新聞社)

■ 馬込文学マラソン:
芥川龍之介の『魔術』を読む→
小島政二郎の『眼中の人』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→
室生犀星の『黒髪の書』を読む→
宇野千代の『色ざんげ』を読む→

■ 参考文献:
●『眼中の人』(小島政二郎)※「小島政二郎全集(第12巻)」(鶴書房 昭和42年発行)P.83-86 ●「赤い鳥」(恩田逸夫)※『新潮 日本文学小事典』(昭和43年発行 昭和51年発行6刷)に収録 ●『詩人 石川善助 そのロマンの系譜』(藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行)P.453-456 ●『アンのゆりかご ~村岡花子の生涯~』(村岡恵理 マガジンハウス 平成20年発行)P.140-141、P.330 ●「自由画教育の時代」(kazukunfamily)図工大好き橋本ゼミin函館→ ●「赤い鳥代表作集【全6巻】」小峰書店→ ●「『赤い鳥』とその時代」(武藤清吾)広島大学学術情報リポジトリ→

※当ページの最終修正年月日
2024.7.1

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