
当地(東京都大田区山王一丁目)の大田黒邸にて。 中央がプロコフィエフ、右が大田黒元雄、左が大田黒の妻のちづえ。大田黒とちづえは、この年に結婚。プロコフィエフ離日1日前(大正7年8月1日)のショット ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『プロコフィエフ(自伝・随想集)』(音楽之友社)原典:杉並区立郷土博物館所蔵資料
大正7年7月22日(1918年。
プロコフィエフ(27歳)が当地の「望翠楼
ホテル」(マンション「クレスト山王ヒルズ」(東京都大田区山王三丁目34-13 map→)が建っているあたりにあった)にやって来ました。その日の日記に次のようにあります。
横浜に戻る。郵便局からいい知らせなど何も期待していなかったが、徳川氏からの作曲依頼についてのベール男爵の手紙と、ミンステルからの葉書が届いていた。ミンステルはとても気のいい若者で、今日から私のために、東京と横浜の間にある大森に部屋を用意してくれたという。彼はそこでとても可愛い奥さんと一緒に、彼いわく上等で恐ろしく安いホテルに住んでいるのだ。
暑くてほこりっぽくて、物価の高い横浜を抜け出せるのが嬉しい。(「プロコフィエフ 日本滞在日記」より)
プロコフィエフが、ロシア革命で世情騒がしくなったロシアを避け創作に専念すべく米国を目指してサンクトペテルブルク(map→)を立ったのが2ヶ月20日ほど前の5月2日。16日間シベリア鉄道に揺られてウラジオストックに着くのが5月22日。ようやくビザが手に入って船で敦賀港から日本入りするのが5月31日です。その後横浜に宿を取りますが(たぶん「グランドホテル」。現在の「ホテルニューグランド」の場所に建っていたようだ)、 米国行きを控えていたプロコフィエフにはお金の余裕がありません。「望翠楼ホテル」に宿替えしたのも、 「恐ろしく安いホテル」との評判に心が動いたようです。
同ホテルに到着した翌日(7月23日)の日記は次のようです。
大森のホテル〔望翠楼ホテル〕は静かだが、設備はよくない。ミンステル一家のまわりには、とてもいいフランス人仲間がいて、このホテルに滞在している。 ミンステル夫人にしても、若くて素敵な女性で、見た目も素晴らしく魅力的だ。
手紙を何通か書き、『許しがたい情熱』を書いた。 驚くほど入念に耕された日本の畑のなかを散歩した。
ビザを待つ心境も落ち着く。(「プロコフィエフ 日本滞在日記」より)
同ホテル滞在中も、『許しがたい情熱』『塔』といった短篇小説を書いています。この時期彼は、かなり小説を書いていたのです。旅の途上にあって、作曲や演奏が十分できないぶん、創作エネルギーを小説に向けたのでしょうか。
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「望翠楼ホテル」があったあたり。右手奥の白いマンションが建っている所にあった |
昭和13年発行の火災保険地図(火保図)の「望翠楼ホテル」。左の写真の右手前の塀は鹿島氏宅のもの。現在も表札が掛っている |
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プロコフィエフは7月22日から離日する8月2日までの11泊12日間「望翠楼ホテル」にいましたが、その間、 小説を書き、到着した日(5月22日)の日記にもある「徳川氏」に会いに箱根に行き、しかし、それよりも何よりも特筆すべきは、近所(東京都大田区山王一丁目11 map→)の大田黒元雄(25歳)と毎日のように行き来したことでしょう。
日本に来て1ヶ月ほどたった7月2日、「帝国劇場」の支配人の計らいで(4-5日後の7月6日、7日、プロコフィエフは「帝国劇場」でピアノ・リサイタルを開く)、プロコフィエフは大田黒からインタビューを受け、二人は意気投合。 二人は下手な英語で、でも愉快に語らったようです。プロコフィエフが「望翠楼ホテル」に宿替えしたのは、大田黒が近くに住んでいるというのも理由の一つだったかもしれません。宿替えした翌日(7月23日)の午前10時にはもう、大田黒邸を訪ねています。
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東京都品川区と大田区の境界をなす道。昔は小川で、ちょっとした渓谷を作り、周辺は「大井村
鹿島谷
」と呼ばれた。大田黒邸は写真の左手あたりにあった。家の近くの小川には「山王橋」がかかっていた |
当地(東京都大田区)の大田黒邸でプロコフィエフも触れたピアノが、「大田黒公園」(東京都杉並区荻窪三丁目33-12 map→ site→)の記念館に保存されている |
偶然、というよりプロコフィエフが他の国からもすでに注目されていた証ですが、プロコフィエフが日本の土を踏む5月31日のおよそ1ヶ月前の4月28日、大田黒は『続 バッハよりシェーンベルヒ』(国立国会図書館デジタルコレクション/大田黒元雄『続 バッハよりシェーンベルヒ』→)という本で、プロコフィエフを取り上げていました。世界で話題の作曲家20名を紹介したもので、マーラー(没後6年)、グラナドス(没後2年)、ラヴェル(43歳)と紹介し、19番目にプロコフィエフ。本書が日本でまとまった形でプロコフィエフが紹介した最初のもののようです(『プロコフィエフ』(井上
頼豊
)。その興味の対象(プロコフィエフ)が、1ヶ月後に目の前に現れ、親しく交流することになるとは、大田黒は想像もしなかったでしょうね。
『続 バッハよりシェーンベルヒ』でプロコフィエフは次のように紹介されています。
・・・プロコフィエフの楽風を一言にしていえば「バックの如くに奔放軽快」である。けれどまたその一面特に最近の作品にはストラヴィンスキイに見られるような本質的な寧ろ野蛮な
直截なところが明瞭に認め得られる。したがって彼もまた多くの批評家から種々の褒貶
を浴せられているのはいうをまたない。
彼の独創的な作品はペトログラード〔サンクトペテルブルク〕の楽界に多くの問題を惹起した。そしてある人々は彼を末恐ろしい少年と呼び、またある批評家はアンダーセン〔アンデルセン〕のお伽噺を例に引き、美しい白鳥のような未来のロシア作曲家の間にあって彼は恐らくかの醜い小鴨となるであろうとさへ言った。
けれども彼の嘆美者は彼の作品が新しい深刻な霊感をもって、リムスキーコルサコフの絵画的の美しさとリアドフの
繊細
とを併せ持った作品を創造する天才であると賞揚してやまない。とにかく彼が果して第二のストラヴィンスキイたるか否かは極めて興味ある楽界の問題である。(大田黒元雄『続バッハよりシェーンベルヒ』より)
プロコフィエフの評価はまだ定まっていなかったのですね。文中の「極めて興味ある楽界の問題」には、現在ではほぼ答えが出たといっていいのではないでしょうか。
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『プロコフィエフ短編集 (群像社ライブラリー)』。当地でも筆を進めた『彷徨える塔(塔)』 『罪深い情熱』も収録。日本滞在時の日記もあり |
井上頼豊 『プロコフィエフ (大音楽家・人と作品<31>)』 |
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プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番&第3番」。ピアノ:キーシン。指揮:アシュケナージ。日本に来る5年前(大正2年)、プロコフィエフ(22歳)は「ピアノ協奏曲第2番」を作曲し自ら演奏、その革新性に、非難ごうごうと拍手喝采相半ばの大騒動となった。「ピアノ協奏曲第3番」は、日本滞在時に聴いた「越後獅子」の影響を受けているともいわれる |
プロコフィエフ「交響曲第1番(古典)& 第5番」。指揮:カラヤン、ベルリン・フィル。プロコフィエフは20代半ばですでに、新古典主義の先駆とされる「交響曲第1番(古典)」を作曲している。来日の直前、大正7年4月21日自らの指揮で初演(26歳) |
■ 馬込文学マラソン:
・ プロコフィエフの『彷徨える塔』 を読む→
■ 参考文献:
●『プロコフィエフ短篇集(訳:サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子 群像社 平成21年発行)P.176、P.194-209、P.203-204 ●『プロコフィエフ(大音楽家・人と作品<31>)』(井上頼豊 音楽之友社 昭和43年発行)
■ 参考サイト:
●プロコフィエフの日本滞在日記/大田黒先生→ ●ウィキペディア/・交響曲第1番 (プロコフィエフ)(平成28年5月21日更新版)→ ・大田黒元雄(平成28年4月12日更新版)→ ・プロコフィエフの楽曲一覧(平成25年6月25日更新版)→ ・ホテルニューグランド(平成28年11月24日更新版)→ ●神奈川の近代建築/横濱絵葉書物語/その3 横浜居留地20番 横浜グランドホテル→ ●幸太のコラム/大田黒の驚き・赤坂溜池にて・ふたりの会話・遊びに来てください→ ●sprkfv net/Motoo Ohtaguro and Serge Prokofiev : an unexpected friendship→ Motoo Ohtaguro interviews Prokofiev→
※当ページの最終修正年月日
2020.7.22
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