|
|||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
![]() |
|||||||||||||||||||||||||||
![]() |
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
|
||||||||||||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||||||||||||
![]() |
大正7年7月22日(1918年。
プロコフィエフ(27歳)が当地の「
横浜に戻る。郵便局からいい知らせなど何も期待していなかったが、徳川氏からの作曲依頼についてのベール男爵の手紙と、ミンステルからの葉書が届いていた。ミンステルはとても気のいい若者で、今日から私のために、東京と横浜の間にある大森に部屋を用意してくれたという。彼はそこでとても可愛い奥さんと一緒に、彼いわく上等で恐ろしく安いホテルに住んでいるのだ。
暑くてほこりっぽくて、物価の高い横浜を抜け出せるのが嬉しい。(「プロコフィエフ 日本滞在日記」より)
プロコフィエフが、ロシア革命で世情騒がしいロシアを避け、音楽(ピアノ演奏と作曲)に専念すべく米国を目指してサンクトペテルブルク(Map→)を立ったのが、3ヶ月ほど前の5月2日。16日間シベリア鉄道に揺られてウラジオストックに着くのが5月22日です。ロシアの西方・サンクトペテルブルクから米国の東方・ニューヨークを目指すのですから、ヨーロッパ・英国を経由した方がいいようなものですが、第一次世界大戦がまだ終わっておらず(同年(大正7年)11月11日に終結)、ヨーロッパの海はドイツの潜水艦Uボートが
グラナドス死去の1年後(大正6年。プロコフィエフ渡米の1年前)、ラフマニノフも、革命期のロシアを去って、しばらくデンマークを拠点にした後、翌大正7年秋(プロコフィエフ渡米の直後)、米国に渡ってピアニストとして活躍するようになります。ラフマニノフはヨーロッパ経由ですが、スウェーデンよりもさらに北を回って米国へ行ったようです。
話は戻って、ウラジオストックでようやくビザが手に入ったプロコフィエフが、敦賀港から日本入りしたのが5月31日(大正7年)です。目的地は米国でしたが、適当な船便がなく、2ヶ月間、日本に滞在することになったのです。
その後横浜に宿を取りますが(たぶん「グランドホテル」。現在の「ホテルニューグランド」の場所に建っていたようだ)、 米国行きを控えていたプロコフィエフにはお金の余裕がありません。「望翠楼ホテル」に宿替えしたのも、 「恐ろしく安いホテル」との評判に心が動いたようです。
![]() |
![]() |
| 「望翠楼ホテル」があったあたり。右手奥の白いマンションが建っているあたりにあった。堀口大学や佐藤春夫も利用 | 昭和13年発行の火災保険地図(火保図)の「望翠楼ホテル」。左の写真の右手前の塀は鹿島宅のもの |
プロコフィエフは7月22日から離日する8月2日までの11泊12日間「望翠楼ホテル」にいましたが、その間、 小説を書き、到着した日(5月22日)の日記にもある「徳川氏」に会いに箱根に行き、それよりも何よりも特筆すべきは、近所(東京都大田区山王一丁目11 Map→)の大田黒元雄(25歳)と毎日のように行き来しました。
![]() |
日本に来て1ヶ月ほどたった7月2日、「帝国劇場」の支配人の計らいで(4-5日後の7月6日、7日、プロコフィエフは「帝国劇場」でピアノ・リサイタルを開く。横浜でも1回リサイタルがあった。自作(「トッカータ op.11」(YouTube:ホロヴィッツの演奏→)など)を中心にショパンも演奏)、プロコフィエフは大田黒からインタビューを受け2人は意気投合。 2人は下手な英語で、でも愉快に語らったようです。プロコフィエフが「望翠楼ホテル」に宿替えしたのは、大田黒が近くに住んでいるというのも大きな理由だったかもしれません。宿替えした翌日(7月23日)の午前10時にはもう、大田黒邸を訪ねています。
7月23日の大田黒の日記が残っています。
七月二十三日 火曜
十時過ぎに突然プロコフィエフが来る。彼は車〔人力車〕で来た。そして取次ぎに出た女中に「オタグロ、オタグロ」と
彼は数日前まで軽井沢にいたのださうだ。そして昨夜、グランド・ホテルからこの大森の望翠楼ホテルに転じて来たのだそうだ。
彼は顔一面の汗をも意とせずに 、直ぐ
彼は昼頃まで弾いたり、話したりして過す。ラヴェルの「マ・メル・ロア」の「美人と獣との登場」を特に繰り返して弾いた。そしてこれは管弦楽で聴くと一層効果があると云って、コントラ・ファゴットやセロの口真似をしながら弾く。
彼はなおいろいろの曲を弾こうとしたが、ホテルで友人と
![]() |
![]() |
| 東京都品川区と大田区の境界をなす道。昔は小川で、ちょっとした渓谷を作り、周辺は「大井村
|
当地(東京都大田区)の大田黒邸でプロコフィエフも触れたピアノが、「大田黒公園」(東京都杉並区荻窪三丁目33-12。昭和8年、大田黒はここに移転した Map→ site→)の記念館に保存されている。写真不可だったので、外から |
プロコフィエフはこの若さ(27歳)で、すでに他の国からも注目される存在でした。プロコフィエフが日本の土を踏むおよそ1ヶ月前、大田黒が上梓した『続 バッハよりシェーンベルヒ』(NDL→)でも、プロコフィエフに一章が割かれています。日本でまとまった形でプロコフィエフが紹介された最初の本なのでしょう(大田黒はモンタギュ・ネーザンの著作を元にプロコフィエフについて書いた)。そんなプロコフィエフ本人が目の前に現れたのですから、 大田黒は飛び上がったことでしょう。
![]() |
![]() |
| 『プロコフィエフ(自伝/随想集)』(音楽之友社)。訳:田代 薫 | 『プロコフィエフ (作曲家別名曲解説ライブラリー)』。編:音楽之友社 |
![]() |
![]() |
| プロコフィエフ「ピアノ協奏曲第2番&第3番」。ピアノ:キーシン。指揮:アシュケナージ。日本に来る5年前(大正2年)、プロコフィエフ(22歳)は「ピアノ協奏曲第2番」を作曲し自ら演奏、その革新性に、非難ごうごうと拍手喝采相半ばの大騒動となった。「ピアノ協奏曲第3番」は、日本滞在時に聴いた「越後獅子」の影響を受けているともいわれる ●「ピアノ協奏曲第2番」(YouTube→) ●「ピアノ協奏曲第3番」(指揮:アバド、ピアノ:アルゲリッチ)(Youtube→) | プロコフィエフ「交響曲第1番(古典)& 第5番」。指揮:カラヤン、演奏:ベルリン・フィル。プロコフィエフは20代半ばですでに、新古典主義の先駆とされる「交響曲第1番(古典)」を作曲している。来日の直前、大正7年4月21日自らの指揮で初演(26歳)。交響曲5番は、昭和16年、ドイツが独ソ不可侵条約を一方的に破棄して攻め入ったのを機に作曲された ●「交響曲第1番(古典)」(YouTube→) ●「交響曲第5番」(YouTube→) |
■ 馬込文学マラソン:
・ プロコフィエフの『彷徨える塔』 を読む→
■ 参考文献:
●『プロコフィエフ短篇集(訳:サブリナ・エレオノーラ、豊田菜穂子 群像社 平成21年発行)P.176、P.194-209、P.203-204 ●『プロコフィエフ(大音楽家・人と作品<31>)』(井上
※当ページの最終修正年月日
2023.7.21