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大正7年5月31日(1918年。 プロコフィエフ(27歳)が、敦賀港(福井県敦賀市 Map→)より日本に上陸しました。 前年(大正6年)、ロシアで2つの革命が起きます。ニコライ2世を退位に至らしめた「二月革命」と、続いて起きた「十月革命」(ソビエト政府の樹立)。プロコフィエフは革命に対して否定的ではありませんでしたが、音楽愛好家の米国人にたまたま出会い、彼のつてで、「新鮮な空気を一息吸いたい」との思いで米国に渡ることにしたのでした。そして、その中継点として日本にも立ち寄ったのです。日本の第一印象を次のように記しています。 ・・・日本のように素晴らしい国は見たことがないと言わねばなるまい。 魅惑的な険しい緑の山々が、ちっぽけな四角に区切られ、かくも愛情こめて丹念に耕された田畑と交互に続いている。 まったく、土地問題を抱える我ら同志諸君は、日本をひと巡りしたほうがよかろうに!(プロコフィエフ『日本滞在日記』より) プロコフィエフは7月22日から10日間、当地(東京都大田区山王三丁目)の「望翠楼ホテル」にも滞在しますが、そこでも「驚くほど入念に耕された日本の畑」に感動しています。 プロコフィエフの来日より50年以上も前の、幕末、 ・・・田舎風の茶店が二つ三つ、水の中に突き出て建てられているのは美しく、水には緑の木の梢がどの角度からも映って見える。 この場所は実に愛すべき平和なものだったので、われわれはしばしば遠乗りの行先と決めたものだった・・・(『オイレンブルク日本遠征記』 より) プロコフィエフもオイレンブルクも、自然(山々、湖水と緑)とそれに調和した人工物(田畑、田舎風の茶店)に見とれたのですね。
オイレンブルクは、風景だけでなく、日本人の親切さ、働き者で穏和な点、子どもの無邪気さ、本が安価で子どもや女性も読書していて知的なこと、清潔さ、女性の地位が高いこと、そして女性が控えめで天真爛漫な点などを褒め讃えています。「どうみても彼らは健康で幸福な民族であり、外国人などはいなくてもよいのかもしれない」とまで言ってくれています。 オイレンブルクに遅れること2年(文久2年。1862年)、横浜の英国公使館の通訳生に着任したアーネスト・サトウ(19歳)が、当地の「 ・・・日本の梅の木は器用な日本人の手で無数の美術品中に表現されているから、今ではだれでもそれになじんでいる。妙にごつごつした木が一杯に立ち並び、葉は全く見られないが、かすかな芳香を漂わせる紅白の優しい花が枝を包み、地は一面に落花の雪でおおわれている。屋敷には黒い柵をめぐらしてあるが、この中へ入ることがどんなにうれしいか、驚嘆の喜びともいうべき感情は、実際に入った人でなければ理解できないだろう。二月の初め、日陰の隅はまだ地面が石のようにかたく凍りついているというのに、太陽がこの季節の常で輝かしく照りはえている、そんな穏やかな 梅は当地(東京都大田区)の名物だったので、よくぞいらっしゃいました、という感じです。やはり、自然(梅)と人工物(「炉辺」「窓」)との調和ですね。日本人は自然と融合したものに「美」を見出し、すでに都市化が進んでいた国の人はそういった「美」に新鮮な驚きを感じたのでしょうか。 プロコフィエフ、オイレンブルク、アーネスト・サトウの言葉に接すると、かつての日本は本当に素晴らしかったんだなと思います。今では“その素晴らしさ”も、無闇な開発による自然破壊や産業破壊、「日本スゲー」「日本が好きなだけ」「日本が世界の中心」が口癖の、「白雪姫の魔女」のような、アホな自画自賛の
アーネスト・サトウは英国駐日公使のパークスの懐刀として、慶応4年(1868年)の江戸城の無血開城でも大きな役割を果たしました。その後、日本人女性と結婚し、子どもももうけています。次男は、日本山岳協会の初代会長となり、尾瀬の保護につとめ「尾瀬の父」と呼ばれこととなる武田 アーネスト・サトウは学生のとき、ローレンス・オリファントの『エルギン卿遣日使節録』(Amazo→)を読んで日本に憧れたとのこと。アインシュタインが日本に興味を持ったのはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の著作に接してです。 大森貝塚の発見者として知られる米国のモース(来日時(明治10年)38歳)も、滞日中、イラスト入りの詳細な日記をつけており、火消したちの勇敢さ、船乗りの沈着冷静さ、人ごみでも「ちょいと御免なさい」といえばさっと道を空けてくれる人の良さ、日本建築の素晴らしさ(日本建築について一冊の本を著している(Amazo→))、日本の日用品・工芸品のユニークさなど、“日本の良さ・面白さ”をたくさん見つけてくれました。
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |