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ドナルド・キーン |
ドナルド・キーンは大正11年生まれで、三島の3歳年上です。15歳のとき両親が離婚し、母親と粗末なアパートで暮らしていました。極めて優秀な学生でニューヨーク州から最優秀生徒として奨学金を受けて学びました。中国人の知り合いを通して漢字を知りそれに惹かれ、コロンビア大学在学中に『源氏物語』を読み、日本文学研究を志します。アジア太平洋戦争中は米海軍の日本語学校で学び、戦後、ハーバード大学、ケンブリッジ大学をへて、昭和28年(31歳)、京都大学大学院留学のために来日しました。翌昭和29年、歌舞伎座で上演されていた三島の「
アーサー・ウェイリー |
キーンが日本文学に興味は持つきっかけとなった『源氏物語』は、アーサー・ウェイリー(1889-1966)が翻訳したものでした。ウェイリーは「二十世紀最大のオリエンタリスト」と評された人で、その『源氏物語』も高く評価されています。大英博物館の東洋版画・写本部門の学芸員だった時、上司に東洋の美術・文学の研究家かつ詩人・劇作家のローレンス・ビニョンがいて、彼の指導のもと、独学で古典中国語と古典日本語を習得したとのこと。英国のバレエダンサーで東洋研究者だったベリル・デ・ズーテと出会い生涯連れ添ったのも大きかったことでしょう。ウェイリーは後に学芸員の職を辞して翻訳と執筆に専念します。『源氏物語』の他にも、中国と日本の詩歌、『西遊記』なども翻訳、中国と日本の文学を世界文学の土俵に乗せました。昭和37年、キーン(39歳)はロンドンに赴いた際、真っ先にウェイリーとズーテを訪ねています。
小泉八雲 |
やはり日本の文学を世界に紹介したラフカディオ・ハーン(小泉
サイデンステッカー |
三島の翻訳といえばキーンですが、川端康成の翻訳で知られるのがサイデンステッカー。川端の『雪国』『千羽鶴』『伊豆の踊子』などを英訳し、川端を日本人初のノーベル文学賞受賞に導きました。川端は賞金の半額をサイデンステッカーに渡したそうです。当然と言えば当然ですが、ノーベル文学賞を受賞するには、相応の翻訳本が存在すること、またそれらの翻訳本が優れていることが大きな条件になることでしょう。
近年の日本文学の海外発信は不調のようです。現代作家では村上春樹しか海外の書店に並ばないとの指摘もあります。平成14年度文化庁が「現代日本文学翻訳・普及事業(JLPP)」を立ち上げましたが、平成28年、220冊の翻訳本を発行した後、事業を終えました。国が進めてもなかなか難しいものがあるでしょう。ましてや、現今では、政権中枢で「文学軽視」の風潮が強まっています(「文学なんぞは金儲けの役に立たぬ」から?)。上の例が示すように、日本語を母語にする人が他国語に訳出するより、他国語を母語にする人がその母語で日本文学を訳出する方が断然(?)有利でしょう。まずは、日本、日本人、日本文化、日本文学に惚れ込んでくれる海外の人現れるかです。「クールジャパン」「日本最高!」とか浮かれて自画自賛する人があふれる現在の日本(自画自賛は、「秘すれば花」(世阿弥『風姿花伝』より)の日本古来の美意識に反する)では、真に敬意を持って日本に関心を持ってくれる海外の人が現れるかどうか・・・
そんな中、令和2年英訳された柳 美里の『JR上野駅公園口』(『Tokyo Ueno Station』)が権威ある全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞したのは快挙でした。
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| 『ドナルド・キーン自伝【増補新版】 (中公文庫)』。訳:角地幸男 | 平川祐弘『アーサー・ウェイリー 〜『源氏物語』の翻訳者〜』(白水社) |
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| 『小泉八雲 〜日本の霊性を求めて〜(別冊太陽)』(平凡社)。監修:池田雅之 | エドワード・サイデンステッカー『現代日本作家論』(新潮社) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
・ 川端康成の『雪国』を読む→
■ 参考文献:
●『三島由紀夫研究年表』(安藤 武 西田書店 昭和63年発行)P.120、P.207 ●「日本におけるドナルド・キーンの略年譜(1922-1977(1))」(北嶋
※当ページの最終修正年月日
2024.6.16