昭和37年3月、三島由紀夫(中央)とドナルド・キーン(右)が、サンケイホールの楽屋で、芥川
比呂志
(左)と面談。前年(昭和36年)、三島が江戸川乱歩の探偵小説『
黒蜥蜴』を戯曲化、翌昭和37年3月3日~25日、サンケイホールで公演された。明智小五郎を演じたのが芥川比呂志。どおりで拳銃持ってる(笑)。三島とキーンの二人三脚で「世界の三島」が誕生する 写真の出典:『三島由紀夫(人と文学シリーズ)』(学研)
昭和35年6月17日(1960年。
三島由紀夫(35歳)が、ドナルド・キーン(37歳)に次のような手紙を書いています。
前略
日本へおいでになると、忽ち、東京を素通りして京都へ行つておしまひになるので、全くじれつたい気持です。もつとも今の東京はデモさわぎで大変ですが、月末帰京される頃は、静かになつてゐるといいと思ひます。どうか御帰京の日をおしらせ下さい。御帰怱々、食事にお招きしてお話を伺ひたいのです。なほ、鉢の木会のはうは、別にお招きするでせうから、鉢の木会以外の人で、お話しになりたい方がありましたら、どうぞおしらせ下さい。
御相客
にお招きしたいと思ひます。・・・
日本文学研究者・キーンへの歓待の念が顕著に表れています。
ドナルド・キーンは大正11年生まれで、三島の3歳年上です。15歳のとき両親が離婚し、母親と粗末なアパートで暮らしていました。極めて優秀な学生でニューヨーク州から最優秀生徒として奨学金を受けて学びました。中国人の知り合いを通して漢字を知りそれに惹かれ、コロンビア大学在学中に『源氏物語』を読み、日本文学研究を志します。アジア太平洋戦争中は米海軍の日本語学校で学び、戦後、ハーバード大学、ケンブリッジ大学をへて、昭和28年(31歳)、京都大学大学院留学のために来日しました。翌昭和29年、歌舞伎座で上演されていた三島の「鰯売恋曳網」を観て、その後、知り合いの永井道雄と嶋中鵬二を介して三島と知り合います。コロンビア大学で日本語と日本文学の助教授となりますが、夏の休暇は京都で過ごすという生活パターンでした。昭和32年(35歳)には三島の『近代能楽集』(Amazon→)(『Five Modern Noh Plays』(Amazon→))を英訳。三島はその出来に満足だったのでしょう。その後2人が親交を深めただろうことは上の手紙からも充分察せられます。2人の交流は、昭和45年11月25日に三島が自ら命を断つまで続き、膨大な書簡が交わされます(三島の手紙を集めた『決定版 三島由紀夫全集(第38巻)』(新潮社)ではキーンにあてたものだけで135ページを占める)。三島はなんと、自死した翌日(昭和45年11月26日)付でもキーンに手紙を出していますが(!)、そこでも、自著の翻訳の依頼をしています。自分が死んだ後、出版社が自分の本の出版を渋ることが予想されるので、そこをよろしくと頼んでいます。三島は、キーンを通し、自らの文学が世界に届き、理解されるのを望みました。キーンは、三島の『宴のあと』(Amazon→)、『真夏の死』(Amazon→)、『サド侯爵夫人』(Amazon→)も翻訳しています。
キーンが日本文学に興味は持つきっかけとなった『源氏物語』は、アーサー・ウェイリー(1889-1966)が翻訳したものでした。ウェイリーは「二十世紀最大のオリエンタリスト」と評された人で、その『源氏物語』も高く評価されています。大英博物館の東洋版画・写本部門の学芸員だった時、上司に東洋の美術・文学の研究家かつ詩人・劇作家のローレンス・ビニョンがいて、彼の指導のもと、独学で古典中国語と古典日本語を習得したとのこと。英国のバレエダンサーで東洋研究者だったベリル・デ・ズーテと出会い生涯連れ添ったのも大きかったことでしょう。ウェイリーは後に学芸員の職を辞して翻訳と執筆に専念します。『源氏物語』の他にも、中国と日本の詩歌、『西遊記』なども翻訳、中国と日本の文学を世界文学の土俵に乗せました。昭和37年、キーン(39歳)はロンドンに赴いた際、真っ先にウェイリーとズーテを訪ねています。
やはり日本の文学を世界に紹介したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)はウェイリーよりも39歳年上で、幕末(嘉永3年。1850年)生まれです。ギリシャ駐在の英国軍医と土地の婦人との間に生まれた生まれながらの国際人でした。英国とフランスで教育を受けたあと米国にわたってジャーナリストとして頭角を現し、通信員として明治23年(39歳)来日。日本人の人柄と文化に感動、同年、松江で中学の教師となり、小泉節子と結婚。熊本の五校、「神戸クロニクル」の記者をへて、東大の英文科の講師になりました。教鞭のかたわら21冊の本を著しますが、明治37年に発行された『怪談』が特に有名です。妻の節子から聞いた話(『古今著聞集
』などの古典や伝説)をもとに再話という形で書かれたもので、米国と英国で出版されて広く読まれました。アインシュタインは、ハーンの著作を読んで日本に憧れを持つようになったようです。
三島の翻訳といえばキーンですが、川端康成の翻訳で知られるのがサイデンステッカー。川端の『雪国』『千羽鶴』『伊豆の踊子』などを英訳し、川端を日本人初のノーベル文学賞受賞に導きました。川端は賞金の半額をサイデンステッカーに渡したそうです。当然と言えば当然ですが、ノーベル文学賞を受賞するには、相応の翻訳本が存在すること、またそれらの翻訳本が優れていることが大きな条件になることでしょう。
近年の日本文学の海外発信は不調のようです。現代作家では村上春樹しか海外の書店に並ばないとの指摘もあります。平成14年度文化庁が「現代日本文学翻訳・普及事業(JLPP)」を立ち上げましたが、平成28年、220冊の翻訳本を発行した後、事業を終えました。国が進めてもなかなか難しいものがあるでしょう。ましてや、現今では、政権中枢で「文学軽視」の風潮が強まっています(「文学なんぞは金儲けの役に立たぬ」から?)。上の例が示すように、日本語を母語にする人が他国語に訳出するより、他国語を母語にする人がその母語で日本文学を訳出する方が断然(?)有利でしょう。まずは、日本、日本人、日本文化、日本文学に惚れ込んでくれる海外の人現れるかです。「クールジャパン」「日本最高!」とか浮かれて自画自賛する人があふれる現在の日本(自画自賛は、「秘すれば花」(世阿弥『風姿花伝』より)の日本古来の美意識に反する)では、真に敬意を持って日本に関心を持ってくれる海外の人が現れるかどうか・・・
そんな中、令和2年英訳された柳 美里の『JR上野駅公園口』(『Tokyo Ueno Station』)が権威ある全米図書賞(翻訳文学部門)を受賞したのは快挙でした。
|
|
『ドナルド・キーン自伝【増補新版】 (中公文庫)』。訳:角地幸男 |
平川祐弘『アーサー・ウェイリー 〜『源氏物語』の翻訳者〜』(白水社) |
|
|
『小泉八雲 〜日本の霊性を求めて〜(別冊太陽)』(平凡社)。監修:池田雅之 |
エドワード・サイデンステッカー『現代日本作家論』(新潮社) |
■ 馬込文学マラソン:
・ 三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→
・ 川端康成の『雪国』を読む→
■ 参考文献:
●『三島由紀夫研究年表』(安藤 武 西田書店 昭和63年発行)P.120、P.207 ●「日本におけるドナルド・キーンの略年譜(1922-1977(1))」(北嶋藤郷
)※「敬和学園大学研究紀要(23巻)」に収録(敬和学園大学 機関リポジトリ→) ●『三島由紀夫読本』(新潮一月臨時増刊 昭和46年発行)口絵 ●『決定版 三島由紀夫全集 38』(新潮社 平成16年発行)P.358-359、P.437 ●「小泉八雲」(島田謹二)※『新潮 日本文学小辞典』(昭和43年初版発行 昭和51年6刷参照)P.424-425 ●「三島、63年にノーベル賞初候補 最終選考の一歩手前」 ※「朝日新聞」(平成26年1月4日掲載) ●「川端康成、ノーベル賞7年待ち 推薦はアカデミーメンバー」(「朝日新聞」平成24年9月22日掲載) ●「進まぬ 日本文学海外発信」(三沢典丈) ※「東京新聞(朝刊)」/こちら特報部(平成28年9月23日掲載)
※当ページの最終修正年月日
2024.6.16
この頁の頭に戻る
|