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大森貝塚の発見者は?(明治10年6月19日、モースが大森貝塚を発見した?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モース

明治10年6月19日(1877年。 米国の動物学者・モース(39歳)が、当地の大森駅(東京都大田区大森北一丁目6-1 Map→)を新橋に向けて走りだした汽車の窓から「大森貝塚」を発見したとされています。

大森駅ができたのは1年前の明治9年です。大森駅に停まらずに汽車にスピードが出ていたら、さすがのモースも貝塚に気づかなかったかもしれませんね。

2年後の明治12年に発行されたモースの『Shell Mounds of Omori』(『大森貝塚』)の口絵。線路脇で貝塚の発掘をする人たち 2年後の明治12年に発行されたモースの『Shell Mounds of Omori』(『大森貝塚』)の口絵。線路脇で貝塚の発掘をする人たち

モースは、2日前の17日、横浜港より日本入り。来日の目的は日本に数多く生息する 腕足 わんそく 動物を採集することでした。当時外国人が出歩けるのは居留地から40km以内でしたが、モースはもっと広い範囲で採集できるよう文部省の学監ダヴィット・マレーに交渉しに、横浜駅から東京に向けて汽車に乗ったのでした。

ちょっと妙なことがあります。

モースが「大森貝塚」の発掘に本格的に取り掛かるのは4ヶ月ほどたった10月9日になってです(9月にもちょっとした発掘・調査と、英国の科学雑誌「ネイチャー」への報告をしている)。 それまでは、腕足類の採集や東京大学での講義に追われていたようです。発掘に先立って、9月29日、モースの指示で助手の佐々木忠次郎ちゅうじろう (20歳)が「大森貝塚」を訪れると、そこに東京大学の地質学の教授・ナウマン(23歳)がいたというのです。

モース

ナウマンは、モースより2年早く明治8年に、明治政府から招聘されて来日、明治18年までの10年間日本に留まり、東京大学で地質学を教えながら、日本中、1万kmにわたって踏査、地形図を作成しながら地質調査しました。ナウマンゾウに名を残し、「フォッサマグナ」(日本の東北と西南の境にある地溝帯)の発見者として知られています。

なぜ、ナウマンが「大森貝塚」にいたかというと、その頃、小シーボルト(幕末のオランダ商館の医師で高野長英らに影響を与えたシーボルトの次男。当時25歳)の貝塚研究を助けていたからのようです。

シーボルト

小シーボルトはさらに6年早い明治2年(17歳)に来日。外交官でしたが考古学にも並々ならない関心を寄せていました。 “モースの「大森貝塚」発見”より4年も前の明治6年(21歳)、「デンマーク国立博物館」に、日本の石器などを寄贈しています。ラベルの多くが紛失したためはっきりしませんが、小シーボルトモースより早くに東京湾沿いの貝塚の存在を知っており、「大森貝塚」かその周辺で石器を採取した可能性があります。日本初の鉄道は「大森貝塚」を縦断しており、線路敷設のおり、厚さが最大4mにもおよぶ貝層(貝塚)が一部露出したと考えられ、その情報を耳にし発掘に赴いたかもしれません。博物館への寄贈が鉄道敷設(明治5年)の翌年で、時期的にも符合。

そうなると、モースが汽車の窓から「大森貝塚」を発見したという話はなんなんでしょう? モースは詳細な日記をつけていましたが、当日の日記で貝塚にはまったく触れていません。“発見”であれば、興奮して書き留めても良さそうなもの。彼の“発見”はあくまで個人的なもので、車窓から「あれが話題の(小シーボルトが発掘したという)貝塚か?」と思ったくらいだったのかも・・・。モースの著作『Shell Mounds of Omori』(『大森貝塚』)にも「日本到着の数日後、さいわいにも広大な貝塚を、東京から数マイルの線路のすぐ かたわら で発見した」の一文があるのみです。

現在、モースが「大森貝塚」の発見者として記されるのは、早々と「ネイチャー」に報告したことや、いち早く「大森貝塚」について本に著したことや、勤め先の東京大学を通して東京府に自分が「大森貝塚」の発見者であることと発掘の独占権を認めさせたことによるのでしょう。小シーボルトナウマンは悔しかったでしょうか。モースは良くも悪くも「やり手」だったんだろうと思います。

当地(東京都品川区・大田区)には、「大森貝塚」の石碑が2つ建っています。

大森貝塚」碑 「大森貝墟」碑
「大森貝塚」碑
「大森貝墟」碑

1つは、昭和4年11月、大阪毎日新聞社社長で考古学者でもあった本山彦一の発起で建った「大森貝塚」碑で、(「大森貝塚遺跡庭園」(東京都品川区大井六丁目21 Map→ 園内のモース像→))にあります。「大津事件」で活躍した 児島惟謙 こじま・これかた の邸宅だった場所です。「モースが発掘のさい地主と交わした文書」に記載されている地番とも合致、昭和59年の再発掘調査でも多くの貝塚が確認されました。

もう1つは、モースの「大森貝塚」発掘に携わった佐々木忠次郎の証言によって特定された場所に、「大森貝塚」碑設立後5ヶ月して建った「大森 貝墟 かいきょ 」碑現況→です(昭和5年4月設立)。こちらは「Ntt Data」の脇の道を入ったところにあります(東京都大田区山王一丁目3-3 Map→)。 昭和45年以降3度調査されましたが、耕作や開発で破壊されたためか貝塚の痕跡が見つかっていません。

モースの発掘調査が日本で最初の科学的で大々的な発掘調査だったことから、当地は「日本考古学発祥の地」とされています(「大森駅」のホームの「日本考古学発祥の地」 碑→)。

世界の貝塚研究は、“モースの「大森貝塚」発見”より27年前(1850年)から始まっていました。デンマークの考古学者・ウォルソーが、2つの遺跡を踏査発掘して、翌年(1851年)そこで見られた貝層が、自然の集積ではなく、人間が食した貝の集積であると発表。ウォルソーの貝塚研究が、欧米の学会を刺激し、日本にも伝播しました。小シーボルトは貝塚研究が進んでいたデンマークに遺物を送ったのですね。当地(日本)の遺物をウォルソーも見たかもしれませんね(ウォルソーは存命中。国立歴史博物館の館長だったことも)。

モース『大森貝塚(岩波文庫) 』。編訳:近藤義郎・佐原 真 加藤 緑『日本考古学の原点・大森貝塚 』(新泉社)
モース『大森貝塚(岩波文庫) 』。編訳:近藤義郎・佐原 真 加藤 緑『日本考古学の原点・大森貝塚 』(新泉社)
『日本地質の探究 ~ナウマン論文集~』(東海大学出版会) ヨーゼフ・クライナー『小シーボルトと日本の考古・民族学の黎明』(同成社)
『日本地質の探究 ~ナウマン論文集~』(東海大学出版会) ヨーゼフ・クライナー『小シーボルトと日本の考古・民族学の黎明』(同成社)

■ 参考文献:
●『私たちのモース ~日本を愛した大森貝塚の父~』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成2年発行)P.24-25、P.28-31 ●『日本考古学は品川から始まった ~大森貝塚と東京の貝塚~』(東京都品川区立品川歴史館 平成19年発行)P.6-7、P.22、P.27、P.30、 P.35-50 ●『大森貝塚(岩波文庫)』(モース 編訳:近藤義郎・佐原 真 昭和58年初版発行 昭和63年5刷参照)P.17-18、P.20-21 ●『日本その日その日(1)(東洋文庫)』(モース 平凡社 昭和45年初版発行 昭和47年4刷参照)P.11-12 ●『小シーボルトと日本の考古・民俗学の黎明』(編著:ヨーゼフ・クライナー 同成社 平成23年発行)序文、P.13-14、P.76-77  ●「貝塚」(堀越正行)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→ ●「ウォルソー」(植山 茂)※「日本大百科全書(ニッポニカ) 」(小学館)に収録コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
20203.6.19

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