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宇野千代の『色ざんげ』を読む(愛は恐い)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヨーロッパ帰りの新進画家・湯浅譲二の前に、西条つゆ子が現れる。湯浅には妻子がいるが、つゆ子にどんどんのめり込んでいく。

そんな関係をつゆ子の家の者が認めるわけもなく、しばらくすると彼女は家の者の手でどこかに隠されてしまうのだった。

それからの湯浅が大変だ。それこそ狂ったように、つゆ子を探しはじめる。つゆ子の家の前に部屋を借りて四六時中彼女の家を見張る。こうなると正真正銘のストーカーだが、つゆ子も湯浅のことを強く慕っているのだから、ついつい二人を応援したくなる。

そして、とうとうつゆ子の居場所を突き止めると、湯浅はなりふり構わずに、命がけで会いに行く。 ・・・そして、二人は再会。

と、ここまででも十分面白いが、『色ざんげ』の佳境はこれからだ。道を外してしまった二人は、どうなるでしょう?

一言、 愛は恐い、です。


『色ざんげ』について

宇野千代『色ざんげ(新潮文庫)』

宇野千代36歳の時の作品。昭和8-10年「中央公論」に連載され、昭和10年単行本化。東郷青児とお茶の水出の海軍少将の令嬢との心中未遂事件が題材になっている。宇野は東郷から直接詳細を聞いてこの作品を書いた。実際に事件があったのも当地(東京都品川区大井六丁目)で、小説の舞台も当地(「大森の山の手」。東京都大田区山王一丁目か二丁目あたりか)。

■ 『色ざんげ』評
●「私の書いたものの中で、一番面白い」(宇野千代
●「俺が見ては悪い様な本」(尾﨑士郎宇野の元夫>)
●「この作品は最後の一行まで僕の話したことだ」(東郷青児<『色ざんげ』執筆時の伴侶>)


宇野千代について

『色ざんげ』を書いた頃の宇野千代 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』
『色ざんげ』を書いた頃の宇野千代 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』

遊び人の父と、早世した実母
明治30(1897)年11月28日、山口県岩国の錦帯橋map→近くで生まれた(参考サイト:岩国の観光com./宇野千代の生家→)。父は実家が裕福だったため生涯生業につかず遊び暮らす。 母は宇野が1歳半のとき死去。継母のリュウは、4人の弟と1人の妹を生むが、宇野のことを長女としていつも立てて可愛がった。宇野はそんなリュウを心から敬愛し、5人の弟妹とも終世とても仲が良かった。明治43年(13歳)、父の命令で従兄弟の藤村亮一と結婚するが、10日で逃げ帰る(1度目の結婚)。

文学との出会い
大正3年(17歳)、隣村の小学校の代用教員になり自活。 継母に仕送りできるのが大きな喜びだった。この頃から 「青鞜」などを読み投稿する。翌年(大正4年。18歳)、同僚との恋愛が発覚して職場を追われ、京城(現・ソウル)に渡るが、翌年帰国。従兄弟の藤村 忠 (藤村亮一の弟)の帝大法学部入学に伴って上京した。 「燕楽軒」(東京本郷)で給仕をしている頃、瀧田樗陰芥川龍之介、今 東光、久米正雄らを知る。「本郷のクイーン」と呼ばれた。芥川龍之介の短編『葱』のモデルとされる(文学少女が宇野で、初デートの相手が今 東光のようだ)。大正8年(21歳)、忠と結婚し札幌に住む。 藤村の兄とも弟とも結婚したことになる(2度目の結婚)。

八面六臂はちめんろっぴ の活躍
大正10年(24歳)、「時事新報」の懸賞小説で『脂粉(しふん)の顔)』が一等になり、その後「中央公論」に『墓を発く(あばく)』を発表。 話題の女流作家となる。

昭和11年(39歳)スタイル社を興し日本初のおしゃれ雑誌 「スタイル」を創刊。昭和13年(41歳)には文芸誌「文体」 を創刊した。昭和17年(45歳)、 『人形師天狗屋久吉』Amazon→を発表。「聞き書き体」「語り掛け体」という文体に磨きがかかる。

終戦後の昭和21年(48歳)、 「スタイル」を復刊したところ、時代の雰囲気に迎えられて爆発的に売れる。翌年(昭和22年50歳)、「文体」も復刊、宇野の代表作『おはん』Amazon→が連載された。昭和26年(54歳)、宮田文子ふみこ とヨーロッパを旅行、パリを着物で闊歩して注目される。昭和32年(60歳)、シアトルで着物の国際ショーを開催した。

晩年もはつらつ、多くの人に元気を与える
昭和46年(74歳)から、「新潮」に『桜』を連載。昭和57年(85歳)からは、『生きて行く私』を「毎日新聞」に連載、翌年2巻になって刊行され、100万部を越えるベストセラーになった。「陰気は悪徳、陽気は美徳」「何だか私、死なないような気がするんですよ。はははは」「恋愛はスピードが大切なのよ」といった名言を残し、多くの人に元気を与えた。

平成8年6月10日、満98歳で死去。納骨の直前、白い蝶が骨壺に止まり、悠然と飛び立ち、参列者をはっとさせた。墓所は岩国市の教蓮寺( )。

宇野千代『生きて行く私 (角川文庫)』 『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』
宇野千代『生きて行く私 (角川文庫)』 宇野千代(新潮日本文学アルバム)』

当地と宇野千代

大正11年4月12日、札幌を飛び出した宇野(24歳)は、3日後の15日、中央公論社で尾﨑士郎(24歳)と出会い、 ドモリで飾り気のない好男子の尾﨑に一目惚れ、その晩から尾﨑が宿泊していた「菊富士ホテル」(東京本郷)で同棲する。

尾﨑と当地で暮らし始めるのは翌大正12年の3月頃(25歳)から。 最初、新井宿の下宿屋「寿館」に住み、少しして上泉秀信(26歳)の紹介で東京都大田区南馬込四丁目28-11map→へ移動、農家の納屋をバンガロー風に改造して住んだ。そこは「愛の巣」「馬込放送局」 と呼ばれ、 連日連夜、酒客(今井達夫(19歳)、藤浦 洸(25歳)、秋田忠義、榊山 潤(23歳)、間宮茂輔(24歳)、吉田甲子太郎(29歳)、室伏高信(31歳)など ※年齢は大正12年5月時点)で賑わい、「馬込文士村」の体となる。宇野は彼らのために酒を買いに走った。同年9月1日の関東大震災では、郵便局(大田山王局)から出たとき揺れにあう。

大正13年(27歳)、吉屋信子が当地(東京都大田区大森北四丁目)が越してきて親交。大正15年、当地入りした広津和郎(35歳)が広めた麻雀にも熱中。昭和3年頃からの当地のダンスブームの中心にいた。

昭和2年(30歳)から湯ヶ島通いを始め、「青空」の同人の梶井基次郎(26歳)、三好達治(27歳)らと交友。尾﨑が南馬込四丁目の自宅に連れてきた牧野信一(31歳)とも親しくなる。こういった男性との奔放な親交が、尾﨑と別れる大きな原因になったかもしれない。

宇野は断髪・洋装といった新しいファッションを積極的に取り入れ、その影響で、萩原朔太郎夫人も川端康成夫人も断髪した。萩原朔太郎夫人がダンス仲間の青年と出奔したのは宇野が悪い影響を与えた、と萩原の友人の室生犀星は晩年まで宇野を敵視した。人工的な粉飾を嫌った佐藤玄々(佐藤朝山)宇野のことを嫌い、「馬鹿」と一喝したこともあった。

尾﨑と別れた後、大森海岸の旅館(?)「三浩館」、アパート 「ポプラの家」で一人暮らしの後、東京都世田谷で東郷青児(33歳)と同棲。

作家別馬込文学圏地図 「宇野千代」→


参考文献

●『宇野千代(新潮日本文学アルバム)』(平成5年発行)P.2-10 ●『生きて行く私(中公文庫)』(宇野千代 平成4年発行)P.13-24、P.112-114、P.126 ●『文壇資料 馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)P.92-93、P.147-152 ●『馬込文士村』(榊山 潤 東都書房 昭和45年発行)P.179-184 ●『昔日の客』(関口良雄 三茶書房 昭和53年発行)P.124


参考サイト

●東京紅団/・宇野千代の東京を歩く→ ・野口冨士男の鈴ヶ森散歩(ポプラハウス編)→

※当ページの最終修正年月日
2020.8.1

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