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コンプレックスとの向き合い方(昭和21年12月14日、三島由紀夫、太宰治に会う)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫太宰 治 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:ウィキペディア/三島由紀夫(平成28年9月9日更新版)→ 原典:『日本の作家(林 忠彦写真集)』(主婦と生活社)

 

昭和21年12月14日(1946年。 三島由紀夫(21歳)が、太宰 治(37歳)に会っています。二人が会ったのは、この時一度かぎりのようです。二人が会ったのを翌昭和22年1月26日とする文献もありますが、三島の日記などから昭和21年12月14日が正しいようです。この点について、「東京紅團くれないだん 」さんが分かりやすく説明されています(東京紅團/太宰 治を巡って/太宰 治と三島由紀夫を歩く→)。

敗戦から1年ちょっとしかたっておらず、三島はまだ東大法学部の学生でした。太宰は1ヶ月前の11月、疎開先の郷里・青森県津軽から東京三鷹の旧居に戻って来たばかりで、代表作『斜陽』Amazon→の構想を練り始めた頃です。

場所は、府立五中(現・小石川高校。平成23年閉校 map→)の高原紀一と いで 英利(哲学者・出 隆の次男)が下宿していた東京練馬の桜台map→の借家の二階。文学を志す20歳前後の若者が10人前後集ったようです。亀井勝一郎(39歳)も来ました。後の詩人・中村 稔や、後の劇作家・矢代静一もいました。「日頃、太宰を批判している三島を本人に会わせたら面白かろう」と矢代が三島を誘ったようです。

その時のことを後年三島は次のように書いています。

・・・暗い階段を昇って唐紙からかみをあけると、十二畳ほどの座敷に、暗い電燈の下に大ぜいの人が居並んでいた。
 あるいはかなり明るい電燈であったかもしれないのだが、私の記憶の中で、戦後の る時代の「絶望賛美」の空気を思い浮べると、それはどうしても、多少ささ くれ立った畳であり、暗い電燈でなければならないのだ。
 上座かみざ には太宰氏と亀井勝一郎氏が並んで坐り、青年たちは、そのまわりから部屋の四周に居流れていた。私は友人の紹介で挨拶をし、すぐ太宰氏の前の席へしょう ぜられ、盃をもらった。・・・(三島由紀夫『私の遍歴時代』より)

文壇デビューをすでに果たしていた三島に、周りの青年たちは一目置いたようです。

・・・場内の空気は、私には、何かきわめて甘い雰囲気、信じあった司祭と信徒のような、氏の一言一言にみんなが感動し、ひそひそとその感動をわかち合い、又すぐ次の啓示を待つ、という雰囲気のように感じられた。これには私の悪い先入主もあったろうけれど、ひどく甘ったれた空気が漂っていたことも確かだと思う。一口に「甘ったれた」と っても、現在の若い者の甘ったれ方とはまたちがい、あの時代特有の、いかにもパセティックな〔感動的な、悲壮感漂う〕、一方、自分たちが時代病を代表しているという自負に充ちた、ほの暗く、叙情的な、……つまり、あまりにも「太宰的な」それであった。・・・(三島由紀夫『私の遍歴時代』より)

三島が、その場の、無批判な、たるんだ雰囲気にも反感をもったのが分かります。三島太宰森 鴎外の文学について尋ねますが、その場にそぐわない生硬な問いとでも思ったのか、太宰はまともに答えず、鴎外の軍服姿をからかったようです。三島太宰に言葉を投げつけるのはその後のようです。

・・・私は自分のすぐ目の前にいる実物の太宰氏へこう言った。
「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」
 その瞬間、氏はふっと私の顔を見つめ、軽く身を引き、虚をつかれたような表情をした。しかしたちまち体を崩すと、半ば亀井氏のほうへ向いて、誰へ言うともなく、
「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」・・・(三島由紀夫『私の遍歴時代』より)

上の文章を書いたときの三島は、当時の太宰くらい(38歳)になってますが、やはり、見ず知らずの青年に「あなたの文学はきらい」と言われることがあると書いています。そんな時でも「こうして来てるんだから、好きなんだ」とは絶対に言わない、それが太宰の文学と自分の文学との違いであると三島は言います。

誰しも痛烈な一言をもらうことがあるでしょうし、人から言われないでも自分のウィークポイントを突きつけられることがあるでしょう。その時、どういった態度を取るかで、人(文学)は大きく分かれると三島は考えました。

「あなたの文学はきらいなんです」と言われた時、「どういったところがきらいなんですか?」と問い返すことも出来たし、そうすれば二人は分かり合える部分に辿りつけたかもしれません。それをせず、太宰は“逃げた”。

太宰三島コンプレックス(自覚されたウィークポイント)を表現することで高く評価されてきた作家ですが、コンプレックスとの向き合い方は異なり、太宰はどこか甘く周りに共感を求めるところがあり、三島は周りから拒否されても個として向き合いそれを克服しようとしました。

2年後の昭和23年、太宰(38歳)はコンプレックスを吐き出すかのようにして『人間失格』Amazon→を書き、6月13日、山崎富栄と玉川上水に入水、死にました。

三島(23歳)は、太宰の自死の2ヶ月後(昭和23年9月2日)、大蔵省を辞め、執筆に専念。読者を全て失う覚悟で自身のコンプレックスを書き切って文壇を驚愕させます(『仮面の告白』)。

フロイト
フロイト

コンプレックスという言葉は、自覚されたウィークポイントつまりは劣等感といった意味で使われることが多いようですが、心理学ではもっと広く「複雑に絡み合った感情」という意味で使われます。代表的なのが、深刻な神経症を患ったフロイトが自分の夢を分析する中で発見した「エディプス・コンプレックス」。父親を殺して母親と結婚する運命にあったギリシャ神話のエディプス王にちなむもので、「母親との親密さを保つ上で障害となる父親を憎む」感情です(ユングは「父親との親密さを保つ上で障害となる母親を憎む」感情を「エレクトラ・コンプレックス」と名づけた)。近親相姦的でネガティブな感情なので、その感情が意識に上らないよう無意識のうちに押さえ込まれ(抑圧され)、その心的エネルギーは潜在化し心的問題を引き起こすとフロイトは考えたようです。注目すべきは、特別な心的外傷によってのみ神経症になるのではなく、こういった普遍的な心的に傾向によっても引き起こされることを発見した点でしょう。

力への欲望を発見したアドラーとその周辺の人たちは劣等感がコンプレックスを形成する重要な要因と考えるようになります。劣等感も誰しもが様々な形で持ちうるでしょう。

三島太宰もコンプレックスを異なった形で外在化させました。両者とも飛び抜けた才能があり、見た目もかなりイケているのに、根深いコンプレックスを抱えていた(自覚していた)というのが興味深いです。読者は、彼らの文学を通し、自分のコンプレックスが自分だけのものでないことをきっと発見することでしょう。そして、それを相対化できるかもしれません。または、抑圧されていて自分でも気づかなかったコンプレックスに気づくかもしれません。

困るのが、自身のコンプレックスを見ようとしないで(または無意識のうちに抑圧して)、それを他者に投影(または転嫁)して、他者をからかってみたり、蔑んでみたり、悪口言ったりする人が少なくないことです(ま、その傾向も多少は誰にしもありか? あと悪口と批判・批評は別物ですよ。その区別もつかない凡庸な政治家があふれているので念のため)。

河合隼雄『コンプレックス (岩波新書)』 三島由紀夫 『仮面の告白 (新潮文庫) 』
河合隼雄『コンプレックス (岩波新書)』 三島由紀夫『仮面の告白 (新潮文庫) 』
武田砂鉄『コンプレックス文化論 (文春文庫)』。コンプレックスが文化を形成してきた!? コンプレックスといっても人それぞれ。「親が金持ち」なのもコンプレックスになるとは・・・ 「英国王のスピーチ」。監督:トム・フーパー。出演:コリン・ファース、ボナム=カーター他。コンプレックスがあったからこそ得たもの。アカデミー賞受賞作(4部門)
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■ 馬込文学マラソン:
三島由紀夫の『豊饒の海』を読む→

■ 参考サイト:
●『私の遍歴時代(ちくま文庫)』(三島由紀夫 平成7年発行)P.108-114 ●『旗手たちの青春』(矢代静一 新潮社 昭和60年発行)P.36-44 ●『私の昭和史 戦後篇 上』(中村 稔 青土社 平成20年発行)P.179-181 ●『回想 太宰 治』(野原一夫 新潮社 昭和55年発行)P.47-54 ●『三島由紀夫研究年表』(安藤 武 西田書店 昭和63年発行) P.57-61、P.63、P.68-70 ●「コンプレックス」(妙木浩之)※『最新 心理学辞典』(平凡社)コトバンク→

※当ページの最終修正年月日
2022.12.14

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