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芦田 均。昭和23年3月9日撮影。出典:『最後のリベラリスト 芦田 均』(文藝春秋)* 昭和23年3月28日(1948年。 付けで、芦田 均(60歳)が日記に次のように書いています。* 昨日一昨日に引かへて今日は春景色に風も柔らぎ、温くなつた。朝スミ子と富夫妻、ヤス子と一緒に北鎌倉の武藤別荘へ行く。その途中円覚寺へ詣で時宗公の墓に額づく。武藤家で昼食。ヤス子も今日は上機嫌で遊んだ。午後四時鵠沼の下河辺家を訪問して孫三人にも逢つた。三人共元気だつた。武藤家で十人前の膳部を譲りうけた。極めて立派な道具である。 芦田は18日前の3月10日に内閣総理大臣(47代)に就任したばかりですが、この日は日曜日とあって、北鎌倉・鵠沼で知り合いや孫たちにも会い、円覚寺にも詣でて、ゆったり過ごしています。文中の「スミ子」は大正7年より30年連れ添ってきた寿美夫人。この日(3月28日)はちょうど2人の結婚記念日でした。「富」は次男です。富の妻・百合子の祖父は武藤
芦田が首相になるまでの経歴をたどると、東京大学法学部卒業後、20年以上も、ロシア、フランス、トルコ、ベルギーで外交官を務めていましたが(在任中、法学博士号を取得。著述も多数) 、昭和6年9月18日を皮切りに日本陸軍が大陸で引き起こしている侵略行為は、国際的な協調体制を崩すものであって、それをくい止めるには政府の訓令に従わざるを得ない外交官という立場では無理で、政治家になるしかないとそれを決意します。昭和6年の暮(芦田44歳)、外務省に辞職の意向を打電しました。自らの道が見えるや、過去に引きずられることなく(不惑(40歳)を過ぎていた)、突き進む人だったようです。* シベリア鉄道に乗って、任地のベルギーから急遽帰国した芦田は(昭和7年2月4日)、軍部急進派の議会政治認否の動きに断固とした態度をとった犬養内閣に共鳴し、その立憲政友会に入党、選挙準備期間は10日間ほどでしたが見事衆議院議員に初当選しました。3ヶ月後、犬養首相が三上 卓ら海軍将校の襲撃を受け殺害されましたが(「五・一五事件」)、右翼や軍部の暴力・テロに屈することなく、芦田は初演説から軍部の独断専行に引きずられている政府を批判(憲兵や特高警察から厳しく監視されるようになる。党内からも芦田除名論が出た)。その後も立憲主義・議会政治の堅持と、政策を内外に明らかにして、内外からの理解の上にたった政治を主張しました。昭和15年、中国で暴走する陸軍を批判した斎藤隆夫の除名動議に対しても反対票を投じました(反対票を投じ得たのは7名のみだった)。アジア太平洋戦争中も、芦田はリベラリストたちを結ぶ役を果たします。* 戦後の芦田の行動も迅速でした。政党政治を復活させるべく、早々と新党結成の準備に動き出します。「戦中、軍国主義と戦ったリベラリスト」として芦田の評価は一変していました。戦後処理内閣の東久邇宮内閣が54日間で総辞職すると幣原喜重郎内閣が成立、芦田はその厚生大臣に請われて着任しました。昭和21年になって、GHQの要請により「新憲法」の審議が国会で始まると、憲法改正特別委員会が組織され芦田はその委員長に就任、戦争放棄と戦力不保持を謳いつつも自衛のための軍備は保有できるよう修正を加えました(「芦田修正」)。牛込中町に新居を構え、昭和18年に鎌倉の常盤山に疎開していましたが、この頃からは当地(東京都大田区大森)に住んでいます(総理になってからの私邸も大森にあった)。* 幣原内閣の後の吉田 茂内閣(第1次吉田内閣。吉田は鳩山一郎の後をついで日本自由党の総裁となった)は安定に欠き、連立政権が構想されます。社会党(首班:片山 潜)、国民民主党(総裁:芦田 均。進歩党を中核に自由党・国民協同党からの人で結成)、国民協同党(書記長:三木武夫。国民党と協同民主党で結成)が連立して片山潜内閣が誕生しました。芦田内閣はその後を引き継ぐ形で誕生したのです。GHQのマッカーサー総司令部も「人民の支配」という声明を発表、芦田支持を表明しました。GHQは日本の右派も警戒しましたし、左派に対しても厳しい態度で臨むようになり(政令201号で公務員の争議行為を禁じ、団体交渉権を厳しく制限)、どちらにも偏らない中道を望んだのです。芦田は外相も兼ねました。*
■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |