|
|||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||
|
昭和4年5月8日(1929年。 づけの室生犀星(39歳)の日記に、当地(東京都大田区)の「大森カフェ」が出てきます。 榊山君夕方来る。稿料七十二円落手、多田不二君来り 「榊山君」は榊山 潤(28歳)で、多田 日記のよると、犀星はこの20日間に8回は「大森カフェ」に行っています。 ・・・萩原と大森カフェにて飲む。かなりに酔ふ。 酒を用ゐ過ぎるために、多少感傷的になる。この夜ふしぎに自己陶酔をなす。 ・・・(中略)・・・萩原と遊ぶとセンチメンタルといふ言葉を常に新しく感ずるは不思議なり・・・(同年4月23日) ・・・萩原と大森カフェにいたる。 榊山の小説『馬込文士村』にも、衣巻省三、朔太郎、広津和郎らが利用した「大森駅前のカフェ」が出てきますが、それが「大森カフェ」でしょうか。 カフェは、もとは、コーヒーが飲める喫茶店で、パリやウィーンなどで、人が集い情報交換する場として発展しました。アポリネール、ジャン・コクトー、サティ、ブルトン、ジャコメッティ、カミュ、サルトル、ボーヴォワールらが集ったパリの「カフェ・ド・フロール」などが有名です。ヨーロッパでは給仕は男性(ギャルソン)と決まっていました。 日本でも、明治44年、銀座に、「カフェ・プランタン」と「カフェ・ライオン」ができ、久米正雄、宇野浩二、広津らも通っています。「カフェ・ライオン」には大正7年に来日したプロコフィエフ(27歳)も外国の仲間と繰り出し「個室でえらくふざけた」そうです。昭和3年、辻 潤の渡仏送別会も「カフェ・ライオン」で開かれました。 こういった日本のカフェ・ブームを、本場パリのカフェを知る永井荷風は、 ・・・ と、くさしています。それでも荷風、日本でも、月に20回ほどはカフェに通ったようで、いったいどうなっているんでしょう(笑)。荷風は銀座のカフェを舞台にした小説『つゆのあとさき』(Amazon→)を残しました。 銀座にあやかろうとしてか当地(東京都大田区)にも「大森銀座(現・ミルパ) Map→」「馬込銀座 Map→」などができますが、カフェもその流れで増えていったのでしょう。昭和8年頃の当地の地図には「池上通り」だけでも「カフェー朗」「朝日カフェー」「カフェーカスガ」とあります。当地が舞台の、南川 潤の小説『風俗十日』にもカフェの類いが出てきます。 カフェで飲むといっても、犀星や朔太郎と違って、尾﨑士郎らは仲間とドンチャン騒ぎでしょうか。和服にエプロン姿の女給は大人気で、ことに「カフェー・ライオン」の女給は知的で上品と評判でした。「はい、はい、ボクはあの
日本のカフェは、そういった接客業・風俗業も兼ねましたが、当地の蒲田にいた小沢昭一はその“不健全さ”こそを愛しました。 ・・・わたくしは子どものころ、いまの大田区の蒲田駅前、西口の
当地(東京都大田区)の文学史には、「白蛾」という星野幸子がやっていたバーもたびたび出てきます。星野は三井財閥の重役の娘でありながら、共産党の幹部・福本和夫に嫁ぎ、福本が下獄(三・一五事件で検挙された)した後は言語学者に嫁ぎ、それにも破れ、幼い子どもを2人抱えてマダム家業を始めたとのこと。作家からすると垂涎モノ(?)の経歴で、作家連が詰め掛けました。 特に尾﨑は星野と深い仲となり、昭和7年、星野とのことを『青い酒場』(NDL→)という小説にしています。貞潔な感情と娼婦的な媚態とが共存する彼女を魅力的としながらも、彼女を冷めた目で見た作品。この作品を発表した2日後に星野は自死を試み、未遂に終わっています。彼女は尾﨑に対して本気だったのでしょう。尾﨑はさらにその顛末も『悪太郎』(NDL→)に書くと、その直後、星野は今度は本当に自死してしまいます(昭和8年)。マスコミからの要請があって書いたとはいえ罪なことです。尾﨑の小説の拙いところは、小説の登場人物が実在の人物の継ぎ接ぎになっているところ。『青い酒場』にもその傾向があり、虚実ない交ぜです。読者は、あの人はそんななんだ〜、と読んでしまうことでしょう。話者の「僕」は案外安全な場所にいて・・・。 『青い酒場』には、泥溝に落ちて死んだ若い詩人として石川善助も出てきます。『青い酒場』は、善助の死の2〜3日後の設定になっています。 榊山の妻が当地に開いた洋酒専門の酒場「ツーシスター」にも当地の作家連がドドッとつめかけたようです。犀星が開店祝いに贈ったゴヤの裸婦像(もちろん複製。「裸のマハ」?)を近所の巡査が見咎め、「ワイセツである」といきりたったとか・・・。
無論一人で舐める酒もいいものですが、時には、酒場で一献傾けたいですね!?
■ 馬込文学マラソン: ■ 参考文献: ※当ページの最終修正年月日 |