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南川 潤の『風俗十日』を読む(戦前、当地で)/馬込文学マラソン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日中戦争最中の昭和12年暮逸子いつこ という20歳の女性が、当地(東京都大田区)のスタンドバーにやって来る。

酒屋の売上減をカバーするため、最近、店の半分をスタンドバーにした。酒屋の妻が切り盛りすることになったが全く要領を得ない。そこで、経験のある女の子に来てもらって商売についてもいろいろ教わろうとの考えだ。

酒屋には19歳になる思春期真っ盛りの小僧がおり、また、逸子を目当てに様々な男たちがスタンドバーにやってくる。題名に「十日」とあるように、それらの人物の10日ばかりのことが書かれている。

波乱は特になく(最後にはちょっとした事件はあるが)、人と人とが好感を持ち合ったり、でも微妙に温度差があったり、反感をもったり、とその心の機微が描かれている。

たとえばこんな場面がある。 ──逸子が前にいた喫茶店のなじみの客に小宮という大学生がいる。逸子に関心を示し、逸子もまんざらでない。小宮がスタンドバーに来てくれたことで、二人は急接近する。そして、初デートの日、小宮は自分のアパートに逸子を誘う。

・・・小宮が手際よく紅茶をいれた。男の手で、そう ふもてなしをされると云ふことに、逸子の女の感情は訳もなく脆く崩れた。湯沸しをとり茶こしから紅茶茶碗の中にそそぎながら、小宮は何か大胆な事の云へる気持になつた。君は僕の事をどう思ふ僕が嫌ひかい。逸子は、はつとして顔をあげると、瞬間小宮の顔が大きな顔になつて自分の上にのしかかる様に見えた。小宮は逸子の、そう言ふとつさに返事の出来ない瞬間を知ってゐた。何もおどろく事はないんだよ、と云ふ風に笑つて見せた。紅茶の茶碗を逸子の前におしやり、角砂糖といれてやつた。そう云ふあつかいが、逸子のこわばった感情をときほごす役目をはたした。逸子がそつとスプーンに手をのばすのを見とどけてから、小宮はもう一度自信にみちた態度で今の言葉を繰り返す。 嫌ひなのかい。・・・(南川 潤『風俗十日』より)

客相手が仕事の逸子だが、恋愛に関してはうぶなのだ。反対に学生の小宮は、そんな逸子を甘く見て、余裕しゃくしゃく。えくぼの似合う青年だが、どきまぎしている逸子を帰した瞬間にも別の女性を思い浮かべるというしたたかさ。

小説の背景の昭和初期の当地の様子が、近くに住む私には興味深い。

「スタンドバー」の位置は、 「池上のバスの通りを大森駅の一つ手前のバスの停車場のすぐそば」で、「そこの店の前を少しばかり行きすぎたところに停車場」という文章からすると、現在の「 葡萄屋ぶどうや 」(東京都大田区山王三丁目19-3 map→)あたりになるだろうか。葡萄屋の隣は近年まで本当に酒屋だった。

スタンドバー近くの「古くからの銭湯」は、「池上通り」沿いにあった「仲の湯」(現在「まいばすけっと」(東京都大田区山王三丁目24-7 フラットパル山王1F map→)があるあたり。解体時の写真(平成14年12月19日撮影)→)だろうか。小説は基本フィクションなのでモデルの場所がその通りとは限らない、はそうなのだが、地理感のある作家(著者の南川は当地に住んでいた)が、その地名を出して書くのだから実際がかなり反映しているだろう。

白木屋しろきや 」は、東京日本橋にあった百貨店の草分け「白木屋」の分店として、昭和4年、当地にできたもの。現在の「大森駅東口ビルディング」(東京都大田区大森北一丁目5-1 map→)が建つ場所にあった。逸子と小宮はここで初デートをする。

映画館」 は、映画を見た後「省線のガードの近く」で別れたとあるので、現在 「サウナみずほ」(東京都大田区大森北一丁目34-16 map→) になっているところにあった「みずほ劇場」だろうか。

ドイツ人の家」 とあるのは、大正14年に独逸ドイツ 学園が横浜から移転してきてからはドイツ人の往来が増え、当地に住むドイツ人もいたのだろう南川は当地のそんな「銀座に似たモダンな雰囲気」を愛したという。

昭和の初め頃の「池上通り」。道の遠方、建物が固まっているあたりが「大森駅」。右手の高い建物が「白木屋」。車が大きく写っているちょっと先の右手が「省線のガード」だ。逸子が勤めた店はこの100mほど手前の左手にある感じか ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大田区史(下)』(東京都大田区 平成8年発行)  
昭和の初め頃の「池上通り」。道の遠方、建物が固まっているあたりが「大森駅」。右手の高い建物が「白木屋」。車が大きく写っているちょっと先の右手が「省線のガード」だ。逸子が勤めた店はこの100mほど手前の左手にある感じか ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『大田区史(下)』(東京都大田区 平成8年発行)  

『風俗十日』 について

『風俗十日』(復刻版)
『風俗十日(復刻版)』(南川 潤文学碑建設委員会)

昭和13年、 「三田文学」7月号に掲載された、南川 潤(25歳)の小説。第3回三田文学賞を受賞。高見 順(31歳)も高く評価した。 翌昭和14年、日本文学社から単行本が出る。


南川 潤について

南川潤
南川 潤 ※ 『南川 潤年譜』(南川 潤文学碑建設委員会 昭和52年)より

谷崎潤一郎と同じ小学校
大正2年9月2日(1913年)、東京日本橋(現・中央区兜町かぶとちょう 3-23 map→)の材木問屋で生まれる。5男。通った「阪本小学校」(東京都中央区日本橋兜町15-18 map→)が、谷崎潤一郎の母校であることから、後年ペンネームに「潤」を。「南川」は実家が日本橋川の直ぐ南だったからだろうか。心臓弁膜症で1年留年し、昭和2年、「府立第一中学校」(現「日比谷高校」(東京都千代田区永田町二丁目16-1 map→))に入学。この頃、友人と回覧雑誌を始める。

心の機微を描く
昭和9年(20歳)、慶應大学文学部英文科に進み、翌昭和10年頃より「三田文学」に書く。卒業後、映画会社の脚本部の試験に落ち、また「少女画報」の編集に携わるも激務に耐えられず数ヶ月で退職するが、昭和12~13年(23~24歳)、『掌の性』『風俗十日』で三田文学賞を2年連続で受賞、新進作家として脚光を浴びた。昭和16年(29歳)、野口富士男、青山光二、十返 一、田宮虎彦らと「青年芸術派」を創刊。 軍国主義に与しなかった。昭和17年(29歳)、『青春の気流』が映画化される(脚本:黒澤 明。出演:原 節子、 大日方 傳おびなた・でんはなぶさ 百合子ほか Amazon→)。

桐生の自然の中で過ごした晩年
昭和19年(32歳)、妻・柿沼ツネの故郷・ 桐生きりゅう菱町ひしまち map→へ移転(強制疎開だった)。昭和20年(32歳)、「 上毛じょうもう 文芸会」を結成、主宰した。音楽会・文芸講座などを催し、郷土文化の復興に尽力した。坂口安吾も桐生に来て、交流(後に、安吾の暴力により絶交)。昭和29年(42歳)より原水爆廃絶運動にかかわった(間宮茂輔との交流はこの頃からか)。

最後の作品は『行為の女』 。昭和30年 9月22日(1955年)、心臓弁膜症から脳出血を起こして永眠する。満42歳だった。墓所は、群馬県藤岡市の円満寺( )。谷中墓地にも分骨されている。昭和34年12月20日(死後4年)、ウィーン平和賞を受賞。


南川 潤と馬込文学圏

関東大震災(大正12年。南川10歳)で被災し、東京日本橋より家族そろって、現在の「日本福音ルーテル大森教会」(東京都大田区山王二丁目18-3 map→)のすぐ裏辺りに越してくる。すぐ下に岡田三郎の家があった。

昭和12年(24歳)、ツネとの挙式を大森ホテルであげ、 庚塚かのえづか (現・東京都品川区大井七丁目)に3年住み、昭和15年(27歳)山王二丁目に戻ってくる。「 獨逸ドイツ 学園」(現在マンション「山王プレイス」(東京都大田区山王二丁目39-23 map→)があるあたりにあった)の隣。昭和19年(32歳)桐生に移転するまで住む。計21年間当地に住んだ(大井町も当地に含め)。

作家別馬込文学圏地図 「南川 潤」→


参考文献

●『南川 潤年譜(含むエッセイ)』(南川 潤文学碑建設委員会 昭和52年発行)アルバム、P.87-92 ●「山王の風俗と南川 潤」( 奥嶋 紘おくしま・ひろし)※ 『わが町あれこれ 第12号』(編:城戸 昇きど・のぼる  わが町あれこれ社 平成8年発行)P.30-31 ●『大田文学地図』(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年発行)P.116 ● 『馬込文士村ガイドブック(改訂版)』(編・発行:東京都大田区立郷土博物館 平成8年発行)P.82

参考サイト

●ウィキペディア/・白木屋(令和3年4月6日更新版)→

謝辞

●かつての白木屋デパートや映画館の場所などについて、大森貝塚保存会の新美豊様(三代目魚銀)と大森鬼太郎様から情報をいただきました。ありがとうございます。

※当ページの最終修正年月日
2021.8.6

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