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死をめぐる闇(昭和7年6月27日、石川善助、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石川善助

昭和7年6月27日(1932年。 石川善助(31歳)が死去しました。善助の死にははっきりしない点が多々あります。

前日の26日、善助は、居候していた草野心平(29歳)の家(十二社じゅうにそう(現・東京都新宿区西新宿四丁目あたり Map→))を午後3時半すぎに出て、当地の詩人・竹村俊郎(36歳)の家(「万福寺」(東京都大田区南馬込一丁目49-1 Map→)の隣にあった)に到着。2人は、家で飲み、飲み足りず外でも数本を重ね、さらに大森駅近くのバー「白蛾はくが?」で飲みます。「白蛾」には詩人の近藤 あずまもいて、3人で飲みました。

10時頃、帰るという竹村と一緒に善助も「白蛾」を出ますが、「町角」で、善助は「他用がある」と言って竹村と別れ、「白蛾」の方に戻って行きました。一人になって、善助災厄さいやくに見舞われます。

善助の死体の発見場所を、28日の「読売新聞(朝刊)」「東京朝日新聞(朝刊)」が、「山王下第一踏切」(東京府下大森町おおもり・まち山王下二四五八番)の「踏切ぎわの幅一間の掘割」と報じましたが、同日(28日)の「報知新聞(夕刊)」では、なぜか、発見場所の地番を「市外入新井町いりあらい・まち新井宿あらいじゅく二三三七番地先」としています。

「読売新聞(朝刊)」が報じた番地にある「大森町」は誤りで(大森町は別の場所。大森駅が近いので思い込んだか)、「報知新聞(夕刊)」が報じた方が地番表記は正確です。しかし、後者の地番には「踏切」がないのです。

これをどう考えたらいいのでしょう?

「読売新聞(朝刊)」「東京朝日新聞(朝刊)」で報じた「電車にあおられて、踏切ぎわの掘割に落ち、堀の水で窒息死した」という警察が作ったストーリーでは、「電車に煽られ」るためには電車に近づく必要があり、電車に近づくとしたら、踏切。それで最初、バー「白蛾」から一番近い踏切「山王下第一踏切」が事故現場であると警察は新聞記者に発表したのではないでしょうか。

しかし、下図でお分かりのとおり、善助が「山王下第一踏切」にいたる必然性はほぼなく、また、「電車に煽られ」たのなら電車の運転手が目撃しただろうし、当時、「山王下第一踏切」には番小屋があった可能性があり、だとしたら、番小屋の職員が、事故の状況を知っているか、または、第一発見に関わっていないと不自然です。それで、急遽きゅうきょ、「山王下第一踏切」とは違う番地を記者に発表したのではないでしょうか。ところが、そこには「掘割」はあっても「踏切」がなかった・・・

Aは「読売新聞(朝刊)」「東京朝日新聞(朝刊)」が事故現場として報じた「山王下第一踏切」、Bは「報知新聞(夕刊)」が報じた事故現場。Cは竹村と善助が別れたと思われる「町角」。竹村が住む馬込方面に抜けるには、ここから 闇坂(くらやみざか) を越えるのが一般的だった。バー「白蛾」の位置には異説があるが、『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社)に折り込まれている地図を参照した。詩人の平木 二六(じろう)も事故の翌年(昭和8年)、「「白蛾」といふ白木屋(しろきや) (デパート)のわきのちひさな新しい酒場」と書いている(「石川善助君と僕」)
Aは「読売新聞(朝刊)」「東京朝日新聞(朝刊)」が事故現場として報じた「山王下第一踏切」、Bは「報知新聞(夕刊)」が報じた事故現場。C竹村善助が別れたと思われる「町角」。竹村が住む馬込方面に抜けるには、ここから 闇坂くらやみざか を越えるのが一般的だった。バー「白蛾」の位置には異説があるが、『馬込文学地図(文壇資料)』(近藤富枝 講談社)に折り込まれている地図を参照した。詩人の平木 二六じろうも事故の翌年(昭和8年)、「「白蛾」といふ白木屋しろきや (デパート)のわきのちひさな新しい酒場」と書いている(「石川善助君と僕」)

善助は、「町角」(C)で、竹村と別れた後、「大森駅」か「白蛾」に向かい、そこにたどり着く前に刑事(特高)に捕まり、どこかで厳しく尋問され(拷問を受け)、その末に死んでしまったのではないでしょうか。よって、「事故現場」にも不審な点があり、死体の第一発見者の情報もつまびらかになっていないのではないでしょうか。

刑事は日頃から「白蛾」と「白蛾」に入り浸っていた近藤 東を張っていて、「白蛾」から出てきた善助に、「白蛾」や近藤との関係を問いただしたのかもしれません。「白蛾」のマダム・星野幸子は(第二次)日本共産党の幹部・福本和夫三・一五事件で検挙され、当時、下獄中)の妻だったことがあり、近藤は2年前(昭和5年)、「改造」の懸賞に応じて1位を獲得、その詩のタイトルが「レーニンの月夜」です。当局は“天皇の絶対性”を利用して民主主義を根こそぎにしようとしていました。

善助の友人・郡山弘史こおりやま・ひろしはプロレタリア文学に関係しており、警察(特高)は郡山の情報を善助から引き出そうとしたのかもしれません。

ちなみに、当日善助と行動をともにした竹村の日記は、なぜか昭和7年の分だけ欠落しています。当局が没収したのでしょうか。それとも、目をつけられないよう竹村が自身で破棄したのでしょうか。

こういった観点からすると、28日の「読売新聞(朝刊)」に掲載された警察発表と思われる「他殺の疑いなく溺死」という判断にも作為が感じられます。なぜ、即座に、他殺でないと断言できたのでしょう。善助が横たわっていたとされた溝には当時ほとんど水が流れておらず、そんなところで、どうやったら溺れ死ぬことができるのでしょう。また「(善助の頭が) 柘榴ざくろ のやうになつてゐた」という話(大森警察で死体の写真を見た草野らの言葉か)もありましたが、深さ1m〜1.8mほどの溝にどのように落ちたら頭が柘榴のようになるのでしょう。

全く無関係かもしれませんが、善助死亡事件の4ヶ月後(昭和7年10月)、「白蛾」のマダム・星野が自殺をはかり、未遂、翌年(昭和8年)にも自殺をはかり死去しています。

それと、星野が最初に自殺をはかったのと同じ昭和7年10月、バー「白蛾」のごく近くで(直線距離で100mちょっと)、日本共産党に潜入した特高のスパイM(松村 昇)が引き起こした日本初の銀行強盗事件が起きました。

恐ろしいことですが、自死や事故死とされても、他殺が疑われるケースが結構あります。他殺でも誰が殺したのか“やぶ の中”のケースも。

昭和24年、当地(東京都大田区上池台)の自宅を出て帰らぬ人となった初代国鉄総裁・下山定則の“自死”もはなはだ疑わしいです。「国鉄ミステリー」などと呼ばれ、あたかも「謎」(未解決事件)のように言われますが、真相がほぼ明らかなのでは?

社会のタブーに果敢に挑戦し続けた映画監督・伊丹十三の“自死”もなんか変。伊丹はヤクザの民事介入暴力をテーマにした作品を撮っているし(「ミンボーの女」。公開後、伊丹は襲撃され重傷を負った)、死の5日前まで医療廃棄物問題を追求していました。

小笠原豊樹『マヤコフスキー事件』(河出書房新社)。小笠原が死の1年半前に上梓した渾身の一作 大江健三郎『取り替え子 ~チェンジリング~(講談社文庫)』。義兄(伊丹十三)の死をテーマにした作品
小笠原豊樹マヤコフスキー事件』(河出書房新社)。小笠原が死の1年半前に上梓した渾身の一作 大江健三郎『取り替え子 ~チェンジリング~(講談社文庫)』。義兄(伊丹十三)の死をテーマにした作品
芥川龍之介『藪の中 (講談社文庫)』。“薮の中”の死骸。誰が殺したのか? 今も議論される小説の中の未解決事件 『落下の解剖学」。脚本・監督:ジュスティーヌ・トリエ。人里離れた山荘で男が転落死する。事故なのか、自死なのか、他殺なのか・・・
芥川龍之介『藪の中 (講談社文庫)』。“薮の中”の死骸。誰が殺したのか? 今も議論される小説の中の未解決事件 『落下の解剖学」。脚本・監督:ジュスティーヌ・トリエ。人里離れた山荘で男が転落死する。事故なのか、自死なのか、他殺なのか・・・

■ 馬込文学マラソン:
石川善助の『亜寒帯』を読む→
芥川龍之介『魔術』を読む→

■ 参考文献:
●『詩人 石川善助 〜そのロマンの系譜〜』 (藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行)P.387、P.387-413、P.456-457 ●「大森・山王下第一踏切 〜善助、事故死を追う〜」(鈴木楫吉しゅうきち )、「童心の彼方へ。時代の暗みと宿命に殉じた詩人・石川善助 〜仙台『童謡運動』時代の悲恋と上京と謎の客死」(木村健司)※『鴉射亭あしゃてい 随筆 〜石川善助随筆等作品・書簡集〜』(編集:森中秀樹 あるきみ屋 令和5年発行)に収録 P.183-184、P.188-189、P.193-194、P.200、223-227 ●『馬込文学地図』(近藤富枝 講談社 昭和51年発行)折り込み地図、P.198-200 ●『私の中の流星群 〜死者への言葉〜』(草野心平 新潮社 昭和50年発行)P.121-125 ●「石川善助君と僕」(平木二六)※『新民謡研究』(歌謡社 昭和8年発行)に収録 P.294

■ 謝辞:
善助本の編者・MH氏、善助研究家のKK氏、善助の郷里・仙台在住のKT氏から、資料をいただいたり、ご教示していただいたりしました。また、詩人のTE氏より励ましのお言葉をいただきました。ありがとうございます。

※当ページの最終修正年月日
2024.6.27

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