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| 石川善助 『亜寒帯(復刻版)』(名著刊行会) |
死後4年した昭和11年に発行された石川善助の唯一の詩集。島根県の安部宙之助と久幸勝信の全面的資金援助によって、島根県大社町原尚進堂から出版された。 草野心平らが編纂。 序は高村光太郎。
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| 石川善助 ※「パブリックドメインの写真(根拠→)」を使用 出典:『詩人 石川善助 〜そのロマンの系譜〜』 |
片足不具にめげず
明治34(1901)年5月16日、宮城県仙台市
原始世界に思いを馳せる独自のロマン的傾向
仙台商業高校に学ぶ。 仙台
大正11年(21歳)、中田信子らと「感触」を発行。その第7号に発表した「
上京。そして、突然の死
昭和3年(27歳)、新天地を求めて上京。かなわぬ恋から逃れるためでもあった。詩友の栗木幸次郎の元(豊島区長崎)に身を寄せ、サトウハチローの紹介で史誌出版社(港区麻布)に勤め、主に東北文化史の研究誌「東北文化研究」の編纂に携わる。小森 盛、高村光太郎、草野心平、尾崎喜八、宍戸儀一、尾形亀之助、佐藤惣之助らと交際。印刷所に転職するが長くは続かず困窮し、昭和7年1月(30歳)から、新宿十二社(じゅうにそう。現・東京都新宿区西新宿四丁目あたり map→)の草野心平(29歳)の家の二階に居候する。心平も貧しかったが、温かく迎えた。当時、西新宿の淀橋
昭和7年6月27日(31歳)、当地(東京都大田区)の大森駅近くの踏切の側の溝に落ち死去。
死後、作品集が編まれる
生前作品集がなかったが、昭和8年(死後1年)、仙台に住む友人らの手で随筆集『
■ 石川善助 評
・ 「・・・
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| 『石川善助作品集〈1〉散文篇』(駒込書房) |
昭和3年(27歳)、東京に出てきてからの善助は、同じ東北出身の竹村俊郎をたびたび訪ねている。竹村の日記によると、少なくとも5回。 竹村が当地(東京都大田区南馬込一丁目59 map→)に越してくるのが昭和6年12月。 翌昭和7年の6月26日、善助はそこを訪ね、一杯やったあと、二人して大森駅近くのバー「白蛾」に繰り出した。たまたまいた詩人の近藤
●『詩人 石川善助 ~そのロマンの系譜~』(藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行)p.148 ●「石川善助とあの頃の詩人たち」(天江富弥 「河北新報」(昭和48年3月9日掲載)) ●『大田文学地図』)(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.129、P.273-274 ●「賢治と善助をめぐる書簡(学芸員資料ノート)」(赤間亜生)※「仙台文学館ニュース 第5号」(平成16年3月31日)P.6-7 ●「詩誌『L.S.M』 ~若き詩人たちの足跡〜(学芸員資料ノート)」(赤間亜生) ※「仙台文学館ニュース 第7号」(平成17年3月31日)P.6-7 ●『ふるさと文学館 第五巻』 (ぎょうせい 平成6年発行)※この文献では、善助の死因を「電車から落ちて」としている ●『最新大森区明細地図』(東京日日新聞発行所 昭和10年発行) ●『詩人 石川善助 資料(第一号)』(編集・発行:木村健司 昭和52年)P.59 ●「始原へ、不可能性へ 〜石川善助の詩の行方〜」(竹内英典)※「詩と思想」(土曜美術出版販売 平成30年10月号)
●ウィキペディア/・ざしき童子のはなし(平成25年5月2日更新版)→ ●Yahoo!知恵袋/昭和初期の1銭通貨は今で言うと1円の価値ですか?→
●仙台ご在住のT.K様から、善助の詩碑と墓所の写真、仙台の古地図のコピー、善助関連の情報がある「仙台文学館ニュース」 、木村健司編・発行 「詩人 石川善助資料(1~3)」 のコピーなどを頂戴しました。ありがとうございます。 ● 詩誌を編集されているA.Y様から、過分なるお言葉をいただきました。ありがとうございます。 ●竹内英典様が「詩と思想」(平成30年11月号 土曜美術社出版販売)で、当地(東京都大田区)での善助の死にいたる状況についての拙論を紹介してくださいました。ありがとうございます。
※当ページの最終修正年月日
2025.4.21