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石川善助はなんだか悲しげだ。 子どもの頃、家は没落した。 片足が不自由でよく転んだという。 仕事もはかばかしくなく、彼の書簡を読むと、理想と現実の間でうめく声が聞こえてくる。 彼は詩集を1冊だけ残した、それも死んでから。 その詩集『亜寒帯』を読んでみよう。 冒頭に、28編の北太平洋の詩が並んでいる。北太平洋は、善助の故郷(仙台)の海。 2度ほど仕事で海に出たこともあった。 彼の眼前にはその身近な海が広がるが、想いは遥か北方のギリヤーク(樺太中部以北と海を挟んで大陸のアムール川下流域に住む少数民俗。ニヴフとも)や白夜の地を馳せる。 鉄と肉体を労作する
つらいことが多かったかもしれない。そんな時、遥かなる北方を想い、そこで安らいだのではないだろうか。北の自然は厳しい。でも、だからこそ神々しく、そこで自らも浄められ、生き力も湧いてきたのではないだろうか。イメージであるがゆえの確固たる不変性。・・・遥かなる北の大地は、善助の“サンクチュアリ(聖なる場所)”だったのだろう。 『亜寒帯』について
死後4年した昭和11年に発行された石川善助の唯一の詩集。島根県の安部宙之助と久幸勝信の全面的資金援助によって、島根県大社町原尚進堂から出版された。 草野心平らが編纂。 序は高村光太郎。 石川善助について
片足不具にめげず 原始世界に思いを馳せる独自のロマン的傾向 大正11年(21歳)、中田信子らと「感触」を発行。その第7号に発表した「 上京。そして、突然の死 昭和7年6月27日(31歳)、当地(東京都大田区)の大森駅近くの踏切の側の溝に落ち死去。
死後、作品集が編まれる ■ 石川善助 評
当地と石川善助昭和3年(27歳)、東京に出てきてからの善助は、同じ東北出身の竹村俊郎をたびたび訪ねている。竹村の日記によると、少なくとも5回。 竹村が当地(東京都大田区南馬込一丁目59 map→)に越してくるのが昭和6年12月。 翌昭和7年の6月26日、善助はそこを訪ね、一杯やったあと、二人して大森駅近くのバー「白蛾」に繰り出した。たまたまいた詩人の近藤
参考文献●『詩人 石川善助 ~そのロマンの系譜~』(藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行)p.148 ●「石川善助とあの頃の詩人たち」(天江富弥 「河北新報」(昭和48年3月9日掲載)) ●『大田文学地図』)(染谷孝哉 蒼海出版 昭和46年)P.129、P.273-274 ●「賢治と善助をめぐる書簡(学芸員資料ノート)」(赤間亜生)※「仙台文学館ニュース 第5号」(平成16年3月31日)P.6-7 ●「詩誌『L.S.M』 ~若き詩人たちの足跡〜(学芸員資料ノート)」(赤間亜生) ※「仙台文学館ニュース 第7号」(平成17年3月31日)P.6-7 ●『ふるさと文学館 第五巻』 (ぎょうせい 平成6年発行)※この文献では、善助の死因を「電車から落ちて」としている ●『最新大森区明細地図』(東京日日新聞発行所 昭和10年発行) ●『詩人 石川善助 資料(第一号)』(編集・発行:木村健司 昭和52年)P.59 ●「始原へ、不可能性へ 〜石川善助の詩の行方〜」(竹内英典)※「詩と思想」(土曜美術出版販売 平成30年10月号) 参考サイト●ウィキペディア/・ざしき童子のはなし(平成25年5月2日更新版)→ ●Yahoo!知恵袋/昭和初期の1銭通貨は今で言うと1円の価値ですか?→ 謝辞●仙台ご在住のT.K様から、善助の詩碑と墓所の写真、仙台の古地図のコピー、善助関連の情報がある「仙台文学館ニュース」 、木村健司編・発行 「詩人 石川善助資料(1~3)」 のコピーなどを頂戴しました。ありがとうございます。 ● 詩誌を編集されているA.Y様から、過分なるお言葉をいただきました。ありがとうございます。 ●竹内英典様が「詩と思想」(平成30年11月号 土曜美術社出版販売)で、当地(東京都大田区)での善助の死にいたる状況についての拙論を紹介してくださいました。ありがとうございます。 ※当ページの最終修正年月日 |