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鎧懸松坂下での死(昭和7年6月27日、石川善助、死去する)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌川広重(初代)の「品川大井八景坂鎧掛松」全体図→より。源 義家が奥州侵略のおりに鎧を懸けたという鎧懸松。海沿いの東海道を江戸に向かう人の多くが、大森で東海道を離れ、八景坂を上って八景坂に向かう人たち?→、景色がよかった池上道(現「池上通り」。江戸時代までの「 いにしえ の東海道」)に出て(八景坂を上りきったところに鎧懸松があった)、江戸に向かった(東海道だとこの先に刑場があるので避けたか)。広重(初代)の「名所江戸百景」の鎧掛松には手前の八景坂を上ってくる人も描かれている全体図→ 部分→ ※「パブリックドメインの絵画(根拠→)」を使用 出典:「品川大井八景坂鎧掛松(「広重東都 坂盡 さかづくし 」の一つ )」(歌川広重(初代) 天保11-13年(1840-42年)の作)(NDL→、「八景坂鎧掛松」(「名所江戸百景」の一つ)(歌川広重(初代) 安政3年(1856年)刊)(東京都立図書館→


石川善助

昭和7年6月27日(1932年。 当地(東京都大田区)の大森駅近くの溝で身元不明の遺体が発見されました。

9日後(7月5日)、連絡が取れない石川善助(31歳)を心配した友人らが報知新聞社と大森警察(東京都大田区大森中一丁目1-16 Map→)に照会した結果、善助であることが判明します。踏切で電車にあおられて溝に落ち、溺死したとされました。

遺体発見の前日(6月26日)の午後5時半頃、善助は、当地(東京都大田区南馬込一丁目59 Map→)の竹村俊郎(36歳)の家を訪れています。 二人は大衆バーで杯を重ね、さらに大森駅近くのバー「白蛾」に繰り出しました。共に東北出身で親近感があったのかもしれません。「白蛾」 には、偶然、近藤 あずま がいて、3人でしこたま飲んだようです。午後10時頃、竹村が店を出ると、あとを追って善助も店を出ます。その後善助は一人になって、事故が起きました。

当日行動をともにした竹村の日記は、なぜか昭和7年の分だけ欠落しています。善助の死は、竹村にとって、“思い出したくない過去”だったのかもしれません。竹村を追って店を出た善助竹村に何か頼みごとをしたなんてこともあったでしょうか。そしてそれを竹村が断り、その後に事故があったのだとしたら・・・

詩で食っていくことを夢見た善助が東京に出てきたのが、4年前の昭和3年(27歳)です。しかし、詩で食っていくことなどは容易でありません。 売れっ子詩人の北原白秋ですら極貧にあえぐくらいですから。 善助はこの年(昭和7年)の1月から新宿十二社(じゅうにそう。現・東京都新宿区西新宿四丁目あたり Map→)の草野心平(29歳)の家の二階に居候していました。

善助は子どもの頃から片足が不自由でしたが、一ヶ月ほど前、酔っぱらってマンホールに落ち、もう一方の足にも骨が5センチほど見える傷を負いました。「都落ちせんの心でいつぱい」「行方もわからなくなるだろう」と気弱なことを知人あての手紙に書いたり、自らの最期を予見するかのような詩「GLIDER」(事故の7日前(6月20日)の作。善助の絶筆。Text→を知人あての手紙に添えたのもその頃です。

善助の死の状況を詳しく見てみましょう。

もっとも詳細に報道されたという発見日翌日(6月28日)の「報知新聞」によると、

二十七日午前四時五十分頃、市外入新井町新井宿二三三七番地先、山王下踏切側の下水に死後四時間位を経過した三十歳位、一見文士風の男が溺死してゐた。大森署で検視の結果、・・・(中略)・・・死因は踏切通行中列車にあふりをくつて下水に転落溺死したものらしい。

「新井宿2337番地」は、現在「ララ大森駅ビル」(以下、「大森ララ」。東京都大田区山王二丁目1-5 Map→)が建っているあたりです。「山王下踏切」とありますが、当時の地図にもありません。地図に載らないほどの小さな踏切だったのでしょうか? そこを渡ろうとして、転落したということでしょうか? しかし、どういう状態で「転落」したのでしょう?

「大森ララ」あたりにあったという「鎧懸松」の浮世絵(上図参照)を見ていて、ハッとしました。松の海側(今の線路側)が崖になっていることに今更ながら気がつきました。今は気づきづらくなっていますが、 「大森ララ」の建つ池上通りから線路(東海道本線、京浜東北線)へはかなりの急斜面です(今は階段になっている)。当時善助は両足とも不自由でしたし、泥酔していたでしょうから、そこを烈しく転げ落ち、溝にはまって気を失い、水たまりに顔を突っ込んで溺死したのではないでしょうか。「白蛾」 は線路の向こう側(斜面の下側)で、竹村の家はこちら側(斜面の上側)です。竹村を追って斜面の上に出た善助は、斜面の下側の「白蛾」 に戻ろうとして、転落したのではないでしょうか。

尾﨑士郎の『青い酒場』NDL→酒場のマダムをモデルにして書かれ問題になった小説)には、善助の死の状況を示していると思しき箇所があります。

・・・二つの影法師がひつそりとした夜道の冷めたい石垣の上にうかんでゐるのを見た。その下は深い泥溝だつた。黒部仁介の友人である若い詩人がつひ二三日前、「青い酒場」からのかへりみちに、ふらふらとあるいて、そのまま泥溝へ落ちこんだ。・・・(中略)・・・その男がこの場所で死んだにちがひないといふことがすぐにわかつた。・・・(尾﨑士郎『青い酒場』より)

善助の死は、踏切で電車になんとなく寄っていってしまい弾かれたという自死に近いイメージをもっていましたが、坂を転げ落ちた純粋な事故だったのかもしれません。所持品にフランス語の翻訳原稿があったというし、その詩才は仲間内で認められつつあったし、詩友にも恵まれていたし、苦しいながらも生きる気満々だったのではないでしょうか。

大正14年発行の地図。線路の左脇のマーキング箇所が、善助の遺体が発見された「新井宿2337番地」。現在の「大森ララ」あたり。善助は現在の大森駅北口の改札からホームに降りる階段の下あたりに横たわっていたのだろうか。左のマーキングは池上通りとジャーマン通り 駅ビル「大森ララ」内の大森駅北口へ行く階段。鎧懸松の下の斜面(崖)を思わせる傾斜がある。左手前に見えるのは、鎧懸松があったことを示す案内板
大正14年発行の地図。線路の左脇のマーキング箇所が、善助の遺体が発見された「新井宿2337番地」。現在の「大森ララ」あたり。善助は現在の大森駅北口の改札からホームに降りる階段の下あたりに横たわっていたのだろうか。左のマーキングは池上通りとジャーマン通り 駅ビル「大森ララ」内の大森駅北口へ行く階段。鎧懸松の下の斜面(崖)を思わせる傾斜がある。左手前に見えるのは、鎧懸松があったことを示す案内板

広重(初代)は「江戸の人」ですが、幕末まで生きています。黒船来航(1853年)時も存命でした(1858年に死去)。写真の時代(日本での初めての写真撮影は、黒船でやってきたエリファレット・ブラウン・ジュニアによってなされた)が到来するまでは、誇張や省略があるものの浮世絵がビジュアル的な記録の多くを担いました。

草野心平『私の中の流星群 〜死者への言葉〜(新編)』(筑摩書房)。善助に一章がさかれており、善助の最晩年が分かる 竹村公太郎『江戸の秘密 〜広重の浮世絵と地形で読み解く〜』(集英社)。広重の浮世絵では何がどう描かれ、それが何を意味するか?
草野心平『私の中の流星群 〜死者への言葉〜(新編)』(筑摩書房)。善助に一章がさかれており、善助の最晩年が分かる 竹村公太郎『江戸の秘密 〜広重の浮世絵と地形で読み解く〜』(集英社)。広重の浮世絵では何がどう描かれ、それが何を意味するか?
萩島 哲、鵤 心治(いかるが・しんじ) 、坂井 猛『広重の浮世絵風景画と景観デザイン〜東海道五十三次と木曽街道六十九次の景観〜』(九州大学出版) 高橋克彦『浮世絵鑑賞事典 (角川ソフィア文庫)』。寛永期(1624-1645)から明治時代までの代表的浮世絵師59名の92作品
萩島 哲、鵤 心治いかるが・しんじ 、坂井 猛『広重の浮世絵風景画と景観デザイン〜東海道五十三次と木曽街道六十九次の景観〜』(九州大学出版) 高橋克彦『浮世絵鑑賞事典 (角川ソフィア文庫)』。寛永期(1624-1645)から明治時代までの代表的浮世絵師59名の92作品

■ 馬込文学マラソン:
石川善助の『亜寒帯』を読む→
北原白秋の『桐の花』を読む→
尾﨑士郎の『空想部落』を読む→

■ 参考文献:
●『詩人 石川善助 〜そのロマンの系譜〜』 (藤 一也 萬葉堂出版 昭和56年発行)P.387-413、P.456-457 ●『断髪のモダンガール(文春文庫)』(森 まゆみ 平成22年発行)P.116 ●『酔いざめ日記』(木山捷平 講談社 昭和50年発行)P.5 ●『私の中の流星群 〜死者への言葉〜』(草野心平 新潮社 昭和50年発行)P.121-125 ●「ララと松 〜伝説の鎧懸松が、ここにあった。〜(パンフレット)」(発行:大森ララ)

※当ページの最終修正年月日
2022.6.27

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