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絶対性の悪用(明治24年1月9日、第一高等中学校にて不敬事件)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

内村鑑三

明治24年1月9日(1891年。 内村鑑三(29歳)が、「教育勅語」末尾の天皇の署名( 宸署しんしょ ) に敬礼しなかったことで、日本中が大騒ぎになりました。「(内村鑑三の)不敬事件」と呼ばれるものです。

万延2年(咸臨丸渡米の翌年。1861年)生まれの内村は、12歳で高崎から単身上京、英語を学びました。15歳で札幌農学校に入学し、翌年キリスト教の洗礼を受けます。23歳で渡米、アマスト大学(札幌農学校の創設者・クラークの母校)を卒業し、4年後に帰国、教鞭をとっていました。「不敬事件」は、第一高等中学校で教鞭を取っている時に起きました。

「宸署礼拝」という、60名の職員と1,000名以上の生徒全員が壇上で宸署に最敬礼するという「奇妙な儀式」がありました。内村お辞儀はしましたがそれが最敬礼でなかったというそれだけのことで、全国的な問題になりました。内村の家には投石され、妻の加寿子は近所の買い物すらままならなくなったのです。校長の「このままだと学校が潰れかねない」との脅しもあり、内村は依願免職となりました。同僚の木村駿吉(木村摂津守(芥舟)の次男)も内村のために尽力したため職を失いました(木村が内村に代わってお辞儀のやり直しをした)。妻の加寿子は「不敬事件」の3ヶ月後に死んでしまいます。その辛労はいかほどであったでしょう。なんせ、ほぼ全国民からいじめられるようなものですから。

「不敬事件」の余波はその後5〜6年続き、農村地帯では、村八分にされていじめられるクリスチャンが数多くいました。内村の名を聞いて宿泊を拒否する宿もありました。

この時期、友人の新渡戸稲造も宮部金吾も内村に対してやや冷やかでした。内村の肩を持つことは自身に危険を招くことでもあったのです。ただ、本郷教会の牧師・横井時雄(横井 小楠 しょうなん の息子)だけは、内村に教会での旧約聖書の講義を依頼、内村に再起のきっかけを与えました。「落雷にやられた」ような一時期でしたが、内村はその間、思索と信仰を深めます。2年後(明治26年。内村31歳)に著した『 基督 キリスト 信徒のなぐさめ』Amazon→は、この時期の自己を見つめ告白した一書で、日本近代文学の先駆けと評価されています(島崎藤村の『破壊』の発表が13年後の明治39年)。

内村が最敬礼しなかった「教育勅語」(正確には「教育勅語」末尾の宸署)とは何でしょう?──「教育勅語」は、「(内村鑑三の)不敬事件」があった前年(明治23年)に発布された勅語(天皇の言葉)で、地方の長官から徳育強化を迫る建議があって、時の山縣有朋内閣がそれを受けて成立しました。

明治22年「大日本帝国憲法」(明治憲法)が公布。その条文に従って、翌明治23年7月に初めての衆議院議員総選挙が行われ、初の国会(帝国議会)も開かれました。選挙権を得たのは直接国税を15円以上納める25歳以上の男性に限られ全人口の1.1%に過ぎませんでしたが、民権派の流れをくむ野党勢力(民党)が政府系の党派(吏党)を圧倒、政府首脳は「国民の権利を認めていったら我らの政権維持は覚束ない」と危機感を強めたことでしょう。「教育勅語」は第1回衆議院選挙の3ヶ月後に公布されました(明治23年10月)。

「教育勅語」は315文字あり、内容は、天皇の権威を謳い国民は天皇によく仕えよというもので(あとは、父母へ孝行し、兄弟姉妹、夫婦、友と仲良くし、たくさん勉強して世の中のために働きなさいといった類)、大日本帝国憲法の内容や一般道徳を超えるものではありませんでしたが、文部省は「教育勅語」の謄本を作って全国の学校に配布、行事や儀式でそれを奉読させ、礼拝させ(最敬礼させ)、絶対化(神聖化。「有無を言わせない」化)したのです。クリスチャン(内村は自分をキリスト者と呼んだ)がキリスト教が考える唯一神以外を礼拝しないのは当然ですが、それを徹底的に非難・迫害し、その様子を全国に知らしめることで、「教育勅語」に対する畏敬の念(というよりは恐怖感)を国民に植え付けました。内村はそのスケープゴード(生贄いけにえ、見せしめ)にされたわけです。その政府の作戦にマスコミも大いに加担したことでしょう。しかして、国民の自由は厳しく制限されます。「教育勅語」にそぐわないことを言ったりしたりすれば(当局がそぐわないと判断したら)、天皇の言葉に背く行為と見なされ、「不敬であるぞ!」になったのです。天皇に言及する場合「恐れ多くも」との枕詞が置かれ、教育勅語を盗まれた校長が家族5人と無理心中をはかるといったことまであります。

不敬罪」は明治13年に公布された「旧刑法」(刑法典)で規定されました。

山川均

最初に「不敬罪」が適用されるのは、「旧刑法」制定後20年した明治33年です。この頃、当局の締め付けが厳しくなったことを示しています(明治31年、幸徳秋水らが社会主義研究会を組織)。犠牲になったのは、やはりキリスト教関係者でした。小冊子「青年の福音」を出していた山川 均(19歳)、守田文治(18歳。後の守田有秋)と、その冊子を置いた書店「中庸堂」の主人が起訴されて、前者二人に重禁錮3年6ヶ月、罰金120円、監視1年の判決がおりました(未成年だったので刑が軽くなった。控訴審で「中庸堂」主人は無罪となる)。

明治33年に嘉仁よしひと親王(後の大正天皇)と九条公爵家の第四女・節子が結婚します。学習院の「ご学友」と接触のある確かな家からの情報で、この結婚が節子の望まぬものだったことを知った守田は、「人は愛によって自由に結婚する権利がある」と、皇室における人権軽視を指摘する文章を掲載しました。文章は抽象的で皇室を指す言葉は一つもありませんでしたがダメでした。山川は執筆していませんが、共に雑誌を出した一人として同罪となりました。

このように、戦前・戦中と「不敬であるぞ」と不敬罪は、治安維持法とともに、自由な発言を弾圧する具として機能しました。

「教育勅語」は、敗戦後の昭和23年、日本国憲法の精神に反するとして、衆参両院で失効を決議、謄本は回収され処分されました。

天皇でなくとも、他のものでも絶対化・神聖化すれば、弾圧の具となります。

平成29年3月31日、安倍晋三内閣は「教育勅語」を「憲法や教育基本法に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という答弁書をわざわざ●●●●閣議決定しました。「教育勅語」のそれぞれの徳目(例えば「父母へ孝行」とかいった)を教材にするというのならわざわざ「教育勅語」を持ち出すまでもないのに、わざわざ●●●● 持ち出しました。当然、何らかの意図があるのでしょう。

小原 信『内村鑑三の生涯 〜日本的キリスト教の創造〜(PHP文庫)』。本格評伝。年譜、関係論考一覧あり 『教育勅語の何が問題か(岩波ブックレット)』。編:教育史学会。その本質を明らかにする
小原 信『内村鑑三の生涯 〜日本的キリスト教の創造〜(PHP文庫)』。本格評伝。年譜、関係論考一覧あり 『教育勅語の何が問題か(岩波ブックレット)』。編:教育史学会。その本質を明らかにする
髙井ホアン『戦前不敬発言大全 〜落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説〜 (戦前ホンネ発言大全 第1巻) 』(パブリブ) 堀 新『13歳からの天皇制 〜天皇・皇室を知れば憲法がわかる。〜』(かもがわ出版)。天皇制を“悪用”しようとする(“不敬”な)人たちを見破るためにも
髙井ホアン『戦前不敬発言大全 〜落書き・ビラ・投書・怪文書で見る反天皇制・反皇室・反ヒロヒト的言説〜 (戦前ホンネ発言大全 第1巻) 』(パブリブ) 堀 新『13歳からの天皇制 〜天皇・皇室を知れば憲法がわかる。〜』(かもがわ出版)。天皇制を“悪用”しようとする(“不敬”な)人たちを見破るためにも

■ 参考文献:
●『内村鑑三の生涯 〜日本的キリスト教の創造〜』(小原 信 PHP研究所 平成9年発行)P.3-20、P.179、P.212-222、P.392-408、P.668-669、P.675 ●「教育勅語」(尾﨑ムゲン)※「日本大百科全書(ニッポニカ)」(小学館)に掲載コトバンク→ ●『詳説 日本史研究』(編集:佐藤 まこと 五味 ごみ 文彦、 高埜 たかの 利彦、 鳥海 とりうみ 靖 山川出版社 平成29年初版発行 令和2年発行3刷参照)P.350-351、P.361-363、P.366 ●『山川 均自伝』(岩波書店 昭和36年初版発行 昭和45年発行7刷参照)P.165、P.182-191、P.204 ●「戦前の教育勅語の活用方法(すべて実話)」(堀 新Twitter→ ●「「教育勅語の教材使用を認める」閣議決定に対する書記長談話」(清水秀行)日本教職員組合→

※当ページの最終修正年月日
2023.1.9

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